5

「『ソラっち』って誰かなっ」
 アンノウン係のドアを開けるなり、職人が叫んだ。
 ラボの空気中の成分分析をしていたダブルは、「へ」と間抜けな声を出す。
「誰かなっ」
 と職人は繰り返す。大きな瞳には涙までたまっている。いつもは冷静に事態を見極めているか、にっこりと笑っている職人が眉間にしわを寄せているのだ。これは『邪心を取り除く』ガスに感染しているな、とひと目でわかるありさまだった。
 職人はダブルの正面にまでやってきて執拗に繰り返した。
「誰かなっ」
「と、友だち、だよ。どうして?」
「ダブルくんに『友だち』がいるだなんて知らなかったなっ。しかも技術開発部じゃなくて情報調査部員のコだってウチのスタッフがいってたっ。よく情報調査部員と友だちになれたねっ」
「ぼくにだって友だちのひとりやふたりくらいいるよ。ソラはオレの試作装置の外部検証実験をしてくれるからな。非常に便利な存在だ。自分が利用されているとわかっていてなお、友だちでいてくれるっていうすっごく奇特なコなんだよ」
「――かわいい女の子なのっ?」
「姿かたち? そうだねえ。大きな青い瞳が印象的な整った顔つきの女子ではあるな。怒ると容赦なく殴りつけたり蹴りつけてきたりしたけど。職業柄しかたないよね」
 ダブルは答えながら、そういえば職人はソラがダブルを殴り倒した『ダブル事件』のときはラボにいなかったことを思い出した。まったく、あんな姿を見られたらのちのちなにをいわれたことか。見られなくてなによりだったよ、とダブルは胸をなで下ろす。
「ふうん。ずいぶん仲がよさそうだねっ」
「まあね。ソラっちもぼくのことを『ダブルっち』って呼んでいるしね。オレが渡した杖もちゃんと使いこなしてくれているしな。なかなかいいコだよ」
 ヘリウムがダブルを見た。わざわざ壁面装置のガスクロマトグラフィー装置へタフの検体を入れる手を止めての行為だ。リチウムも水素も検体整理の手を止めてダブルを見た。
「ん? みんなどうしたの? って、職人。どうしたの? なんで泣きそうな顔をしているのさ」
「ダブルくんはそのコのことが好きなんだねっ」
「はいっ?」
 思わずダブルの声が裏返る。どうしたらそういう話になるのか。
「ソラっちとはただの友だちだよ? すごく気が合うし、損得勘定が互いに得意だっていうか。ソラはかなり危険を伴う実験検証もいとわずやってくれるからな。ほんとソラっちと知り合えてよかったよ」
 エヘヘ、と笑いかけてダブルは口を閉じた。職人が鼻をすすっていた。泣いているようだ。どうして泣くの? ぼくがなにをしたの?
「あ、アタシ、ずっとダブルくんと一緒にいるのになっ。14年も一緒にいるのになっ。いろんな装置を見せ合ったり、いろんなアイデアを出し合ったり。アタシはすっごく楽しくて。ダブルくんと喋っているとすっごく胸があったかくなったのになっ。ダブルくんはそういうこと、なかったんだねっ」
「そんなことひと言もいっていないよ? ぼくも楽しいし。すごく張り合いがある」
「張り合いだったのっ!」
「違うの?」
「違うよっ!」
 うわぁん、と職人は声を上げて泣き出した。
 ダブルはおろおろと両手を震わせた。な、なんだ? まるで泣き上戸の酔っ払いの相手をしているみたいだぞ。それだけじゃなくてさ。否定語を発する職人なんて始めてみたよ! そんなに『邪気を取り除く』ガスは強力だったんだ。タフだけじゃなくて職人までここまでひとが変わったようにするガスってすごいねえ。違うだろう? そこは邪気を取り除くと、駄々をこねる職人が残るところを驚くべきだ。ああそうか。
 だがしかし、とダブルはしみじみと職人を見た。
 無防備に泣きじゃくる職人はどこかしらはかなげに見えた。肩もさらに小さく見える。ダブルは顎に手をあてて小さくうなずく。こういう職人も悪くないねえ。ちょっと面倒だが、いままでの職人はそつがなさすぎたからな。うん、いままでの職人は言葉のひとつひとつにキレがありすぎて、まったく油断がなかったからね。エヘヘ。
