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「『ソラっち』って誰かなっ」
アンノウン係のドアを開けるなり、職人が叫んだ。
ラボの空気中の成分分析をしていたダブルは、「へ」
と間抜けな声を出す。
「誰かなっ」
と職人は繰り返す。大きな瞳には涙までたまっている。
いつもは冷静に事態を見極めているか、にっこりと笑っ
ている職人が眉間にしわを寄せているのだ。これは『邪
心を取り除く』ガスに感染しているな、とひと目でわか
るありさまだった。
職人はダブルの正面にまでやってきて執拗に繰り返し
た。
「誰かなっ」
「と、友だち、だよ。どうして?」
「ダブルくんに『友だち』がいるだなんて知らなかった
なっ。しかも技術開発部じゃなくて情報調査部員のコだ
ってウチのスタッフがいってたっ。よく情報調査部員と
友だちになれたねっ」
「ぼくにだって友だちのひとりやふたりくらいいるよ。
ソラはオレの試作装置の外部検証実験をしてくれるから
な。非常に便利な存在だ。自分が利用されているとわか
っていてなお、友だちでいてくれるっていうすっごく奇
特なコなんだよ」
「――かわいい女の子なのっ?」
「姿かたち? そうだねえ。大きな青い瞳が印象的な整
った顔つきの女子ではあるな。怒ると容赦なく殴りつけ
たり蹴りつけてきたりしたけど。職業柄しかたないよね」
ダブルは答えながら、そういえば職人はソラがダブル
を殴り倒した『ダブル事件』のときはラボにいなかった
ことを思い出した。まったく、あんな姿を見られたらの
ちのちなにをいわれたことか。見られなくてなによりだ
ったよ、とダブルは胸をなで下ろす。
「ふうん。ずいぶん仲がよさそうだねっ」
「まあね。ソラっちもぼくのことを『ダブルっち』って
呼んでいるしね。オレが渡した杖もちゃんと使いこなし
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てくれているしな。なかなかいいコだよ」
ヘリウムがダブルを見た。わざわざ壁面装置のガスク
ロマトグラフィー装置へタフの検体を入れる手を止めて
の行為だ。リチウムも水素も検体整理の手を止めてダブ
ルを見た。
「ん? みんなどうしたの? って、職人。どうしたの?
なんで泣きそうな顔をしているのさ」
「ダブルくんはそのコのことが好きなんだねっ」
「はいっ?」
思わずダブルの声が裏返る。どうしたらそういう話に
なるのか。
「ソラっちとはただの友だちだよ? すごく気が合うし、
損得勘定が互いに得意だっていうか。ソラはかなり危険
を伴う実験検証もいとわずやってくれるからな。ほんと
ソラっちと知り合えてよかったよ」
エヘヘ、と笑いかけてダブルは口を閉じた。職人が鼻
をすすっていた。泣いているようだ。どうして泣くの?
ぼくがなにをしたの?
「あ、アタシ、ずっとダブルくんと一緒にいるのになっ。
14年も一緒にいるのになっ。いろんな装置を見せ合っ
たり、いろんなアイデアを出し合ったり。アタシはすっ
ごく楽しくて。ダブルくんと喋っているとすっごく胸が
あったかくなったのになっ。ダブルくんはそういうこと、
なかったんだねっ」
「そんなことひと言もいっていないよ? ぼくも楽しい
し。すごく張り合いがある」
「張り合いだったのっ!」
「違うの?」
「違うよっ!」
うわぁん、と職人は声を上げて泣き出した。
ダブルはおろおろと両手を震わせた。な、なんだ?
まるで泣き上戸の酔っ払いの相手をしているみたいだぞ。
それだけじゃなくてさ。否定語を発する職人なんて始め
てみたよ! そんなに『邪気を取り除く』ガスは強力だ
ったんだ。タフだけじゃなくて職人までここまでひとが
変わったようにするガスってすごいねえ。違うだろう?
