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 ダブルの実家は武道の名家だ。
 総合格闘技、すなわち打撃、投げ技、固め技などの攻撃を駆使して勝敗を競う格闘技だ。自国のみならず他国の軍事武術指南に赴き、また多くの精兵を輩出するなど軍事関係に貢献し、さらには政財界へ少なからぬ影響力をもつ家だった。
 ダブルはその次期当主だった。
 当主としての資質は申し分なかった。
 ダブルの武術の才は幼少期からめきめきと頭角を現し、無邪気に笑いながら、まさかりかついだ金太郎のごとく、大の大人を投げ飛ばしていた。山岳訓練でも山伏顔負けのフットワークで山頂に辿りついた上に忍者のごとく木々を飛び移って下山をしてのけた。
 精神鍛錬も怠らなかった。
 当時はまだ二重人格ではなかったので、武道に対しては常に真摯であった。相手の動きを見極める動体視力は桁はずれで、飛び回るコバエを箸で捕まえるのは朝飯前だった。子どもであるにもかかわらず声を荒げることもなかったし、常に相手の次の動きを予測して生活をするという習慣も身についていた。
 小学校に上がるころには早くも奇才の天武があるとまでいわれ、中学校に入るやいなや、某米軍に武道指南に向かい、指導の名のもと、一個大隊相当を壊滅状態におとしいれたとかいれないとか、まことしやかな噂話を作って帰国したものだ。
 ダブルが当主になったあかつきには「お家はひとまわりもふたまわりも大きくなることでしょうねえ」と周囲はため息を漏らしたが、そういわれるたびに門下生や家人は別の意味でのため息を漏らした。
 ダブルには難点が3点あった。
 ひとつは大変、気分にムラがあることだ。
 精神鍛錬を積んでいるので他人に当たることはない。その分、気分が乗らないと徹底的に訓練を放棄した。下手に精神鍛錬を積んでいるので怠けることができなかった。だらだらすることはなかった。気分が乗らない場合、稽古の時間になっても毅然とした態度で絶対に胴衣に着替えることはなかった。どれほど母親がなだめても、祖母がすかしても、使用人が菓子を運んでも、一切を拒否して胴衣に背を向けた。
 そうかと思えば気分が乗ると、「坊ちゃん、学校の時間ですよ」と使用人が鞄と制服を手に道場の前でうろついても、「神聖な道場に入るな」とひとり道場で竹刀を振り続けたり、食事も取らず、睡眠もとらず、柔道の形の稽古を繰り返した。「お前は親鸞聖人か!」と祖父が激昂するのもどこ吹く風かとあきもせず稽古を積んだ。
 もうひとつは、ダブルには武道家よりも科学者としての才能があったことだ。
 ダブルの自室は中堅どころの大学研究室の実験室を再現したものだった。中堅どころの大学のいち研究室では購入できないほどの高額機器を用いて、多種多様な実験に夢中だった。趣味の範疇を超えていた。
 科学であればダブルの関心はひとつの分野にとどまらなかった。生物、化学、物理学、工学、地質学、気象学、天文学、農学――。自室に面した庭には田畑があり、品種改良をした家人にはよくわからない果実や稲を栽培していた。昆虫専用のサンテラスもあった。自室の実験エリアでは色鮮やかな溶液をフラスコで作ってはよく爆発をさせていた。
 これまた幼稚園にあがるかあがらないかのころからアインシュタインの相対性理論やら素粒子物理学のはなしを大人にまくしたてているという才能ぶりだった。
 金の問題ではなかった。
 程度の問題だ。
 堪えかねた父親が「いったいお前はなにをやっておるのか!」と叱責した。ダブルは悪びれもせず、涼しい顔で専門用語をふんだんに使った各実験内容をとうとうと語った。理解できなかった父親は「……まあ、なんだ。あいつも、武道の鍛錬を怠っているわけでもなし」と以後、たしなめるのをあきらめた。
 そして最大の難点は、ダブルに次期当主になる気がまったくなかったことだ。
 ダブルには弟が3人もいた。特にすぐ下の弟は、ダブルまでとはいわないまでも家をつぶさない程度に武道の才があり、努力家でもあり、常識的であり、人情家で人望もあり、とまさしくありありづくしの男だった。
 次男が当主になればいい。自分は好きな科学の道で生きるから。それがダブルの言い分だった。気分にムラがあり、武道とはかけはなれた趣味を持ち、人付き合いを苦痛とするのはダブルも自覚していた。ついでに加えるなら、自分が次期当主になることを周囲から期待されているのも自覚していた。