 係長、と水素が呆れた声を出す。
「泣いているかたを無視して笑うなんて趣味が悪すぎっすよ」
「さあさあ、これをお使いください」とリチウムが職人にハンカチを差し出し、「係長も悪気はないんです。少しばかり配慮が足りないだけで。お気になさらないでください」とヘリウムが職人にバナナジュースを差し出した。ちょっと! ぼくひとりが悪者! とダブルは両手を振り回す。
 そのとき、ダブルの白衣から着信音が聞こえた。新着メールの合図だ。
 この忙しいのに誰だい、と発信者を見ると、ソラだった。なんというタイミング! つかの間ダブルは葛藤する。状況的に見ればここでソラからのメールをチェックするのはいささかまずい。けれどもソラには新作の試作装置の検証実験を依頼してあった。『相手の痛覚を10倍にするマングース型携帯スプレー・バージョン6』だ。このメールはその使い心地を記したものだろう。どんな結果が出たんだ! 見たい。いますぐに。
 身悶えるダブルの脇に職人が素早く立った。そして目にも留まらぬ速さでダブルの白衣からダブルの携帯電話を取り出した。
「あっ。なにすんの!」
「新着メールだねっ。メールは早く見なくちゃダメなんだよっ」
「わかっているから返してよ」  ダブルは携帯電話に手を伸ばすものの、職人はラボの奥へと走り去る。……まあ、セキュリティをかけてあるから、ぼく以外のものが見ることはできないんだけどさ、と思ってダブルは目を見張る。職人が必死の形相で携帯電話をいじっていた。携帯電話が壊れると思うほどの速度でパネル操作をしている。ダブルが、やばい、と思ったのと、職人が「開いた」と言うのが同時だった。
「送信者は――『ソラっち』」
 ラボの空気が凍りつく。職人は見たこともない形相になって本文を読み上げた。 「『ダブルっち。元気ですか。相変わらずろくでもないものを送ってきてくれてありがとう。このお礼は必ず100倍返しにするから覚えておいてよ。で。本題だよ。今回のは――』」
 職人は無言になって続きを読んだ。やれやれ、とダブルキャラメル色の椅子に座った。いくら職人とはいえ、ひとのメールを勝手に読むのはプライバシーの侵害だろう。糾弾すべきだよね。正気に戻ったらどんな謝罪を求めようかねえ。ふうむ、とダブルが足をぶらぶらと揺らしていると、職人がいきなり携帯電話をラボの壁に叩きつけて粉砕した。
「ひっ!」
 ダブルは飛び上がって水素の後ろに隠れた。職人はうつむいて肩で大きく息をしている。
「とてもっ」と職人が低い声を出す。
「とてもっ」と職人が繰り返す。
「楽しそうにやっているんだねっ。アタシとはずいぶん対応が違うみたいだねっ。そんなに若いコがいいのかなっ」
「若い、って、職人だって十分に若いじゃん」
 職人は、ばん、と作業台を殴った。作業台には大きな亀裂が入る。
「お世辞は結構っ。アタシってダブルくんにとって邪魔なんじゃないのかなっ。ソラさんと仲良くやっていればいいんじゃないのっ。アタシの存在はそんなに鬱陶しいっ?」
 正直いまはそうだな、と思ったけれども、そんなことを口にできるはずがない。困ったな。確かに『邪気を取り除く』ガスを飛散させたのはぼくのミスだけど。どうしてオレがこんな窮地に立たされていなければならないんだ。
 係長、とヘリウムがダブルに耳打ちをした。
「僭越ながらボクの秘策をお教えしましょうか。地球にいたころはこういう事態に273回ほど遭遇したことがありますので」
「273回って、ヘリウムくんにそんなに女性遍歴の経験があるなんてびっくりなんだけど」
「失礼ですね。こう見えても、ボクはかつて5回ほど離婚を経験したことがあります。最高で27人と同時に交際したこともあります。さすがに異性までは手が回りませんでしたが、下は10代から上は70代まで守備範囲はあります」
「……ひとは見かけによらないね。それじゃあ、ぜひご教授していただこうかな」
「もっとも手っ取り早い方法は、職人とソラさんを友人にしてしまうことです。これであっという間に場はおさまります」
