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第2章ラブ・アンド・ピース
1
「ほらほら係長。こんなところで、うたた寝をしていた
ら風邪をひきますよ」
春風のように柔らかい声が聞こえてダブルは目を覚ま
した。
誰かな。水素くんだったら「こんなところで寝てるん
じゃねえ。邪魔っす」と吐き捨てるだろうし。ヘリウム
だったら完全無視をするだろうな。リチウムくんだった
ら「はいはい、ちょっとどいてくださいよ。うふふ。係
長の上で実験しちゃいますよ」と物騒な発言をするだろ
うし。だがこの声には聞き覚えがあるぞ? ううん。そ
うだねえ。
ダブルは目をこすりながら作業台から顔をあげた。
ぎょっとする。
目の前で水素とリチウムが、作業台の上に散らかった
フラスコ、ビーカー、エッペンドルフにチップ、シャー
レー各種に317件の手付かず書類を片付けていた。驚
くべきことにヘリウムまでが測定の手を止めて作業台を
実験用タオルで拭いている。
「な、なにをしているのかな」
リチウムが爽やかに微笑む。リチウムの爽やかな笑顔
など初めて見た。ダブルはつい、ひっ、と短く悲鳴をあ
げた。
「嫌ですねえ。ご覧の通り片付けですよ? 散らかって
いては気持ちよく仕事ができません。重要書類が試薬に
まみれたらまずいでしょう? ああご心配なく。係長の
作業エリアは手をつけていませんから。大切な実験の途
中なんですよね。大事ですよね。自分のテリトリーって」
「ちょうど朝飯もできたところっす。シナモンロールパ
ンにカリカリベーコンつき半熟目玉焼き、それにバジル
ドレッシングのグリーンサラダっす。いい研究は健全な
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食生活からっすよ」
「たっぷりミルクのカフェオレにしますか? それとも
紅茶? アールグレイ、ダージリン、アッサム、どれに
しましょうか。ミルクティにするならアッサムがおすす
めです」
見渡すと散らかり放題が常のアンノウン係のラボがま
ぶしいまでに整理整頓されていた。
試作品はジャンルとサイズ別にガラスの棚におさめら
れ、使用した実験器具は洗浄して乾燥させた上で棚に並
んでいた。実験データはすべてファイル化されて緊急度
合と依頼順に分類されていた。未測定の検体はヘリウム
の作業エリアの背後に順番毎にコンテナに収納されてい
た。ダブルが散らかして放置していたチョコレートやポ
テトチップなどの菓子類までも袋の口をクリップ留めを
して駕籠に入っている。しかも店先のごとく可愛らしく
レイアウトして並んでいた。
本来あるべき光景ではある。もちろんアンノウン係で
は明らかに異常事態だ。
なに。なにが起きたの。眠っている間にオレがなにか
をしたのか。すぐさま他人ではなく自分を疑うのが悲し
い性だ。思い当たる節がありすぎる。
「う」
作業エリアのサンプルケースに手を伸ばしかけてその
まま止まった。
サンプルケースのフタが開いていた。
中身が空になっている。
ダブルは荒くなる呼吸を必死で整える。ちょ、ちょっ
と落ち着こう。ここにはなにを入れていたっけ。ぼ、ぼ
く、昨日眠る前までなにをしていたんだっけ。落ち着け。
わかってるよ。ぼくだって落ち着きたいさ。深呼吸だ。
うん。深呼吸。
サンプルケースの中に入っていたもの。それはダブル
の試作中の装置『邪心を取り除くキャンディー』の原材
料だった。きれいさっぱり空になっているところをみる
と材料は気体になってラボ中に散乱したのだろう。
ダブル自身にはなんら影響がないのは、おそらくずっ
と原材料をあつかっていたために身体に免疫ができてい
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たからだろう。
まずいねえ。あれはどれくらいの効果があるんだ?
少量ならまだしも原材料がそっくりそのままガスになっ
たからね。ひょっとして、こいつらがずっとこんな気持
ち悪い笑顔を振りまくことになるんじゃないだろうな。
やめようよ。そういう想像は身体に悪いよ。大丈夫だよ。
1週間もすれば身体からガスが排出するって。多分。
「なにをぶつぶついっているんです? さあさあ冷めち
ゃいますよ。早く食べましょう」
水素が温かくダブルの背中を押す。
いつもの書類でとっちらかっている作業台の一角には
テーブルクロスがかけられ、4人分の朝食がセットされ
ていた。
シナモンロールパンにはたっぷりと粉砂糖のアイシン
グがかかっていた。それをダブルは指先で舐め取りなが
らそっと口へ運ぶ。シナモンの香りとブラウンシュガー
の香りが口いっぱいに広がった。ブラウンシュガーの間
に入ったクルミの食感がたまらない。半熟卵の鮮やかな
黄身がかかったベーコンはぱりぱりした食感にまろやか
さが加わる。ミルクたっぷりのカフェオレはコクがあっ
て砂糖なしでも甘いくらいだ。
「ヘリウムくんが作ったの? ヘリウムくんの料理の才
能には脱帽するねえ」
こんな料理がカフェ以外で食べられるのなら、毎日『
邪心を取り除く』ガスをラボに放出したくなる。穏やか
な表情でシナモンロールパンを口に運ぶ水素にヘリウム、
リチウムを見て、これはチャンスでは、とダブルはひら
めいた。
いまならこいつら、どんな無茶なことでもやってくれ
るかもしれない!