そこは邪気を取り除くと、駄々をこねる職人が残ると
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ころを驚くべきだ。ああそうか。
だがしかし、とダブルはしみじみと職人を見た。
無防備に泣きじゃくる職人はどこかしらはかなげに見
えた。肩もさらに小さく見える。ダブルは顎に手をあて
て小さくうなずく。こういう職人も悪くないねえ。ちょ
っと面倒だが、いままでの職人はそつがなさすぎたから
な。うん、いままでの職人は言葉のひとつひとつにキレ
がありすぎて、まったく油断がなかったからね。エヘヘ。
係長、と水素が呆れた声を出す。
「泣いているかたを無視して笑うなんて趣味が悪すぎっ
すよ」
「さあさあ、これをお使いください」とリチウムが職人
にハンカチを差し出し、「係長も悪気はないんです。少
しばかり配慮が足りないだけで。お気になさらないでく
ださい」とヘリウムが職人にバナナジュースを差し出し
た。ちょっと! ぼくひとりが悪者! とダブルは両手
を振り回す。
そのとき、ダブルの白衣から着信音が聞こえた。新着
メールの合図だ。
この忙しいのに誰だい、と発信者を見ると、ソラだっ
た。なんというタイミング! つかの間ダブルは葛藤す
る。状況的に見ればここでソラからのメールをチェック
するのはいささかまずい。けれどもソラには新作の試作
装置の検証実験を依頼してあった。『相手の痛覚を10
倍にするマングース型携帯スプレー・バージョン6』だ。
このメールはその使い心地を記したものだろう。どんな
結果が出たんだ! 見たい。いますぐに。
身悶えるダブルの脇に職人が素早く立った。そして目
にも留まらぬ速さでダブルの白衣からダブルの携帯電話
を取り出した。
「あっ。なにすんの!」
「新着メールだねっ。メールは早く見なくちゃダメなん
だよっ」
「わかっているから返してよ」
ダブルは携帯電話に手を伸ばすものの、職人はラボの
奥へと走り去る。……まあ、セキュリティをかけてある
から、ぼく以外のものが見ることはできないんだけどさ、
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と思ってダブルは目を見張る。職人が必死の形相で携帯
電話をいじっていた。携帯電話が壊れると思うほどの速
度でパネル操作をしている。ダブルが、やばい、と思っ
たのと、職人が「開いた」と言うのが同時だった。
「送信者は――『ソラっち』」
ラボの空気が凍りつく。職人は見たこともない形相に
なって本文を読み上げた。
「『ダブルっち。元気ですか。相変わらずろくでもない
ものを送ってきてくれてありがとう。このお礼は必ず1
00倍返しにするから覚えておいてよ。で。本題だよ。
今回のは――』」
職人は無言になって続きを読んだ。やれやれ、とダブ
ルキャラメル色の椅子に座った。いくら職人とはいえ、
ひとのメールを勝手に読むのはプライバシーの侵害だろ
う。糾弾すべきだよね。正気に戻ったらどんな謝罪を求
めようかねえ。ふうむ、とダブルが足をぶらぶらと揺ら
していると、職人がいきなり携帯電話をラボの壁に叩き
つけて粉砕した。
「ひっ!」
ダブルは飛び上がって水素の後ろに隠れた。職人はう
つむいて肩で大きく息をしている。
「とてもっ」と職人が低い声を出す。
「とてもっ」と職人が繰り返す。
「楽しそうにやっているんだねっ。アタシとはずいぶん
対応が違うみたいだねっ。そんなに若いコがいいのかな
っ」
「若い、って、職人だって十分に若いじゃん」
職人は、ばん、と作業台を殴った。作業台には大きな
亀裂が入る。
「お世辞は結構っ。アタシってダブルくんにとって邪魔
なんじゃないのかなっ。ソラさんと仲良くやっていれば
いいんじゃないのっ。アタシの存在はそんなに鬱陶しい
っ?」
正直いまはそうだな、と思ったけれども、そんなこと
を口にできるはずがない。困ったな。確かに『邪気を取
り除く』ガスを飛散させたのはぼくのミスだけど。どう
してオレがこんな窮地に立たされていなければならない
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んだ。
係長、とヘリウムがダブルに耳打ちをした。
「僭越ながらボクの秘策をお教えしましょうか。地球に
いたころはこういう事態に273回ほど遭遇したことが
ありますので」
「273回って、ヘリウムくんにそんなに女性遍歴の経
験があるなんてびっくりなんだけど」
「失礼ですね。こう見えても、ボクはかつて5回ほど離