 それがおそろしく重荷だった。ときおり気が向いて期待にそうよう働きかけをしてみても、すぐに窮屈になって放り出した。放り出しては、それでも自分が次期当主なのだから、と武道の鍛錬に励んだりもした。ダブルなりのジレンマだ。
 鍛錬が好きだったわけではない。鍛錬をしていれば周囲の文句が少なくなる。実験に夢中になっていても小言が少なくなる。ゆえにダブルは武道に励んでいたのだ。才能があろうがなかろうが、ダブルにとって、そんなことはどうでもいいことだった。
 好きなことをして暮らせれば一番いいにきまっている。
 門下生や家人も、ひそかに次男が当主になればお家安泰だとは思っていた。お家が大きくなるのは魅力だ。ダブルが当主になれば確実に大きくなるだろう。同時に大きくなったはずみで潰す可能性も大きかった。それを支えるだけの力が門下生や家人にはなかった。ダブルは諸刃の剣なのだ。
 いかんせん、ダブルの武道に対する実力は桁が外れている。
「武道の実力も鍛錬の幅も、自分とは桁はずれの兄がいるのに、わたしが当主になどなれません」
 次男はかたくなに固辞した。それはそれでまっとうな意見だった。
 それに、次男は気づいていた。
「兄はその気になればカリスマ的人望を発揮し、当家の武道の幅をさらに広げ、厚い責任感ですべての事柄をやり遂げます」
 ダブルは憮然とする。図星だったからだ。そしてそんな面倒なことをしたくないがために、実験に熱中していた。自室で人工の虹を作り出していれば無心になれた。フラスコ内で頭脳をもったチューリップを作り出しては会話を楽しんだ。星の最後の超新星爆発の模擬実験が成功して自室実験室が崩壊しても、成功したことがうれしくて腹を抱えて笑い出したくらいだ。実験さえしていれば、世間の面倒事をすべて忘れていられた。
 実験に熱中すればするほど、例のジレンマからくる武道への執着も増えて無茶な鍛錬を繰り返しもした。
 だれにもまねできない荒行を繰り返し、滝に打たれて精神統一を図り、人間兵器といわれるまでに身体を鍛え上げた。ひとりもくもくと夜中から朝、昼、夕方まで山の中を駆け巡り、木々に飛び移りつつ、科学者魂により、飛び移った木々の名前を瞬時に唱えるという不気味な行動をとるようにもなった。木々に飛び移りつつ、種子を採集したり、花粉の飛散分布状況を調べるなどの調査もおこなった。種子の育成状況から秋の実りの予測まで立てることができた。
 純粋な科学者ならばこれほど便利な身体はなく、純粋な武道家ならばこれほど鍛錬に熱心なものはいなかっただろう。
 そのダブルのありあさまをみて次男は、
「わたしにはあれほどの動きを武道においてすることはできません。次期当主はやはり兄をおいてほかにはいません」
 と思いを強くするという悪循環ぶりだった。
 なによりダブルは外面がよかったので、門下生や家人の思いとは裏腹に世間での「次期当主がご当主になられたあかつきには――」の評判はさらに高まっていった。
 そして、ダブルは『反物質』に手を出した。
 ――『反物質』――。
 文字通り、物質の反対の性質を持つ物質だ。自然界にはほとんど存在しない物質で、人工的に作り出される物質だ。1928年にポール・ラディックが卓上の理論として持ち上げたのを初めとし、1932年に電子の反物質が発見、1955年に中性子の反物質が発見された。以後、続々と反物質の発見が継いでいる。
 正に対し反、または負というのは諸事につきものだ。
 なにがそんなに問題なのか。
 それは反物質が正物質と衝突すると対消滅を起こす点だ。その際、質量がエネルギーになって放出される。
 つまり、ぶつかる物質同士がおおきければおおきいほど、大爆発を起こすということだ。
 ゆえに反物質は容易に兵器になった。高速の荷電子を打ち出す兵器は数多い。おもに荷電子粒子砲といわれている兵器だ。レーザーとは異なり真空中でも目視できる点で軍事活用が促進されている。加速器が小型化かつ多種化したために、手のひらサイズから宇宙船サイズまで荷電子粒子砲は多岐にわたった。
 良心的に見れば、医療分野でも活用している物質だ。癌治療のために重粒子放射線治療など、3世紀も前から治療に用いられてきた。
 別にダブルは兵器を作るつもりで反物質に手をつけたわけではない。
 反物質の性質、まさしく『反物質が正物質と衝突すると対消滅を起こし、質量がエネルギーになって放出される』という点にこころひかれたのだ。こころを奪われたといってもいい。なんじゃそりゃ、と頬が赤くなった。対消滅をおこすだと? ダブルの両手が感動で小刻みに動いた。そんでもって、質量がエネルギーになって放出されるだと?