カップを置くとダブルは整理された書類へと向かった。
一番上の書類を手に取る。『大地溝帯』についての書類
だ。ソラが帰り際に捨て台詞のように伝えた穏やかなら
ぬ地域の情報を集めたものだった。
「『大地溝帯』がどうかしたんすか?」
「水素くんはタフからの検体採集地点データをもらって
いるんだよね」
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「すんません。まだファイルの中で、手付かずっす」
「いいんだよ。そのファイルの中に『大地溝帯』がある
かどうか調べてくれる」
了解っす、と水素はシナモンロールパンをくわえたま
までパソコンに向かった。文句ひとついわない。なんて
すばらしい。しかも迅速。ダブルは感動で身体を震わせ
た。
「『大地溝帯』ってアフリカ大陸を南北に縦断するプレ
ート境界のひとつですよね。うふふ。ときおりマントル
が噴き出ている姿が見えるという、あの躍動感あふれる
地域ですね。僕、大好きなんですよ。それがどうかした
んですか?」
「あ。タフのデータのなかにその『大地溝帯』が採集地
点にあったっすよ」
「ふうん。なら、まだまだその地点からは検体が湧き出
ているってことだね。ほかの採集地点はどんな感じ?
地図上に落としたのをスクリーンに投影してくれ」
了解っす、とこれまた水素は迅速にデータを作業台上
空に映し出す。なんて便利なんだ『邪心を取り除く』ガ
ス。ダブルは思わず目頭が熱くなった。
そしてシナモンロールパンを口に入れながらダブルは
スクリーンを見入った。
採集地点は1153地点。
アメリカ五大湖のスペリオル湖、アマゾン川流域各所、
オーストラリアのキャンベル、アイスランドのバトナ氷
河、エジプトのアレクサンドリア、バングラディッシュ、
ボストン、西南極氷床のロス棚氷跡地およびロンネ棚氷
跡地、アルプスのモンテローザ、イギリスのハンバー回
廊地帯、シドニー、フェロー諸島、ロコール島近隣海底、
モロッコ、モーリタニア、ペルー、カリフォルニア、地
中海沿岸一帯、紅海・アデン湾、南アジア湾、東アフリ
カ沿岸、西・中央アフリカ西大西洋一帯、カリブ海、南
アメリカ西大西洋沿岸、南アメリカ東太平洋沿岸、東ア
ジア海一帯そして大地溝帯――、と海から内陸まで各地
に及んでいる。
ほほう。これは。ダブルの目に輝きが増す。
ダブルの記憶によれば、これらの地点はRWMが発足
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して以来、確実に対処を行った事業地点だ。創業130
年では、もちろんもっと多くの地点での仕事を請け負っ
ている。少なく見積もっても、この倍の地点とはいえる。
さらにつけくわえるなら。うちがやったってことは。
ああそうだな。技術開発部にいるとつい忘れちゃうけど
ね。うちの主体業務は環境干渉コンサルティング業だか
らな。どれもかしこも環境問題があったってことだよね。
それもデカイ仕事ばかりだ。エヘヘ。
たとえば、とダブルは自分の脳内のデータバンクを検
索する。
アメリカ五大湖のスペリオル湖っていえば、その昔っ
ていうか1万3000年くらい前、『アガシー湖』って
いう巨大湖があった場所にあるわけで。『アガシー湖』
を支えていた自然のダムが五大湖のざっと7倍の量の水
がハドソン湾に流れ込んで大西洋の海水の濃度を変えち
ゃって世界的気候変動を起こしたことがあるっていう、
いわくつきの場所だしね。『ヤンガードリアス』だな。
そうそれ、『ヤンガードリアス』だよ。別に最近また『
ヤンガードリアス』が起きたってことは聞いてないけど。
起きていたらこうして試作装置など作ってはいられない
がな。それに関連する調査事業をした形跡はあるしね。
地中海沿岸一帯、紅海・アデン湾、南アジア湾、東ア
フリカ沿岸、西・中央アフリカ西大西洋一帯、とかいっ
たなんだかよくわかんないけど、海沿いの地点というの
は、あからさまに海洋汚染に関係しているよね。油膜事
件とか赤潮発生水域に間違いあるまい。アフリカ大陸北
側沿岸がノーマークなのが決定的だな。北側の内陸は採
集地点だらけだけどね。そりゃ砂漠地帯だからだろう。
