6

 いろいろな事態が起きると頭の中がこんがらがる。
 重要なことから順番に意識をするわけではない。目に付いた事柄から処理していく――者もいる。
 たとえば――。
 玄関を出たら家の前が遊園地だったらどうするか。
 そういう者は、目を丸くしているあいだに着ぐるみのシロクマに手を引かれて、一緒にメリーゴーランドに乗って、ジェットコースターに乗って、アスレチックをやって、振り子の飛行船に乗って、空中ブランコに乗って、ループチューブをゴムボートで下って、ゴーカートに乗って、「きゃっほぉい」とバンジージャンプをやって、観覧車まで乗ったところで「そういえば、どうして玄関の前に遊園地があるんだ?」と疑問を抱く。「すげえ大変なことじゃん? なんだなんだ? どうなっているんだ?」と慌てふためく。
 いまのタフがまさしくその状況だった。
「いま『水ようかん』をひとり当たり700個近くのペースで回収しているけどな。ぜんぜん、追いつかないんだ。『水ようかん』はどんどん発生している。このままじゃ、世界中が『水ようかん』で埋まっちまうんじゃないか?」
「落ち着け」
 ダブルはタフの額をぺしりと叩いた。タフは頬を真っ赤にして肩を怒らせ眼前に顔を突き出していた。
「たとえ『水ようかん』がいまの5倍、すなわち10万個体発生したとしても、しょせんは1個体あたり手のひらサイズだよ? 埋まるわけがないじゃん。人間なんか70億人いるけど人間がいない地域はまだまだたくさんあるじゃんか」
 おお、とタフは呆れるほど素直に姿勢を戻した。人間に置き換えてみて、ようやく理解できたらしい。
「なら、世界はどうなっちまうんだ?」
「えぇ」
「オレが持ち帰った検体が『水ようかん』だってことはわかったけどな。それがこんなにうじゃうじゃと湧き出ているんだ。尋常じゃねえだろう。どうなっちまうんだよ」
 至極まっとうな疑問だ。むしろ一番最初に抱くべき疑問といえよう。玄関を出て遊園地だったら、シロクマに手を引かれる前に、「なんでここに遊園地があるんだ!」と叫ばなくてはいけない。
 ダブルはボールペンの尻で耳をほじった。タフにはなにからいえばいいか。面倒くさいな。なんでこんなことでぼくは悩まなくちゃいけないんだ。バカバカしい。タフのことだ。理解しなくても、「わかった気」になるまでラボから去らないだろう。「さっさと第一報を書けば」と突き放すのも逆効果だ。
 ダブルはちらりと作業台へ目を向けた。水素もリチウムも関わりに合うまい、と視線を作業台へ釘付けにしていた。ヘリウムは背中を向けてダブルから依頼された抽出作業を黙々と進めている。
 もとよりヘリウムくんを巻き込む気はないけどね。ヘリウムくんには作業を進めてもらわないと実験ができないからね。
「おい。笑っていないでなんとか言え」
「んもう。パラダイムシフトでもやりたいんじゃないの」
「は?」
「だから。地球がパラダイムシフトしたがっているっていったの」
「……パラダイムシフトってなんだ?」
「えぇ」
 気が遠くなる。
「意識改革のことです」
 ヘリウムがタフの隣りに立っていた。いつの間に! ダブルは目を見張った。さっき見たときには壁面装置の前にいたのに。
「あ、あのねヘリウムくん。きみはいいから作業の続きを――」
「だれの意識だ」
「それはもちろん対象は人間でしょう。地球上に発生していて、そしてあえて人間が作り出した『水ようかん』の形をとっているんですから。そもそもパラダイムシフトという言葉の場合は、いち個人の意識をさすわけではありません」
「わかったよ。ぼくが説明するからヘリウムくんは抽出の続きを頼むよ。まだ1000個体分は終わっていないんだろうが」
「あと817個体残っています。ですがタフさんにいつまでもラボにいられるとボクのほかの仕事が増えますから。作業台を直したり、散らかった検体をかたづけたり」
「オレが邪魔だっていうのか」
「邪魔だよ」「邪魔です」
 ダブルとヘリウムが声を揃える。しまった、とダブルが思ったときには遅かった。タフは再び顔を真っ赤にさせて作業台に両手をつく。
「地球上で大異変が起きているんだぞ! しかもそれが人間に対する意識改革だと? わけがわからん。そんなことをいわれてラボに戻れるか!」
 もう好きにしたら、とダブルは頬杖をついたが、ヘリウムは違った。
「タフさんはどうして『水ようかん』が発生していると思いますか?」
「わからんから、こうしてお前らに依頼したんだろうが」
「ここはアンノウン係です。未確認物質を調査する係です。それ以上に関与する権限はありません」
「それでもお前らがいちばん『水ようかん』の実体に近い位置にいるわけだろうが。なにか思うところはあるだろう」
「だから、こうしてタフさんにたずねているんです。タフさんはどうして『水ようかん』が発生していると思いますか?」
「知らんわ! 知らんからこそここに持ってきたんだろうが! しつこいぞ」
「知らないながらも思うところはあるでしょう。それをお聞かせください」
「思うところって。と、とにかく不気味な事態で。どうしてなんて考えたことなんか」
「『ない』んですか? 本気ですか? リペア部はそこまでお気楽なんですか」
