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 作業の手を止めてヘリウムがタフにバナナジュースを差し出した。
「おう。すまねえな。ん? なんじゃこりゃあ。めちゃくちゃ旨いぞ。お前が作ったのか? お前! 天才だろう!」
 タフはヘリウムを褒めちぎって一気にバナナジュースを飲み干した。お代わりを、とグラスを下げようとするヘリウムを、いいっていいって、とタフは首を振った。
「邪魔をしにきたんじゃねえからな。悪かった。作業を続けてくれや」
 はい、とヘリウムが嬉しげに微笑む。
 表情豊かなヘリウムなど邪心を取り払っているにもかかわらずむしろなにかよからぬことを企んでいるようにしか見えなくて、怖いよう、とダブルは両腕をさすった。
 タフはタフで終始、温かい眼差しを作業に励む水素にヘリウム、リチウムへ投げかけている。いつもとはまるで違う。
「おう水素。この棚の上にあるやつは、ウチへ持って来ようとしていた書類か? あとはダブルのサインをもらうだけだな。よしダブル。ちょっくら、ここにペンでサインしてくれや。あとはオレがやっておくからよ。ああいいぜ、礼なんてよ。気にすんな。お互いさまってやつだ」
 とまで言い出す始末だ。
 これは。おお、これは。決定的だね。決定的だな。『邪心を取り除く』ガスはどうやらこのラボだけに拡散したようではなさそうだ。タフのいる係まで飛散したということは、技術開発部全体に飛び散ったと見ていいだろう。
 そんなに強いガスだったの、とダブルはいまさらながらに眉を曇らせた。いやいや、と首を振る。『邪心を取り除く』ガス単体ならそこまでの即効性と拡散性はないはずだ。でもタフは感染している。なぜだ。
 おう、とダブルは手を打った。
 反物質でできた試作装置だ。
 全部反物質でできたパワー制御装置。キャンディー型。あれを爆発させたっけ。1度や2度じゃないからねえ。エヘヘ。なんども爆発を繰り返しているうちに正物質と反応をしてなんらかの物質を生み出し、それが『邪心を取り除く』ガスと化合して技術開発部全体に数時間でいきわたるほどのなんらかの強力なガスとなったってことか。うわあ。なんらか、なんらかってさ。すっごくあやふやで怪しげなガスができちゃったもんだねえ。これはいつガス抜けするかわからないぞ。そもそも個人差があるだろうしね。ぼくなんてなんともないし。
「それから、すまん」
 いきなりタフが謝った。
「事後報告になった。例の検体がまた大量に発生した。断続的に発生をしている。全部回収するように指示を出したから、どんどん転送装置で運ばれてくるはずだ。おお、もう来ていたか」
 タフは転送装置が稼動していることに気づいて「悪いな」とダブルに頭を下げた。
「待ってよ。おんなじような検体なんでしょ。なにも全部採集することないじゃん。2個や3個ならまだしも1000個単位で送られてきたら――」
 最終的に全部のデータに目を通して対策書面を書くぼくが大変じゃん、といおうとしたところにヘリウムが割り込む。
「検体は多いほうがいいです。より正確な数値を割り出せますから。今後もすべての採集をお願いします」
「待って。測定するのはヘリウムくんなんだよ。お人よしなことをいっていると苦労するのはお前なんだぞ?」
「ボクの苦労などいかほどのものでしょう。より確実な数値を得ることのほうが重要に決まっています」
「へ? ちょいとヘリウムくん?」
「できることならおなじ検体で3回は測定をしたいくらいです。より確実な数値を得ることができますから」
 ヘリウムの後ろに後光がさして見えた。ダブルは、うわあ、と手で光をさえぎる。
 いつもなら「ボクの仕事を増やさないでくださいね」と濁った眼差しでいい放つのに。「いかに効率よく検体を測定するか」に情熱を注いでいるのに。