婚を経験したことがあります。最高で27人と同時に交
際したこともあります。さすがに異性までは手が回りま
せんでしたが、下は10代から上は70代まで守備範囲
はあります」
「……ひとは見かけによらないね。それじゃあ、ぜひご
教授していただこうかな」
「もっとも手っ取り早い方法は、職人とソラさんを友人
にしてしまうことです。これであっという間に場はおさ
まります」
そんな簡単にいくの? とダブルが訝しそうな顔をす
ると、ヘリウムはダブルの白衣からダブルの予備の携帯
電話を取り出した。そして職人よりも手早くパネルを動
かした。ダブルは眉間にしわをよせる。むう。さすがテ
クニカル要員。瞬時の迷いもなかったよ。オレのセキュ
リティなどものともしないとはな。ちょっと悔しい。
そしてヘリウムは職人に携帯電話を差し出した。
「予備の携帯にもソラさんからメールが届いていました。
職人とお話がしたいそうです。なんでも係長についてと
ても不満があるそうでして。それなら職人とさぞお話が
合うだろうと、ボクから連絡を取りました。あとはこの
本文に入力をするだけです。さあどうぞ」
またもやぼくが悪者に。どうしてそういうことになる
んだ。ちょっと止めてよ。ダブルは職人から携帯電話を
奪い返そうとするものの、職人は携帯電話に入力をしな
がらもラボの中をちょこまかと動き回って捕まえること
ができない。
ダブルは頭を抱える。どうしちゃったんだよ。ぼくは
武道の達人じゃなかったの? それをソラに引き続き職
人まで捕まえられないとは。おかしい! なにかがおか
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しいぞ! 職人もソラも自分を上回る腕前の持ち主だと
いうことか! 職人には月面本社中の転送装置の配管内
部を確認できるほどの能力があることを忘れてダブルは
わが身の衰えを憂いた。
そうこうするうちに職人はソラと送受信を繰り返した
らしく、職人はあっという間に満面の笑みになる。
「ぼくの携帯が。みんなの愚痴のはけ口に」
「ご自分で蒔いたタネですから。きれいに刈り取ってく
ださいね」
ヘリウムはにっこりと笑う。
こいつら本当に邪気を除去されたのか。素で悪人なの?
なみだ目で周囲を見ると、水素はニヤニヤと笑い、リ
チウムは迷惑そうに作業台の修理をして、ヘリウムにい
たっては無表情に戻ってタフの検体の測定をしていた。
「あれ?」
これは――ほぼ日常の光景か? そうか、とダブルは
手を叩いた。アンノウン係の社員は普段からダブルが撒
き散らす反物質に接する時間が長い。だから予想外に『
邪気を除去する』ガスの効果が早く薄れたんだよ。でも
職人は?
ダブルは職人に顔を向けた。
職人は目を輝かせて携帯電話をいじっていた。ラボの
入口近くの椅子に座り、かたわらにはヘリウムが置いた
とおぼしきバナナジュースがある。ふわふわの長い髪を
左右に揺らしてくつろぐ姿はすっかりアンノウン係に馴
染んでいた。
いままでも職人はなんどかアンノウン係に顔を出して
いる。けれどもこれほど長時間に渡ってアンノウン係に
滞在することはなかった。『邪気を取り除く』ガスがい
まだ有効であるのは明白だ。むしろさらに感染状況を悪
化させているとすらいえる。
そんなことはわかっていたんだけどね。職人がラボに
飛び込んできた段階でわかっていたことだ。だけど『嫉
妬』する職人なんて滅多に見られないからねえ。目新し
くてつい職人の好きにさせてしまったな。そろそろ潮時
かな。
ダブルは職人の背後に立つと、職人の蝶の髪飾りに触
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れた。職人は顔だけをあげてダブルを見る。大きな瞳を
ゆっくりとまばたきさせている。ダブルはかがんで職人
の耳元に息を吹きかけた。
「またね」
我に返ったように職人は立ち上がる。そして、顔を真
っ赤にさせて、
「う、うん。お邪魔しましたっ」
とラボを走り出て行った。
「係長―。意地悪っすよー。どうせ追い返すならキスの
ひとつやふたつ、するのが礼儀ってもんすよー。かりに
も恋人なんでしょうが」
水素が野次を飛ばす。ダブルは職人の残したバナナジ
ュースをすする。恋人、ねえ。そうなのかな? これだ
けつきあいが長いとわからなくなってくるな。ソラっち
の比じゃないのにねえ。職人もわからなくなっているの
かもな。だから『嫉妬』?
「バッカバカしい」
ダブルはスキップで自分のキャラメル色の椅子に座り、
足をぶらぶらと前後に揺らした。
(6 へ続く
)