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会長によって拉致されたダブルは訳もわからず月面本
社に連れて行かれた。
「さてと。きみには技術開発部に入ってもらおうかな。
今までとは比べものにならないくらいの設備が整ってい
るからね。気に入ってもらえるはずだよ。一生、地球上
には降りられないだろうけれど、きみには問題ないだろ
う?」
会長はにやりと笑う。
「ここはRWMといってね――」
といまさらながらに、会社の概略を始めた。
もちろんそんな話をダブルは聞いてはいなかった。
どうして自分がこんなわけのわからない男に拉致され
なければならないのか。
どうして自分の攻撃がこの男には利かなかったのか。
ダブルの頭の中は疑問でいっぱいだ。
月面本社のカフェに導かれ、そのまま技術開発部へと
続く通路へと案内されようとして、ダブルは足を止めた。
透明なドーム型の天井を通して月が見えた。
「いや。あれは地球だよ」
会長が訂正をする。
「ここは地球から38万キロメートルほどはなれた場所
にある、月面だ」
38万キロメートルという数字が実感できなかった。
ダブルは呆然と眉月ならぬ眉状態の地球を見上げた。
「きみを誰に預けようかねえ。人手不足とはいえ、会長
のわたしがいつまでもきみの世話をしているわけにもい
かない。おっと、その前にきみのコードネームを決めな
くては。なにがいいかな」
会長は鼻歌をうたう。まあ座ろうか、とカフェの椅子
をダブルにすすめ、自分はカプチーノを注文した。
ダブルは突っ立ったままで地球を見上げた。38万キ
ロメートル。隔離された世界。月面。技術開発部。RW
M。さまざまな単語がダブルの脳裏をよぎる。20年以
上、自分を縛り続けていた次期当主の重荷。たゆまぬ修
行。裏山の山頂付近で赤くなり始めたカエデの木。自室
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に面した実験農場の品種改良した野菜たち。ラットの世
話は誰がやるのか。胴衣が眼前にちらついた。胴衣の映
像に試薬を入れたフラスコが重なる。祖母が険しい声を
だしている。『あなたは次期当主なのですよ。あなたが
視察にいかなくて誰が行くのです』。弟の声が重なる。
『兄さんができることをどうしてわたしがやる必要があ
るのです』。悲しげな母親の顔が浮かんだ。武道に励ん
でいても、実験に熱中していても、母親は悲しげな顔を
していた。『あなたは程度ということを知らないから』。
程度? 程度ってなんだ? 自分はなにをすればいいん
だ? みんなは自分になにをしてほしかったんだ?
試薬の入ったフラスコが割れて白煙が立ちこめた。祖
母の顔も父親の顔も母親の顔も弟の顔も白いもやの中に
消えていく。白いもやは糸のようになり、暗闇のなかに
白く浮かんだ。その白い糸がぷつん、と切れる。
すべてのしがらみが、ぷつん、と切れた。
そうか。自分はもう、あの家に関わらなくてもいいん
だ。
関わることはできないんだ。
なら――『ぼく』は『オレ』はなにがしたかったんだ?
「うわあ!」
ダブルは頭を抱えてうずくまった。
そこからの記憶はあいまいだ。
耳鳴りがした。手足が頬が首筋が、火のように熱かっ
た。血が吹き出しているのが時折見えた。自分が暴れて
いるのだとわかった。止められなかった。手当たり次第
のものを投げつけ振り回し、中央のオープンキッチンに
侵入して包丁一式を手に取り投げつけていた。20年間
の思いを吐き出す気持ちだった。あちこちで火の手があ
がっているのが見えた。黒煙も上がっていた。なんどか
捕獲されようとしたらしいが、20年以上の武道の鍛錬
が本能となって拒んだ。数え切れないガラス製品を素手
で叩き割った。なんにんもの人の頭を蹴り飛ばした。野
獣のようにほえている自分がいた。なにを口走っている
のか、自分でも理解できなかった。
ただ、施設を破壊することですべての不条理を埋めよ
うとしていた。
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ぼくがしたかったことはなんだろう。
オレがやりたかったことはなんだ?
こうして地球から遠く離れて実験に熱中することだっ
たのか?
だったら、どうして武道に打ち込んだ? 実験だけを
したいのならば、武道など手放してしまえばよかったで
はないか。それなのに、どうしてぼくはオレは武道にし
がみついた?