 恐るべし。『邪心を取り除く』ガス。『邪心を取り除く』ガスに感染したあまり、ヘリウムは経験則まで忘れてしまったようだ。どれだけ大量の測定値を出そうとも、「そんなことは結局書類を書く上で無駄な作業だ」ということすら忘れてしまったらしい。
 必要なのはピンポイントを押さえたデータだ。
 どれだけ詳しい測定データを出そうとも、すべてを報告書に記載して対策案に盛り込むわけにはいかない。アンノウン係に来たばかりのころでもここまでヘリウムに情熱はなかった。そもそも納期に間に合わない。間に合わせたことなどないくせにダブルはしかめっ面をしてみせる。
 とにかく、必要以上に検体を送りつけられるのは迷惑だ。断固として抗議しなくては。
 タフ! あのね! と話しかけようとしたところを、今度はリチウムが割って入る。
「こちらがその採集地点ですね。これはまた多岐にわたっていますね。承知しました。僕が誠心誠意を込めて検討させていただきます。これほど大規模な仕事ははじめてですね。わくわくします」
 うふふ、とリチウムは頬を染める。
 わくわくだと? 隙あらばサボってばかりいるリチウムが仕事に情熱を覚えるだと? ダブルは耳を疑った。
 だいたいリチウムくんは日ごろからどんな仕事をしているのかわかんないコじゃん。それはオレも同じだがな。それでもぼくはちゃんと書類にサインをしているよ。さっきだってタフの指し示した場所にサインを書いたしね。
「ひどいいいようですね、係長。僕の仕事は僕がラボにいることにより優雅な時間を流すことだと認識していました。せかせか仕事をしても美しい解析はできませんから。うふふ。ヘリウムはせっかちだから測定データをどんどん渡してくれますけれど、そこから法則性を見出すのはなかなか骨なんですよ?」
「納期は守れ」
 タフががつんと釘をさす。リチウムは素直に「はい。タフさん」と頭を下げる。  もうなんでもいいけどね、とダブルはバナナジュースをすすった。『邪心を取り除く』ガスが効いているうちにどれだけ仕事を進められるか。願わくば全部終わらせたいところだが、さすがにそれは無理だろう。なにしろ3426個体、1153地点分あるのだ。やすやすと測定して解析して結論を出せるしろものではない。
 いま現在どんどん送られてきている検体は最悪まあ、無視しちゃってもいいよね。おそらくいいたいことはひとつだろうからな。エヘヘ。
 再びダブルの脳裏に職人のふわふわの髪が浮かんだ。きらりと蝶の髪留めが光る。バナナジュースをすすりながら、ダブルはほんのり頬を緩めた。
 んで、とダブルはコップからストローを取り出すと上下にぶらぶらと動かした。
「『ダブル事件』ってなに」
「は? 自分のことだろうが?」
「そうみたいだけど、ぼく、よくわかんないんだけど。いいから教えろやコラ」
 それがものを頼む態度か、と怒鳴られるかと思いきや、タフは「おおそうだよな」としみじみとした口調でダブルの前に顔を突き出した。
 内緒話をするような姿勢でタフは「お前」と切り出す。
「ソラちゃんに殴られたんだって? まあ、いままで散々なことをあのコにしていたから、因果応報ってとこだろうが。女の子に殴られるなんて、まあ、その、ちょいとな。男として思うところがあっただろうなと、まあ、オレも他人事ながらいたたまれなくなってよ」
 タフは鼻をかきかきダブルに憐れみの眼差しを向ける。
「……どうしてそのことを知ってんの? タフは仕事中だったはずだよね」
「どうしてって、おま、知らないのか?」
「なにをさ」
「だってソラちゃんは情報調査部員だぞ? カフェじゃなくて情報調査部員自ら技術開発部内へやってくるなんて、ありえねえだろうが。リペア部員のオレだって出向扱いじゃなきゃ居たくないくらいだぞ」