 胸は高まり、ダブルは山へと飛び出して三日三晩、武道の鍛錬を行わなければ落ち着きを取り戻すことができなかった。
 そしてダブルは自室研究室をより頑丈に作り直し、反物質の実験に明け暮れるようになった。最初は電子レベルから。次第に水素などの科学の世界では大きな物質に移っていき。やがてそれらを収納する装置の開発を進めた。反物質が入っていても耐えうる素材の作成だ。目標は小型化。大きいと自室実験室に入りきらない。
 反物質エンジンを作り上げ、自室実験室を爆発させずに手のひらサイズのロケットを飛ばせるのに成功した日だ。
 前触れもなく、白いスーツの男がやってきた。
 おなじく白い中折れ帽子をかぶった、長髪の男だった。年齢はわからない。20代にも60代にも見える。長身で痩身な男だった。
 男はひょうひょうとした態度でダブルの反物質エンジン搭載ロケットを白い手袋をはめた手でつかんだ。
 自室実験室に他人が入ってきたのは初めてで、そのうえダブルの作った試作品に触れたものも初めてだった。あまりに予想外の出来事に、ダブルは目を見張るばかりで抗議の声も出なかった。
 硬直するダブルの頭を白いスーツの男がぽんと叩く。
「こういう実験をこんな無防備な場所で行うなど感心しないな。この国を消滅させたいのかい?」
 いいながら白いスーツの男は、どうやったのか爆発もさせずに、手のひらで反物質エンジン搭載ロケットを潰して消滅させた。我に返ったダブルは白いスーツの男に殴りかかろうとした。それを白いスーツの男は涼しい顔であっさりとかわす。
 バカな。
 ダブルは混乱する。自分は武道家だ。この家の次期当主であり、日々の鍛錬はだれにもまねができないほどだ。それをあっさりとかわすだと? ありえない! ダブルは白いスーツの男を組み伏せようと、さらに白いスーツの男に立ち向かった。なんどやっても結果は同じだった。白いスーツの男はスラックスのポケットに両手を入れたままでダブルの攻撃をやすやすとかわした。どれほど鋭い蹴りを入れようと、どれほど素早いこぶしを入れようと、白いスーツの男は幽霊のように薄い笑みを浮かべたまま、ダブルの攻撃のすべてをかわした。反撃はしてこない。ただダブルの動きをゆらりとかわし続ける。
 ダブルの背中があわ立つ。このひと、本当に幽霊じゃないのか? 
「失礼だね。ちゃんと生きているよ。その証拠に――」
 白いスーツの男はダブルをひょいと脇に抱えた。
「ほら。触れる」
 騒ぎを聞きつけて駆けつけた門下生と家人に、白いスーツの男はいい放った。
「彼はわたしが責任を持って預かりましょう。このままではこの国だけでなく、彼は世界を滅ぼしかねませんよ。なあに、心配は要りません。あなたがたには優秀な息子さんがまだいらっしゃるではありませんか。おめでとう。この家は安泰ですね」
 この白いスーツの男が、RWMの会長だった。

(4 へ続く)

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