ダブルは嗚咽を漏らしてひざまずく。――答えはひと
つだ。自分の居場所が欲しかったからだ。武道にまい進
することで、ぼくはオレは生活の場を確保したかった。
あの家がなければ、ぼくはオレは生きてはいけなかった。
実験をすることもできなかった。ひとりで生きていくな
ど、到底できない。生活力などぼくにはオレにはかけら
もない。
瓦礫の山と化したカフェの中でダブルはおいおいと泣
き続けた。
そのダブルの前にカップが差し出された。
「はいっ」
小柄な少女が眼前にいた。ふわふわの長い髪をした白
衣を着た大きな瞳の少女だ。少女はマシュマロの入った
ココアを差し出していた。
「落ち着くよっ。ひと口でいいから飲んでっ」
少女はにっこりと笑う。
ダブルは呆然としてカップを受取り、呆然としてマシ
ュマロ入りココアに口をつけた。
美味しかった。
いままで飲んだどんなココアよりも美味しかった。
「マシュマロがとろりととけてクリームみたいだよねっ」
ダブルはこっくりとうなずく。
「あったかいココアって身体がじんわりとあったかくな
るよねっ」
ダブルはもう一度こっくりとうなずく。少女の言葉ど
おり、身体がほんわりとあたたかくなって、あれほど高
ぶっていた気持ちが、すとんと落ち着いていった。
あれ? ぼくはなにをあんなに怒っていたんだろう。
オレはどうしていても立ってもいられなかったのか。ダ
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ブルは目をしばたたいて周囲を見た。カフェの照明は壊
れ、通路に続く照明だけが点滅していた。非常事態を告
げる警告音が鳴り響いている。これほど大きな音なのに、
いままでまったく聞こえていなかったとは。その中で少
女の声だけが鮮明に聞こえているとは。
ダブルは不思議そうに少女を見上げる。――少女、『
職人』がダブルに渡したマシュマロ入りココアには強力
な精神安定剤が入っていた。職人が無傷でダブルに接近
できたのは、多種装置を使用したから、らしい。
「よかったねっ」
職人はダブルに満面の笑みを浮かべる。ダブルは涙を
ぬぐってポケットをまさぐった。なんの装置でもなく純
粋に装飾品としての蝶の髪留めが手に当たった。
米軍へ軍事訓練に赴いた際に買い求めたものだ。その、
いましも飛び立とうとしているような金色の蝶の姿に心
引かれた。いつも不安げにしている母親へ渡したら喜ん
でもらえるかもしれないと思って買った。
けれど、渡すことはなかった。同行した弟が別の土産
品を母親へ手渡していたからだ。その喜びようを見て、
ダブルはなぜだか蝶の髪留めを手渡すことができなくな
った。渡せばおそらく母親のことだ。喜んでくれるのは
わかる。もし弟が土産を渡さなければ自分は渡しただろ
うか? 渡せない蝶の髪留めを見てダブルは首を傾げる。
どうして自分は母親に渡さないのだろう。さらにダブル
は首を傾げた。
母親にはもう自分のことを見ていて欲しくないと思っ
た。もっと弟のことを気にかけて欲しいと思った。その
うえで、自分をもっと見て欲しいとも思った。矛盾だら
けのくだらない発想にダブルは戸惑い、それでも捨てる
ことができずにずっと持ち続けていた蝶の髪留めだった。
その髪留めをダブルは職人の髪へ、そっと、つけた。
「いいのっ?」
ダブルはこっくりとうなずく。なぜだかとても気持ち
が軽くなった。そのまま職人の髪へと手をのばし、職人
の髪をゆっくりととかした。愛しげに髪留めにも触れる。
髪留めが暗闇の中で通路の明かりを受けてきらりと光っ
た。
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「……よく似合っているな。ぼくが持っているより、き
みがつけていたほうが素敵だね」
なるほど、と声があった。
会長が隣りに立っていた。ダブルにもっとも近くにい
たにもかかわらず、会長は傷ひとつ負っていなかった。
白いスーツも汚れひとつない。
「きみは二重人格になったんだね。それはとてもいい気
持ちの落ち着け方だと思うよ。上出来だ。下手をすれば
発狂していたからね。これ以上月面本社を破壊するよう
だったら、遺憾ながらきみを処分するところだったよ」
ね、と笑いながら会長は拳銃をダブルに見せる。銃口
をダブルのこめかみに当てた。引き金を引きそうな構え
を見せる。ダブルは動かない。不遜な眼差しのまま会長
を見つめる。
ははは、と笑って会長は銃口を下ろした。
「きみのコードネームを思いついたよ。『ダブル』だ。
二重人格だからダブル。わかりやすくていいだろう?
