第4章 ガイア・ワールド

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 ヘリウムがラボの入口で立ち尽くしていた。
 タフから送りつけられた、地球で一斉に発生した未確認の検体、2万個体を2週間で測定するという荒業をやり遂げて、過労で倒れて2週間入院していた。その2週間がようやくすぎて、いままさにアンノウン係へ復帰しようと、ラボへ足を踏み入れたところだった。
 ヘリウムはもともと表情に乏しい。なにを考えているのかわからない。もくもくとラボの壁面装置に向かって測定作業にいそしむ。そんなヘリウムにダブルが遠慮なく「バナナジュースが飲みたい」と訴えれば、これまた無表情でバナナジュースを製造するというありさまだ。怒っているのか、悲しんでいるのか、喜んでいるのか、楽しんでいるのか、通常のヘリウムの表情から読み取ることは無理だ。
 過労で倒れる寸前でも、ヘリウムは無表情だった。無表情で、「再測定の検体がないかどうか、急いで確認をしてください」とリチウムを急かした。そして無表情のまま、床に崩れたのだ。
 そのヘリウムがラボの中を見回していた。
 中には入ってこない。
 それもそのはずだ。ラボの中は未処理の検体やら、水素が書き散らかした書類やら、ヘリウムが撒き散らしたメモやらで床が見えない。ヘリウムの黄緑色の椅子もどこにあるのか見えなかった。ヘリウムが大切にしている壁面装置にいたっては、照明が落とされて、稼動休止状態になっていた。
「あ、あ、あの、ほら、下手に触って壊してもなんだと思ってな。せ、せめてキャリアーガスだけは流しておいたんだぜ。と、とにかく退院おめでとう、ヘリウム。よく帰ってきてくれたな。俺はお前が戻る日をまだか、まだかと――」
 水素は言葉半ばで涙ぐむ。演技ではない。ヘリウムが抜けたラボのフォローは水素がほとんどひとりで行っていた。たとえそれが誤魔化すことに徹するだけだったとしても、水素はヘリウムの代わりによくがんばっていたといえよう、とダブルはうなずく。
「僕も嬉しいよ、といいたいところだけど……」
 リチウムはうふふ、あはは、と微笑むと、突然周囲にあったメモを撒き散らして立ち上がった。膝近くにあったパネルが勢いよくひっくり返るのも構わない。
「なんだよ! どうして本当に2週間で退院してきちゃうんだよ! こんな極悪な作業環境のラボなんて放っておいて医務室でゆっくりしてこればいいじゃないか! どうしてくれるんだ! 僕はまだ、まだ、まだ――ぜんぜん解析が済んでいないんだよ? お前が戻るまでに解析を終えるって、係長と約束しちゃったんだからね! 約束が守れないと僕は係長の代わりに――」
 うわあ、とリチウムは白衣を脱ぐと床にたたきつけた。
「こんなラボなんてもうやっていられないよ! 僕が何日寝ていないと思っているんだい! 6日だよ! 6日! もう知らない! 僕は寝るんだ!」
 そのままらせん階段を下りて住居エリアへ向かおうとするリチウムの腰ベルトをダブルがマジックハンドでつかんだ。
「どさくさにまぎれてなにをしようとしているんだい? 大丈夫。6日や10日くらい寝なくったって技術開発部員たるもの、死にはしないって。エヘヘ」
 ダブルはついでとばかりにリチウムを背負い投げする。リチウムが宙に浮いている瞬間を狙ってリチウムの背中に精力剤を打った。床に仰向けで倒れたリチウムは、「あれ?」と首に手を当てて身体を起こす。
「僕はどうしちゃったんだい? お。ヘリウムじゃないか。退院したのかい? そりゃめでたい。おめでとう。きみがいなくてとても淋しかったよ。3人だとどうしても殺伐とした雰囲気になっちゃうしね。うふふ。きみの美味しいご飯が恋しいからかな?」
「とにかく入ってこいや。そんなところで突っ立っていてもラボが片付くわけでもなし。こんなとこだけど、退院祝いでもやろうぜ」
 水素の呼びかけに、ヘリウムは肩を震わせた。
 2週間。たった2週間留守にしただけでラボがこれほど荒廃してしまうとは。自分ひとりいないだけでラボをここまでのゴミ溜めにしてしまえるとは。このひとたちはいったい――、とヘリウムが怒り出すのではないかとダブルをはじめ水素とリチウムが身構えたときだ。
