〜
2
作業の手を止めてヘリウムがタフにバナナジュースを
差し出した。
「おう。すまねえな。ん? なんじゃこりゃあ。めちゃ
くちゃ旨いぞ。お前が作ったのか? お前! 天才だろ
う!」
タフはヘリウムを褒めちぎって一気にバナナジュース
を飲み干した。お代わりを、とグラスを下げようとする
ヘリウムを、いいっていいって、とタフは首を振った。
「邪魔をしにきたんじゃねえからな。悪かった。作業を
続けてくれや」
はい、とヘリウムが嬉しげに微笑む。
表情豊かなヘリウムなど邪心を取り払っているにもか
かわらずむしろなにかよからぬことを企んでいるように
しか見えなくて、怖いよう、とダブルは両腕をさすった。
タフはタフで終始、温かい眼差しを作業に励む水素に
ヘリウム、リチウムへ投げかけている。いつもとはまる
で違う。
「おう水素。この棚の上にあるやつは、ウチへ持って来
ようとしていた書類か? あとはダブルのサインをもら
うだけだな。よしダブル。ちょっくら、ここにペンでサ
インしてくれや。あとはオレがやっておくからよ。ああ
いいぜ、礼なんてよ。気にすんな。お互いさまってやつ
だ」
とまで言い出す始末だ。
これは。おお、これは。決定的だね。決定的だな。『
邪心を取り除く』ガスはどうやらこのラボだけに拡散し
たようではなさそうだ。タフのいる係まで飛散したとい
うことは、技術開発部全体に飛び散ったと見ていいだろ
う。
そんなに強いガスだったの、とダブルはいまさらなが
らに眉を曇らせた。いやいや、と首を振る。『邪心を取
り除く』ガス単体ならそこまでの即効性と拡散性はない
はずだ。でもタフは感染している。なぜだ。
おう、とダブルは手を打った。
反物質でできた試作装置だ。
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
全部反物質でできたパワー制御装置。キャンディー型。
あれを爆発させたっけ。1度や2度じゃないからねえ。
エヘヘ。なんども爆発を繰り返しているうちに正物質と
反応をしてなんらかの物質を生み出し、それが『邪心を
取り除く』ガスと化合して技術開発部全体に数時間でい
きわたるほどのなんらかの強力なガスとなったってこと
か。うわあ。なんらか、なんらかってさ。すっごくあや
ふやで怪しげなガスができちゃったもんだねえ。これは
いつガス抜けするかわからないぞ。そもそも個人差があ
るだろうしね。ぼくなんてなんともないし。
「それから、すまん」
いきなりタフが謝った。
「事後報告になった。例の検体がまた大量に発生した。
断続的に発生をしている。全部回収するように指示を出
したから、どんどん転送装置で運ばれてくるはずだ。お
お、もう来ていたか」
タフは転送装置が稼動していることに気づいて「悪い
な」とダブルに頭を下げた。
「待ってよ。おんなじような検体なんでしょ。なにも全
部採集することないじゃん。2個や3個ならまだしも1
000個単位で送られてきたら――」
最終的に全部のデータに目を通して対策書面を書くぼ
くが大変じゃん、といおうとしたところにヘリウムが割
り込む。
「検体は多いほうがいいです。より正確な数値を割り出
せますから。今後もすべての採集をお願いします」
「待って。測定するのはヘリウムくんなんだよ。お人よ
しなことをいっていると苦労するのはお前なんだぞ?」
「ボクの苦労などいかほどのものでしょう。より確実な
数値を得ることのほうが重要に決まっています」
「へ? ちょいとヘリウムくん?」
「できることならおなじ検体で3回は測定をしたいくら
いです。より確実な数値を得ることができますから」
ヘリウムの後ろに後光がさして見えた。ダブルは、う
わあ、と手で光をさえぎる。
いつもなら「ボクの仕事を増やさないでくださいね」
と濁った眼差しでいい放つのに。「いかに効率よく検体
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
を測定するか」に情熱を注いでいるのに。