さてダブル。きみにはカフェの修繕作業から始めてもら
おうかな。きみならお安い御用だろう?」
会長は大袈裟な身振りでダブルに微笑む。
「1時間以内に頼むよ。シェフたちが夕飯の準備をした
がっているからね」
むちゃくちゃな依頼である。自分で破壊したとはいえ、
無事なのは透明なドーム型の天井くらいなものだ。ダブ
ルが抗議の声を上げようとしたときだ。
「大丈夫っ」
と職人が助け舟を出した。
「ちょうどアタシ、新しい装置を開発したところなのっ。
それがあれば1時間なんて軽いよっ。蝶の髪留めのお礼
っ」
「わたしはダブルに依頼をしたんだよ?」
「会長っ。見て見て。この髪飾り。可愛いでしょっ。似
合うでしょっ」
職人は満面の笑みでその場でくるくると回りだした。
職人の草履がぱたぱたと音を立てる。その音に呼応する
かのように、破壊した施設の修復が始まった。
「……時間をまき戻しているのではないだろうね」
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「違うよっ。アタシは規約違反はしないもんっ。この装
置はねっ。一時的に物質に意思を持たせて自主的に元に
戻ろうとする気持ちにさせるものなのっ。形状記憶の応
用だよっ」
それならぼくもやったことがあるよ。あの自分の実験
室で、薬サジが見つからなくてイライラしたときに「自
主的に出てくればいいのに」と思い立ったのが発端だっ
たな。ああ。そうだったな。あのときの装置は。
ダブルは髪留めが入っていたのとは反対のポケットを
まさぐる。そして画鋲のようなものを手のひらいっぱい
にとりだした。それを壊れた施設のそこかしこに蒔いた。
そして「戻れ」と声をかける。画鋲のようなものが張り
付いた建具はみるみる元の状態へと戻った。
ほほう、と会長が顎に手をあて、職人が「やるねっ」
と笑った。「負けていられないねっ」と職人がさらにタ
ップダンスのように草履を鳴らして、ダブルも画鋲をど
んどん投げつけては「戻れ」と呼びかける。カフェはも
のの10分としないうちに元の状態へと戻った。
「――とんだ拾い物をしたな。やはり地球上に放置しな
くてよかったな」
会長はしみじみうなずき、これまたもとどおりになっ
たカプチーノを口に含んだ。
事態におののいていたシェフたちも料理を再開し、カ
フェは通常営業を開始する。
ただし、だれもダブルには近づかなかった。当然だろ
う。さんざん大暴れしてカフェを崩壊させたあげく、た
った10分でもとの状態に戻すような人間に関わりたい
社員がいようはずがない。
このできごとは『ダブルショック』として、ダブルを
恐れるに足る事件として語り継がれていった。
――14年前の話である。
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でもさ。ああそうだな。あの『ダブルショック』って
いうネーミング。あれもひょっとしたら会長がつけたん
じゃないのかな。あのひとならやりかねないな。あれか
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ら14年がたつけど、どうしてぼくが会長に歯が立たな
かったのか、技術開発部のどんな装置を使ったのか、い
まだによくわかんないしね。ひょっとしたら会長の実力
かもしれないしな。ええ。それはすでに人間じゃないよ?
おう。人間じゃないかもしれないぞ。
ダブルは作業台に頬杖をつく。
会長か……。いまごろ、どこでなにをやっているんだ
ろうねえ……。
当主になったであろう弟や母親や引退した父親を懐か
しく思うことはすでになかった。家族から引き剥がされ
た恨みなどはじめからなかった。感謝こそしなかったけ
れど、ここにきてダブルは充実した時間を過ごしている。
「係長。バナナジュースのおかわりですよ」
ヘリウムが作業台の上へカップをおいた。にっこりと
微笑んでいる。う、とダブルは身構える。とにかく、蒔
き散らかしたガスと反物質の反応物質がどんな影響を生
み出すのかだけでも調べておこうかねえ。
冷や汗をかきつつ、ダブルはバナナジュースをストロ
ーですすった。
(5 へ続く
)