 そんな簡単にいくの? とダブルが訝しそうな顔をすると、ヘリウムはダブルの白衣からダブルの予備の携帯電話を取り出した。そして職人よりも手早くパネルを動かした。ダブルは眉間にしわをよせる。むう。さすがテクニカル要員。瞬時の迷いもなかったよ。オレのセキュリティなどものともしないとはな。ちょっと悔しい。
 そしてヘリウムは職人に携帯電話を差し出した。
「予備の携帯にもソラさんからメールが届いていました。職人とお話がしたいそうです。なんでも係長についてとても不満があるそうでして。それなら職人とさぞお話が合うだろうと、ボクから連絡を取りました。あとはこの本文に入力をするだけです。さあどうぞ」
 またもやぼくが悪者に。どうしてそういうことになるんだ。ちょっと止めてよ。ダブルは職人から携帯電話を奪い返そうとするものの、職人は携帯電話に入力をしながらもラボの中をちょこまかと動き回って捕まえることができない。
 ダブルは頭を抱える。どうしちゃったんだよ。ぼくは武道の達人じゃなかったの? それをソラに引き続き職人まで捕まえられないとは。おかしい! なにかがおかしいぞ! 職人もソラも自分を上回る腕前の持ち主だということか! 職人には月面本社中の転送装置の配管内部を確認できるほどの能力があることを忘れてダブルはわが身の衰えを憂いた。
 そうこうするうちに職人はソラと送受信を繰り返したらしく、職人はあっという間に満面の笑みになる。
「ぼくの携帯が。みんなの愚痴のはけ口に」
「ご自分で蒔いたタネですから。きれいに刈り取ってくださいね」
 ヘリウムはにっこりと笑う。
 こいつら本当に邪気を除去されたのか。素で悪人なの? なみだ目で周囲を見ると、水素はニヤニヤと笑い、リチウムは迷惑そうに作業台の修理をして、ヘリウムにいたっては無表情に戻ってタフの検体の測定をしていた。
「あれ?」
 これは――ほぼ日常の光景か? そうか、とダブルは手を叩いた。アンノウン係の社員は普段からダブルが撒き散らす反物質に接する時間が長い。だから予想外に『邪気を除去する』ガスの効果が早く薄れたんだよ。でも職人は?
 ダブルは職人に顔を向けた。
 職人は目を輝かせて携帯電話をいじっていた。ラボの入口近くの椅子に座り、かたわらにはヘリウムが置いたとおぼしきバナナジュースがある。ふわふわの長い髪を左右に揺らしてくつろぐ姿はすっかりアンノウン係に馴染んでいた。
 いままでも職人はなんどかアンノウン係に顔を出している。けれどもこれほど長時間に渡ってアンノウン係に滞在することはなかった。『邪気を取り除く』ガスがいまだ有効であるのは明白だ。むしろさらに感染状況を悪化させているとすらいえる。
 そんなことはわかっていたんだけどね。職人がラボに飛び込んできた段階でわかっていたことだ。だけど『嫉妬』する職人なんて滅多に見られないからねえ。目新しくてつい職人の好きにさせてしまったな。そろそろ潮時かな。
 ダブルは職人の背後に立つと、職人の蝶の髪飾りに触れた。職人は顔だけをあげてダブルを見る。大きな瞳をゆっくりとまばたきさせている。ダブルはかがんで職人の耳元に息を吹きかけた。
「またね」
 我に返ったように職人は立ち上がる。そして、顔を真っ赤にさせて、
「う、うん。お邪魔しましたっ」
 とラボを走り出て行った。
「係長―。意地悪っすよー。どうせ追い返すならキスのひとつやふたつ、するのが礼儀ってもんすよー。かりにも恋人なんでしょうが」
 水素が野次を飛ばす。ダブルは職人の残したバナナジュースをすする。恋人、ねえ。そうなのかな? これだけつきあいが長いとわからなくなってくるな。ソラっちの比じゃないのにねえ。職人もわからなくなっているのかもな。だから『嫉妬』? 
「バッカバカしい」
 ダブルはスキップで自分のキャラメル色の椅子に座り、足をぶらぶらと前後に揺らした。

(6 へ続く)

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