恐るべし。『邪心を取り除く』ガス。『邪心を取り除
く』ガスに感染したあまり、ヘリウムは経験則まで忘れ
てしまったようだ。どれだけ大量の測定値を出そうとも、
「そんなことは結局書類を書く上で無駄な作業だ」とい
うことすら忘れてしまったらしい。
必要なのはピンポイントを押さえたデータだ。
どれだけ詳しい測定データを出そうとも、すべてを報
告書に記載して対策案に盛り込むわけにはいかない。ア
ンノウン係に来たばかりのころでもここまでヘリウムに
情熱はなかった。そもそも納期に間に合わない。間に合
わせたことなどないくせにダブルはしかめっ面をしてみ
せる。
とにかく、必要以上に検体を送りつけられるのは迷惑
だ。断固として抗議しなくては。
タフ! あのね! と話しかけようとしたところを、
今度はリチウムが割って入る。
「こちらがその採集地点ですね。これはまた多岐にわた
っていますね。承知しました。僕が誠心誠意を込めて検
討させていただきます。これほど大規模な仕事ははじめ
てですね。わくわくします」
うふふ、とリチウムは頬を染める。
わくわくだと? 隙あらばサボってばかりいるリチウ
ムが仕事に情熱を覚えるだと? ダブルは耳を疑った。
だいたいリチウムくんは日ごろからどんな仕事をして
いるのかわかんないコじゃん。それはオレも同じだがな。
それでもぼくはちゃんと書類にサインをしているよ。さ
っきだってタフの指し示した場所にサインを書いたしね。
「ひどいいいようですね、係長。僕の仕事は僕がラボに
いることにより優雅な時間を流すことだと認識していま
した。せかせか仕事をしても美しい解析はできませんか
ら。うふふ。ヘリウムはせっかちだから測定データをど
んどん渡してくれますけれど、そこから法則性を見出す
のはなかなか骨なんですよ?」
「納期は守れ」
タフががつんと釘をさす。リチウムは素直に「はい。
タフさん」と頭を下げる。
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
もうなんでもいいけどね、とダブルはバナナジュース
をすすった。『邪心を取り除く』ガスが効いているうち
にどれだけ仕事を進められるか。願わくば全部終わらせ
たいところだが、さすがにそれは無理だろう。なにしろ
3426個体、1153地点分あるのだ。やすやすと測
定して解析して結論を出せるしろものではない。
いま現在どんどん送られてきている検体は最悪まあ、
無視しちゃってもいいよね。おそらくいいたいことはひ
とつだろうからな。エヘヘ。
再びダブルの脳裏に職人のふわふわの髪が浮かんだ。
きらりと蝶の髪留めが光る。バナナジュースをすすりな
がら、ダブルはほんのり頬を緩めた。
んで、とダブルはコップからストローを取り出すと上
下にぶらぶらと動かした。
「『ダブル事件』ってなに」
「は? 自分のことだろうが?」
「そうみたいだけど、ぼく、よくわかんないんだけど。
いいから教えろやコラ」
それがものを頼む態度か、と怒鳴られるかと思いきや、
タフは「おおそうだよな」としみじみとした口調でダブ
ルの前に顔を突き出した。
内緒話をするような姿勢でタフは「お前」と切り出す。
「ソラちゃんに殴られたんだって? まあ、いままで散
々なことをあのコにしていたから、因果応報ってとこだ
ろうが。女の子に殴られるなんて、まあ、その、ちょい
とな。男として思うところがあっただろうなと、まあ、
オレも他人事ながらいたたまれなくなってよ」
タフは鼻をかきかきダブルに憐れみの眼差しを向ける。
「……どうしてそのことを知ってんの? タフは仕事中
だったはずだよね
「どうしてって、おま、知らないのか?」
「なにをさ」
「だってソラちゃんは情報調査部員だぞ? カフェじゃ
なくて情報調査部員自ら技術開発部内へやってくるなん
て、ありえねえだろうが。リペア部員のオレだって出向
扱いじゃなきゃ居たくないくらいだぞ」
それをわざわざやってくるなんて、どれだけ技術開発
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