 それをわざわざやってくるなんて、どれだけ技術開発部内に波紋を起こしたか。  はうっ、とダブルはストローをコップに落とした。なんてこった! 身もだえする。
 ある意味、隔離された空間といえる技術開発部は外部情報に飢えている。
 医療メンテナンス係のだれそれと試作装置開発係のだれそれが通路で手のひらを叩き合っていた、それだけで話のネタとして半年は使えるほどだ。
 ダブルもそれだけの事項を、
「きっとかれらは手のひらを叩き合うことで魂の交流をしたんだよ。時空をも超える実験を行ったのかもしれないな。部内ではどんな実験をしてもおとがめナシだもんね」
 と茶化して楽しむほどだ。
 それをあろうことか、自分がネタを提供してしまうとは! 自分が10年レベルで語り継がれる事態を起こしてしまったとは! あああ、とダブルは作業台に突っ伏した。もう、立ち直れないかもしれない。涙で前が見えなくなる。
 思えば自分が知る限り、情報調査部員が単独で技術開発部内へ侵入したことはない。セキュリティ解除システムをもっていないソラが単独で技術開発部へ入れたことだけでも10年レベルの語りネタだ。
 そのうえ、技術開発部で随一と謳われるマッド・サイエンティストの自分を殴り倒したうえに謝罪をさせたのだ。騒ぎにならないわけがない。
 感情の覚醒をしたソラが、今後も継続して試作装置の外部検証実験をやってくれるという申し出が嬉しくてつい忘れていたけれど。あのとき、ラボの外にはどれだけの人垣があったことか。やつらに、このぼくが、このオレがただで情報を提供していたなどと、こんな名折れがあってたまるか!
 ダブルは悔しくて作業机をがじがじと噛んだ。
 それに、なんだ? 『ダブル事件』? だれだよ、そんなセンスのない名称をつけたヤツは。会長か、ってレベルだよ。案外、会長本人かもな。え? 嫌なこと思いつかないでよ。……ありえるじゃん。だったら会長にも見られていたってことじゃん! ダブルはさらにはげしく身もだえた。
 それからよお、とタフは言いにくそうにダブルを見た。
「『ダブルショック』ってなんだ? だれに聞いても教えてくれないんだが」
 ダブルの眉がぴくりと動く。
「……だれに聞いたの?」
「な、なんだよ。なに怒ってるんだ? 聞いちゃまずかったのか? すまん。悪かった。忘れてくれ」
「忘れる?」
 ダブルの声が低くなる。
 忘れるわけないじゃん。忘れることができたらどれほどいいか。どれだけ忘れたかったことか。くうう。あれから14年もたっているのに、まだいいふらしているやつがいるなんて。部長?。もしやモジャ毛か あいつはまだいなかったはずだが、又聞きしたのか。人事や庶務の仕事も兼ねる営業部員だからありえるよ。そういえばあれにも会長が絡んでいるじゃん。絡んでいるというかむしろ首謀者だ。
 おのれ会長。ダブルは再び作業机をがじがじと噛んだ。
 ――『ダブルショック』――。
 それは14年前にダブルがRWMの月面本社につれて来られた日の出来事だ。
 正確にいえば、会長によってダブルが月面本社に拉致された日にダブルが起こした騒動だった。会長さえぼくの前に現れなければ起きなかった騒動で、職人がいなければおさまらなかった騒動だ、とダブルは被害者意識にどっぷり浸る。
 だからというわけではないけれど。
 ダブルの脳裏にまたもや職人のふわふわの長い髪が浮かんだ。きらりと光る蝶の髪飾りが残像として視界をよぎる。
 どうしてもぼくは職人に弱いんだよね。
 たとえ職人がなにをしようとしていようとも、オレは職人に全力で加担する。たとえば地球を2つに割ろうとしていても人類を滅亡させようとしていても、オレは職人を手伝うだろう。ま、職人なら地球を2つに割ろうなんてしないけどね。人類は知らないけど。

(3 へ続く)

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