 ヘリウムはラボの中に飛び込んできた。
 真っ直ぐに壁面装置へ走っていく。
 床の検体を踏みつけて、書類を舞い上げ、メモを蹴り飛ばし、ヘリウムはわき目も振らずに壁面装置に両手を広げた。
「エリザベス号! よかった! 無事だったんだね! ボクはお前がばらばらに分解された様子ばっかりを夢で見て、ずっとうなされていたんだよ。本当に、本当によかった……」
 ヘリウムは壁面装置を両手で抱いたまま号泣した。
「エリザベス号、って。その壁面装置の名前か? それは……知らなかったな。一緒に仕事をするようになって3年はたつけど、ちっとも知らなかったぜ」
 僕も、ぼくも、とリチウムとダブルも呆然とヘリウムの背中を見た。
 おそらく言葉どおり、ずっとヘリウムは壁面装置エリザベス号の心配をしていたのだろう。羽織った白衣が大きく見えるほど、ヘリウムの身体が小さくしぼんでいるのがわかる。筋肉オタクの医務室室長の力をもってしても、2週間の入院中にヘリウムの体質改善はなされなかったようだ。むしろ入院する前のほうが元気に見える。規則正しい食生活を2週間も行った人間の身体にはとうてい見えない。
 タフなら即刻室長に文句をいいにいっただろうねえ。理不尽だとかなんとかいってな。エヘヘ。見舞いのひとつもしなかったぼくがどうしていえるだろうねえ。迎えにもいかなかったしな。ううん。ちょっとひどかったかな? いいんじゃないか? ヘリウムはエリザベス号が無事だっただけで十分幸せそうだぞ? だよね。
 ダブルはキャラメル色の椅子をくるくると回した。
 それよりヘリウムにはやってもらわないといけないことがあるだろう。そうだったね。水素くんは書類書くしか能がないし。リチウムはいまだ解析が終わっていない。すると病み上がりではあるがヘリウムに頼むしかない。ぼくがやってもいいんだけど。きっとぐちゃぐちゃにしちゃうからヘリウムくん、怒るだろうしね。
「ヘリウムくん、あのね」
 ダブルの猫撫で声でヘリウムは我に返ったようだ。ダブルが猫撫で声を出すときは決まっている。なにか仕事を依頼する場合だ。
 ヘリウムは涙を拭って立ち上がると、濁った目でラボの中を見回しなおした。眼球をせわしく動かしている。なにやら計算をしているようだ。
「20分です。待ってください。片付けますから」
「20分で2週間分を片付けられるのかよ! やめとけ! また倒れるぞ」
 水素が真顔で止めた。
「そんなヘマはもうしません。心配ありません。この度は自己管理が不十分でご迷惑をおかけしました」
 いい放つやいなや、ヘリウムはラボの片付けを始めた。
 壁面装置周辺の照明をつけてコンテナを取り出し、手に取った検体をヘリウム独自の分別方法でコンテナに入れていく。情報調査部員も真っ青な手腕だ。いまなお『新着検体です』というアナウンスとともに転送機から吐き出されている検体まですべて整理整頓をして、手持ちのパネルに検体の情報を入力しつつ、コンテナを壁面装置の端へと順番に並べていく。ラボの床が見えるようになるまで、ものの5分。らせん階段まであふれていた検体がすべてコンテナにおさまって床から検体が消えるのに、10分とかからなかった。ヘリウムの黄緑色の椅子もちゃんと姿を現した。ヘリウムは走り回っているふうにはまったく見えず、むしろ物憂げに動いているように見えるにもかかわらずの処理能力だ。
 途中なんどか水素が「俺たちも手伝うぜ」とヘリウムに声をかけた。そのたびにヘリウムは「結構です」と断言した。それでも手を出そうとするリチウムには「触らないでください」と冷たく手を叩いた。
 無表情なのでわかりにくいが、これでもヘリウムは一応怒っているらしかった。壁面装置エリザベス号が無事だったのはなによりだ。それでもここまでラボを荒らすことができるダブルと水素とリチウムに呆れ返っているようだ。
 使えないひとたちだとは思っていたものの、よもやここまで使えないとは、という思いがヘリウムの身体全体から漂っている。他人に期待するのは止めよう、という姿勢が手の動きひとつに現れている。期待できるならばラボはここまで荒廃することはなかった。その点ではヘリウムの見解は正しいといえよう。