 う、とダブルは顔をこわばらせた。もしかしてヘリウムくんはものすごく怒っているんじゃないのかな。抽出作業の邪魔をされて怒り心頭に達してぼくとタフとの不毛な会話に割って入ったんじゃ。……間違いないだろう。あのヘリウムがここまでしつこくタフに食い下がるにはそれなりの理由があるはずだ。
 まずい。ダブルはこぶしを口に当てた。本気になったヘリウムがタフにどんな薬物を投与するか。筋肉弛緩剤か、筋肉融解剤か。いままでタフは痛覚を5倍にするアンプルとか強力精神安定剤とか精力増強剤を注射されても気合で持ち直していた。そんなタフでもさすがに瞬殺にちかい状況となるだろう。この忙しいのにタフに倒れられたら、タフに押し付けた第一報をぼくが書かなくちゃいけなくなるじゃん。モジャ毛にやらせるにしても、いきさつを説明するという手間がかかるぞ。まずい、まずいよ。
「係長は思いつきで『パラダイムシフト』などという言葉を使ったわけではありません。パラダイムシフトという言葉はボクにも同意できる点があります。1万8765個体を測定したからこそ伝わってくるものがありましたから」
 ほほう、とダブルは眉をあげた。さすがヘリウムくん。ヘリウムくんには地球の意図がわかっているようだね。ひょっとすると、いや、しなくても、ヘリウムくんも『水ようかん』を食べたのかもしれないねえ。だからこそ倒れたのかもしれないな。そうか。それは思いつくのが遅かったな。十分ありうることだったね。だからってケアできることはないけどね。ヘリウム自身の問題になるだろうからな。そうだね。
 まあ、こんなことをするくらいだから、多分、地球は人間を嫌ってはいないようだけどさ。さすがに懐が深いな。生きてきた年数が違うからねえ。46億年か。オレならこんな目に合っていたらとっくに反物質を使って人類を滅亡させているところだがな。確実だよね。エヘヘ。
「お前らがパラダイムシフトにこだわるのは勝手だがな。オレには『水ようかん』と意識改革がまったくつながらん。関連性がないだろうが」
「偏見だといいたいんですか?」
「そもそも、なんで人間がパラダイムシフトしなくちゃならないんだよ。第一、そりゃ『水ようかん』が地球の意思だとした上での話だろうが。そんなあやふやな観点で最終的な報告書を仕上げないでくれよ。黒色直方体が『水ようかん』だっていうだけでも十分にくだらないんだからな」
 ヘリウムが顔色を変える。当然だ。ヘリウムの測定結果を侮蔑したようなものだ。意識が昏倒するほど情熱をそそいで2週間かけて2万個体を測定したデータを『くだらない』と評価されたのだ。タフのやつ。この前は黒色直方体が『水ようかん』であることを納得してラボから出て行ったくせに。あんなにとうとうと2万個体の測定データの価値を語ってやったのに。
 ヘリウムが白衣のポケットに手を入れた。
 やばい。本気でヘリウムはタフを殺害する! 
 ダブルは素早くコンテナから検体をつかむと、タフの顔に突きつけた。タフをかばったわけではない。ラボで流血事件など後始末が面倒だっただけだ。
「タフも食べてみれば? ぐだぐだぬかすより話が早いよ」
「アホか! 食えるか! 『食うな』っていう第一報を書こうとしているんだぞ? オレが食ってどうする!」
「『食うな』じゃないよ。『命に支障はない』だよ。クレーム沙汰になるからな。余計なことは書くな。そしてさっさと書きにいけ」
「指図されずともそうするわい!」
 タフは鼻息を荒くすると、自分の疑問はなにひとつ解消されていないことにも気づかず、今度こそ本当にラボから出て行った。やれやれ、つくづく人騒がせな男だな。ダブルはキャラメル色の椅子に座り込む。
 ヘリウムは無言でダブルに背中を向けると肩を怒らせたまま簡易キッチンに立った。まな板の上でばんばん音を立てて野菜を切り始める。気持ちはよくわかる。作業を妨害された上に仕事を侮蔑されたのだ。よく我慢したと褒めてやるべきだろう。我慢、したのかな? 殺害はしなかっただけで……。
 ダブルはそっとラボの外に出た。ドアの影から通路をうかがう。足音にぎやかに歩くタフの背中が見えた。そのタフが不意に足を滑らして転倒する。通りかかりのシェフが「うお」と飛びのいた。タフは腹部を押さえてのた打ち回る。ダブルはにやりと笑った。「こんなところで腹痛を起こすな。俺の料理が疑われるだろうが」とシェフの罵り声が聞こえる。間違いなくヘリウムの仕業だ。
 忍び笑いでラボへ戻ると、香ばしい匂いがふわりとダブルを包んだ。
 レンゲを片手に水素がダブルに手招きをする。
「係長―。ちょうどよかった。ヘリウムが飯作ってくれたっすよ。食いましょう」
「ヘリウムのご飯かぁ。うふふ。久々だねえ。泣いてもいいかなぁ」
 どれ、とダブルもリチウムの隣りに座った。
 作業台にはチャーハンと卵スープが乗っていた。チャーハンにも卵がたっぷりと入っている。ほうれん草だろうか。緑色が鮮やかだ。ひと口含むとチャーシューが香ばしくゴマ油の香りが口いっぱいに広がった。卵スープもまろやかで身体中に染み渡っていくようだ。
 ダブルはレンゲを皿に置く。
 そしてヘリウムを見てにっこりと笑った。
「ヘリウムくん。お帰り。退院、おめでとう」
 ヘリウムがアンノウン係に戻っておよそ3時間。
 ようやくダブルはヘリウムにいたわりの言葉を口にした。

(第5章の1 へ続く)

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