6 2週間後。 「終了しました」 ヘリウムがダブルに告げた。 ダブルが撒き散らした『邪心を取り除く』ガスが技術開発部の誰にも発覚せずに、無事に拡散消滅して穏やかな日常が戻ったころだ。ダブルが顔をゆがめて水素が差し出した100件分の書類にサインをしているときだった。 ヘリウムはそっと大量の測定データをダブルに差し出した。 「それって、もしかして――」 ダブルの声が途中で止まる。 案の定、ヘリウムが差し出したのはタフの検体の測定データだった。タフが最初に月面本社へ持ち込んだものだけでなく、その後ぞくぞくとアンノウン係に転送されて来たタフのいっていた検体、すべての測定データだ。 「1万8765個体。6225地点です」 「1万8765個体! ヘリウムくん、その全部を測定しちゃったの!」 「いけませんでしたか?」 ダブルはぶんぶんと首を振る。ダブルだけではない。水素もリチウムもぶんぶんと首を振っている。 すごい。たった2週間かそこらで2万個体近くの検体を測定するなんて。飲まず食わずかつ寝ないでやっても無理なのに、途中で『邪気を取り除く』ガスに感染したのに。タフや職人の乱入もあったのに。ヘリウムくんは頻繁にバナナジュースを作ってくれていたのに。ぼくなんて、まだ100件の書類にサインを終わっていないのに。それはオレがちんたらやっているからだ。嫌々だもんね。仕方ないよね。 だけど本当に2万個体近くの測定をやったのか? ヘリウムが嘘をつくわけがないとわかりつつも、ダブルは測定データをパネルに映す。黒地のパネル画面には緑色の数字が右上から左下へと映し出されていく。いつまでたっても数字の表示は終わらない。20分以上が経過して、ようやく表示が終了した。緑色のエンドマークが最後尾で点滅をする。 うおぉ。ダブルの声が小さくなる。本当に2万個体近くの測定データだよ。できるコだとはわかっていたけど、ここまでできるコだったとは。ダブルは顔をかくかくと揺らしながらヘリウムを見た。ヘリウムは涼しい顔で手を実験用タオルで拭いていた。 「終わったのはあくまで測定ですから。解析はリチウムさん、お願いします」 リチウムは、ひっ、と椅子からころげ落ちそうになっている。無理無理無理、と必死で手を振っていた。 「再測定のものがあるのなら早めの依頼をお願いします」 無理無理無理、とリチウムはさらに激しく手を振った。 それは困りましたねえ、と正気のヘリウムにしては珍しく感情がこもった声色を出す。 「ざっと見た感じで構いません。再測定する検体はありませんか? いままでのボクの確率でいくと20個体くらいは再測定が必要な気がするんですけど」 「無理ばっかりいわないでおくれよ。うふふ。ざっと見るだけで何日かかると思っているんだい? 僕のマイペース振りはヘリウムも知っているだろうに」 そうなんですけど、とヘリウムは粘る。直立したまま白衣のすそをつかんでいる。 「そこをなんとか押して、5分で確認をお願いします」 「ヘリウムくん?」ダブルはようやく違和感を覚える。 「5分くらいならボクも持ちこたえられますから。それ以上かかると――」 「だから無理だって言っているだろう? ヘリウムらしくないね」 「リチウムくん。いいから早くパネルをチェックして! リチウムから見て、あからさまに怪しい数値のものがないかどうかだけでいい。早くしろ!」 え? え? とリチウムは首を動かしつつ、パネルを凝視した。早く早く、とダブルはリチウムを急かし続ける。ダブルのただならぬ挙動に水素も「俺じゃあ役に立たないでしょうけど」とパネルに目を向ける。 ダブルと水素とリチウムで、う~ん、とうなりつつパネルの凝視を続けた。パネルには黒地に緑色の数字が浮かび上がって見える。眺め続けているとさらに立体映像のごとく浮かび上がってくる。 4分30秒が経過したときだ。 「あ」とリチウムが指をさした。 「上から357行目、右から63番目のみっつ続きの数字が妙ですね。周りよりずば抜けて高い値です。あれは検体がほかのとは明らかに違ったのかい? それとも理由があるのかい?」 ヘリウムは、357行目の右から63番目のみっつ続き、とつぶやいて検体の棚へと向かった。 「コレですね。形態としてはほかの検体と際立っておかしな点はありません。採集地点と照らし合わせて――」 ヘリウムは検体をダブルたちに向けて差し出し、そしてそのままの形で床に倒れた。 「ヘリウム!」とダブルに水素、リチウムはヘリウムに駆け寄った。 ヘリウムが告知してから、かっきり5分が経過していた。 