だよね。
ダブルは上機嫌になって足をぶらぶらと揺らした。
それからフォークをくるりんと回してヘリウムへフォ
ークを向けた。
「あのね。お願いがあるの。タフから送られてきた検体
ね。あれを先に測定してくれないかな。きみにはきみの
優先順位があるのはわかってるんだけどさ。なんという
かな。タフが送りつけてきた検体はこれで終わらないか
らな」
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いい終えてダブルはフォークの先を転送機へ向ける。
現にいまも転送機が稼動して、タフが送りつけた検体
と同様な検体を吐き出し続けていた。水素とヘリウムと
リチウムの掃除のおかげか、昨日までは床へ無秩序に転
がり落ちていた新しい検体は、転送機から排出されるや
いなや、新しいコンテナに収納されて、整理整頓がされ
ていた。そのコンテナも時間を増すごとに数を増やして
いる。
「だからね。せめて、タフが持ってきたやつだけでも先
にやっておこうよ。面白いよ。気持ちもさっぱりするし
さ」
ダブルは渾身のきらめきで微笑んだ。ダブルの頬の周
囲にはきらきらと光が飛び散る。吹き抜けから差し込む
光のせいだけではなく、ダブル自身の自己発光だ。ホル
モンの分泌といってもいい。初めて会った女子ならば、
その笑顔でいちころだろう。
それでも付き合いの長いヘリウムのこと、おそらく自
分のポリシーを貫くことだろうとダブルは半ば諦めてい
たのだが――。
ヘリウムはあっさりとうなずいた。
「わかりました」
「い、いいの? 本当に?」
「すぐ始めます」
なんですと。ダブルはあんぐりと口を開ける。そして
ダブルは頬に手を当てた。自分で作って撒き散らしたガ
スではあるものの、『邪心を取り除く』ガス。……すご
すぎる。
「リチウムさんと水素さんも協力をお願いします。単純
作業は人数がいたほうが早いので」
「おう、まかせておけ」
「なんでも指示をしておくれ」
水素とリチウムも快く応じる。「どれからやるんだ」
と白衣の袖をまくる張り切りようだ。
なんとっ、とダブルは再びあんぐりと口を開ける。い
つもなら、
「甘えるんじゃねえ。俺にだって提出しにいかなくちゃ
ならねえ書類がある。しかも1度で受理されたことがね
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え書類ばっかだ。ことにタフが係長になってから融通が
利かなくてやってらんねえー。『3ページ目は形式Fで
8ページ目は形式Rで。4ページ目下の印は判子ではな
く自筆サインだ』っていわれてみ? 自筆サインって係
長だぜ? そこでまた1ヵ月待ちだぜ」
と水素は肩をすくめただろう。
リチウムはリチウムで、
「手伝いたいのは山々だけどね。ヘリウムが出してくれ
たこの値、本当にマイナス数値なのかい? うふふ。困
ったねえ。どう解析したらいいものか。そうだ。もう1
回測定してくれないかい? プラス数値になってくれる
と美しい解析データに揃うんだよ」
とヘリウムの仕事を増やすのが関の山だ。
それを――水素がタフの検体の入ったコンテナを順番
に並び替えて、リチウムが手袋をつけて検体を注意深く
測定分だけ取り出して、ヘリウムが測定装置へと検体を
注入していた。無駄口ひとつ叩かない。機敏な動きがす
がすがしい、を通り越して――気持ちが悪い。
ダブルが口元に手を当てたときだ。
あわただしい足音がして大柄な男がラボの扉を開けた。
タフだ。
「ダブル!」とタフは目に涙を浮かべて叫んだ。
なに、なに。ぼく、今度はなにをしでかしたの。青ざ
めるダブルにタフががっしりと抱きついた。
「いままで邪険にしてすまんかったなあー。『ダブル事
件』があったんだって? 大変だったな。ケガはもうい
いのか? 痛いところはないか?」
「い、いま苦しい」
「さっき届いたばかりのデータだ。新しく送られてきた
例の検体の収集地点が入ってる。ほかに必要なものはな
いか? なんなりといってくれ。書類もここで受け取る
ぞ!」
なに、なに。どうなってんの。それに『ダブル事件』
ってなんだ。ダブルはタフの腕の中でもがいた。
(2 へ続く
)