部内に波紋を起こしたか。
はうっ、とダブルはストローをコップに落とした。な
んてこった! 身もだえする。
ある意味、隔離された空間といえる技術開発部は外部
情報に飢えている。
医療メンテナンス係のだれそれと試作装置開発係のだ
れそれが通路で手のひらを叩き合っていた、それだけで
話のネタとして半年は使えるほどだ。
ダブルもそれだけの事項を、
「きっとかれらは手のひらを叩き合うことで魂の交流を
したんだよ。時空をも超える実験を行ったのかもしれな
いな。部内ではどんな実験をしてもおとがめナシだもん
ね」
と茶化して楽しむほどだ。
それをあろうことか、自分がネタを提供してしまうと
は! 自分が10年レベルで語り継がれる事態を起こし
てしまったとは! あああ、とダブルは作業台に突っ伏
した。もう、立ち直れないかもしれない。涙で前が見え
なくなる。
思えば自分が知る限り、情報調査部員が単独で技術開
発部内へ侵入したことはない。セキュリティ解除システ
ムをもっていないソラが単独で技術開発部へ入れたこと
だけでも10年レベルの語りネタだ。
そのうえ、技術開発部で随一と謳われるマッド・サイ
エンティストの自分を殴り倒したうえに謝罪をさせたの
だ。騒ぎにならないわけがない。
感情の覚醒をしたソラが、今後も継続して試作装置の
外部検証実験をやってくれるという申し出が嬉しくてつ
い忘れていたけれど。あのとき、ラボの外にはどれだけ
の人垣があったことか。やつらに、このぼくが、このオ
レがただで情報を提供していたなどと、こんな名折れが
あってたまるか!
ダブルは悔しくて作業机をがじがじと噛んだ。
それに、なんだ? 『ダブル事件』? だれだよ、そ
んなセンスのない名称をつけたヤツは。会長か、ってレ
ベルだよ。案外、会長本人かもな。え? 嫌なこと思い
つかないでよ。……ありえるじゃん。だったら会長にも
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
見られていたってことじゃん! ダブルはさらにはげし
く身もだえた。
それからよお、とタフは言いにくそうにダブルを見た。
「『ダブルショック』ってなんだ? だれに聞いても教
えてくれないんだが」
ダブルの眉がぴくりと動く。
「……だれに聞いたの?」
「な、なんだよ。なに怒ってるんだ? 聞いちゃまずか
ったのか? すまん。悪かった。忘れてくれ」
「忘れる?」
ダブルの声が低くなる。
忘れるわけないじゃん。忘れることができたらどれほ
どいいか。どれだけ忘れたかったことか。くうう。あれ
から14年もたっているのに、まだいいふらしているや
つがいるなんて。部長?。もしやモジャ毛か あいつは
まだいなかったはずだが、又聞きしたのか。人事や庶務
の仕事も兼ねる営業部員だからありえるよ。そういえば
あれにも会長が絡んでいるじゃん。絡んでいるというか
むしろ首謀者だ。
おのれ会長。ダブルは再び作業机をがじがじと噛んだ。
――『ダブルショック』――。
それは14年前にダブルがRWMの月面本社につれて
来られた日の出来事だ。
正確にいえば、会長によってダブルが月面本社に拉致
された日にダブルが起こした騒動だった。会長さえぼく
の前に現れなければ起きなかった騒動で、職人がいなけ
ればおさまらなかった騒動だ、とダブルは被害者意識に
どっぷり浸る。
だからというわけではないけれど。
ダブルの脳裏にまたもや職人のふわふわの長い髪が浮
かんだ。きらりと光る蝶の髪飾りが残像として視界をよ
ぎる。
どうしてもぼくは職人に弱いんだよね。
たとえ職人がなにをしようとしていようとも、オレは
職人に全力で加担する。たとえば地球を2つに割ろうと
していても人類を滅亡させようとしていても、オレは職
人を手伝うだろう。ま、職人なら地球を2つに割ろうな
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
なんてしないけどね。人類は知らないけど。
(3 へ続く
)