水素が応急措置セットを持ってきて、ヘリウムの脈を計ったり瞳孔を調べたり血圧やら体温やらを調べだす。 「――体温、低いですね。34度代です。脈拍数は毎分60以下。血圧も低い。それから」 「わかったから早くヘリウムくんを医療メンテナンス係へ連れて行ってあげてよ。明らかに過労だろうが」 そ、そうっすね、と動揺をあらわにしながら、水素はヘリウムを背負うとラボを走り出て行った。 「さてと」 とダブルはリチウムを見る。リチウムは条件反射的に一歩あとずさった。 「ヘリウムくんは戦線離脱だね。入院だね。おそらく2週間くらいだね。それはヘリウムくんが2万個体の検体を測定した時間とおなじだね。せっかくヘリウムくんががんばって測定してくれたのに。エヘヘ。まさかリチウム、お前はその時間を無駄にしようなんて思わないだろうな」 えええー、とリチウムは泣きそうな顔になる。 「まさか僕に2万個体の測定データの解析を2週間でやれというんじゃないでしょうね。怠け者の、この僕に。うふふ。係長。無茶いわないでください」 「ぼくがやってもいいんだけどね。そうすると書類のサインはどうなるかな」 「う」 「大丈夫だよ。水素くんだっているし。オレも少しは手伝ってやるから。ヒントぐらいならたっぷり与えよう。そもそも『怠け者』を自称しているヤツほど実際は怠け者じゃないから。怠け者にあこがれているだけだから。ごたくを述べずにさっさとやれ」 最後は真顔ですごんで見せた。ひい、とリチウムはなきながら測定データを自分のパソコンへと取り込み始める。 リチウムの反応にダブルは、よしよし、と気をよくする。ダブルは普段おちゃらけている分、たまに本気ですごんだり怒ったりすると、どれだけ厄介で命に関わるかということをリチウムたちは肝に銘じているらしかった。 「ふうむ」 ダブルは腕を組んでモニターに表示されている緑色の数字を眺めた。 2万個体分の測定データだ。脈絡がありそうにもなさそうでも見える。ただの数字の羅列なので素人が見たらなんのことだかさっぱりわかるまい。 だけど。プロが見ると実に面白く見えちゃうから不思議だよね。ダブルはモニターの数字の隅から隅までをしみじみと眺めた。1回、2回、3回、4回……。細かいことはリチウムの解析を待たないとわからない。それでもダブルだからこそ見えてくる事柄があった。モニターの緑色の数字がダブルの中でまるでイキモノのように形を取り始める。 「ほほう。これは」 あれは食物繊維になるでしょ。これは炭水化物にショ糖にデキストリンにガラクタンにペントザンだな。そっちはグルコースにフルクトースになるよね。あっちの水素と酸素はみるからに水だな。ミネラルも豊富だよ。この水の成分は見覚えがあるよ。ちょっとこれはありえない水だねえ。その点はこの際、除外しておこう。うん、それはさておきだね。つまり。 あれとあれは『小豆』、これとこれは『紅藻類』で思い切っていうと『寒天』、あっちとそっちは『砂糖』で、そっちとそっちとそっちはどうみても『水』だ。 小豆、寒天、水、砂糖っていったらさ。おまけに黒色直方体だ。 ダブルはしばし、無言になる。めまいすら覚えた。どうしてこんなものが世界各地で発生していなければならないのか。それも環境問題が山積みな地点にばかり発生している。6225地点、1万8765個体だ。 「……あ。もう、なんか、考えたくなくなってきたなあ」 ダブルにしては珍しく弱気な発言をする。ヘリウムくんも倒れちゃったしねえ。ぼくもいっそのこと倒れたくなっちゃうよ。確かにな。どこまでもつきあうと思ったのは事実だが。言葉のあやにしたいね。 ダブルはどさりと自分のキャラメル色の椅子に座った。 「ん? 係長。なにかわかったんですか?」 リチウムが乱れた髪をかきあげる。 うん、とダブルはあっさりうなずく。 「これ、ぜんぶ、おんなじ物質だよ」 「うふふ。それくらいは僕も見当がついていましたよ」 「もちろん、その全部のくわしい解析はリチウムくんがこれから2週間かけてやるわけだけどさ」 「……はい」 「これだけあったら1個くらいなくなっても大丈夫だよね」 ダブルは真空パックから検体をぺりぺりと取り出した。リチウムが止める間もない。匂いを嗅ぐでもなく、指先で表面をなぞるでもなく、ましてひと口大にちぎるでもなく、ダブルはいきなり検体にかぶりついた。 「係長!」 うんうん、とダブルはうなずく。間違いない。なかなかの風合いだ。 「これ、和菓子の『水ようかん』だね」 一瞬、間があいて、リチウムが「えええ!」と叫んだ。 (3章の1 へ続く)