「俺たちが2週間かけても片付く気配も見せなかったのに――」
 水素が久々に目にする床を見て、目に手を当てた。
 ヘリウムはますます無言になって作業台へと手を伸ばす。
 水素用に書類の束をトレーに入れて、リチウム用に解析メモをプラスチックの箱へと入れる。ダブルのためにはサインをするだけの書類を垂直に並び替えて、でっぱりのないように書類を調えた。雑巾で念入りに作業台を拭き、最後はエタノールで拭くという念の入れようだ。その手作業の間に自動掃除機を動かして床を徹底的に磨き上げていた。同時に壁面装置を稼動させて、いつでも分析ができるよう、準備も進めている。
 ヘリウムは壁面装置に異常がないことを確かめて、ダブルに振り向いた。
 かっきり20分後だった。
「で。なんですか係長」
「うん。タフの検体から『水』と『小豆』と『寒天』と『砂糖』を取り出してほしいんだよ」
 ヘリウムが目をしばたたく。
 ああそうか、ヘリウムくんは検体の正体が『水ようかん』だって知らないんだっけ。いおうとしたときにはすでに倒れて水素に背負われて医務室にいたんだったな。あれからもうそんなに時間がたったんだねえ。いまごろ地球上では大騒ぎだろうな。そうだね。
 笑うダブルを見てヘリウムはいろいろ理解したようだ。
「つまり、ボクが測定した1万8765個体の検体の測定データによると、この黒色直方体は和菓子の『水ようかん』だったと」
「うん。そう。くわしい解析はリチウムくんがやっているところ」
 なるほど、とヘリウムは顎に手を当てる。さすが技術開発部員。タフのように事態に取り乱すことがない。ヘリウムにとっては検体が『水ようかん』だろうと『チーズスフレケーキ』であろうと、驚くべき結果ではないらしい。測定をしたのはヘリウム自身だ。2万個体の検体測定データはウソをつかない。データはデータで、それにケチをつけるような科学者はここにはいないのだ。
「もう新しく送られてくる検体には手をつけなくていいよ。どうせ『水ようかん』だから。ぼくの予想ではね。あと2万個体は送られてくるはずだね。エヘヘ。もっとかもな」
 だから、とダブルは白衣のポケットに両手をつっこむ。
「その『水ようかん』の新着検体が多すぎて別の検体も入る余地がないだろうからな。きみの愛しのエリザベス号で『水ようかん』から『水』と『小豆』と『寒天』と『砂糖』を取り出してくれ。『寒天』は粉末状でいいし『小豆』はさらしあん状態で構わないよ」
「1万8765個体からですか」
「そうして欲しいのはやまやまなんだけど。急いでいるからな。無作為に1000個体を選別して、それから『水』と『小豆』と『寒天』と『砂糖』を取り出してくれ。ヘリウムくんなら技術的に問題はないよね」
 まあ、できます、とヘリウムは歯切れの悪い口調になる。
「いちおう概算をしますと、1個体がこのサイズの『水ようかん』ですから、標準的な素材構成だと仮定して、1000個体から抽出しますと、『水』は29200グラム、『小豆』は3300グラム、『寒天』は420グラム、『砂糖』は6700グラム程度になります。それでいいですか?」
「確率でいうと、2万個体中の1000個体分だから悪くはないよね。ちょっとした実験をやりたいんだよ。1週間でできるよな」
「余裕です。なにをやるんです?」
 ダブルはにんまりと笑う。
「『ガイア理論』にまつわる実験」
「ああ」
 とヘリウムがうなずいた。
「なんすか、ソレ」
 と同時に水素が首をかしげた。リチウムも「?」といった顔つきをしている。
 えええ。ちょっと待って? なんでこいつらこんな反応をするわけ。まさかとは思うけど、こいつら『ガイア理論』を知らないだと? バカな! そんな世代? いやいや、世代は関係ないだろう。だよね。えええ。ダブルは両手をはわわと震わせた。
 そんなダブルに、ヘリウムが隣りにやって来て、なぐさめるようにダブルの肩をぽんと叩いた。

(2 へ続く)
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