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◇◆試し読み◆◇
でも、と女は続ける。
「『こんな山の中で』ひとりで調査をするのは感心しな
い。熊だってうじゃうじゃいるし。それに」
そこに崖から男が飛び降りて来た。東側の五十メート
ルはありそうな絶壁だ。
「お待たせしました、時子さん」
「こういうのも出て来る」
女は男を指さした。
男はクリーム色のスーツを着てピンクの蝶ネクタイを
締めていた。手には棒キャンディーを持っている。二十
代後半だろうか。崖から飛び降りたというのに男は息ひ
とつ乱していない。それどころか、おやおやおや、と両
手をひらひらと動かした。
「こんなところに民間人がいるとは。穏やかではありま
せんね」
「マッド。あなた、わかっていてここを指定したわね」
「心外です。時間がないとおっしゃったのは時子さんで
すよ。わたしは最短で最適な場所を指定したまでで」
「八回も指定場所を変えたあげく百八十七秒も遅刻をし
ておいて『最短で最適』」
「いろいろ邪魔が入りました。『最短で最適で安全』な
場所です。まったく。警戒心というのはとめどがありま
せんね。一度不安になると『この程度の防御では不完全
かもしれない。もっと頑丈にしておこう』、そう思うわ
けです」
「それは自分に対して言っているのかしら。『奴ら』に
対して言っているのかしら」
「両方です」
「あなたの演説はもう結構。わたしはわたしの仕事をす
るだけだわ」
「さすが時子さんです。話が早い」
二人の意味不明なやり取りを耳にしながら海は女に釘
付けになる。
女も男同様、二十代後半だろうか。ストライプの入っ
たグレーのスーツから覗く白いシャツがまぶしかった。
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センターパートのショートヘアーが風に揺れている。歯
切れのいい口調が気持ちいい。
なにより海の目をひきつけたのはその所作だ。
男が棒キャンディーの柄をくるくる回して茶化すよう
な仕草に対し、一貫して突っぱねるその動きの一つひと
つが絵になった。日本舞踊の型を見ているようだ。それ
でいて不自然さはどこにもない。上質なたたずまい、そ
れを身に備えていた。
「それで」と時子と呼ばれた女が海を指さした。
「彼は何? あなたの言う防御なわけ? 民間人が?」
「ただの通りすがりの学生です。ただし地質学専攻。堆
積学のプロです」
「なぜ知っている」ようやく海は声を出す。
「わたしは情報調査部員ですよ? これくらいのことが
わからなくてどうしましょうか」
「情報、なんだって?」
「これは申し遅れました。わたくし、こういう者でして」
とマッドが海に名刺を渡そうとするのを時子が遮る。
「悪趣味だわ。こんないかにも勤勉そうな学生を利用し
ようだなんて」
「さすがお目が高い。彼は晴れて卒業ののちは警察官に
なるんですよ。ばりばりと実績を上げれば警部補への道
も遠くないでしょう」
「だからどうしてそれを知っている」
「ですからわたしが情報調査部員で」
ああもう、と時子がマッドと海の間に身体ごと割って
入った。
「どうして邪魔をするんです? 彼はわたしたちの探し
物を手伝うには最適な人材ですよ?」
「私は運ぶだけよ。それが仕事で、それ以上は何もしな
い。今もこれからも」
「つれないことを。長い付き合いだというのに」
何が何だかさっぱりわからない。揉み合いながら海の
視線がふと時子の左手薬指に止まった。銀色のリングが
あった。弾みでマッドと呼ばれた男の左手薬指を見る。
これまた同様な銀色のリングだ。
「そういうことか」
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知らずつぶやいていた。つぶやいて胸に手をやる。ど
うしておれはこんなに落胆しているんだ? たかだか十
分やそこら出会った正体不明の女に対して、どうだとい
うんだ?
「とにかく、調査をしていたらしいところ、申し訳ない
んだけれど。今日はもう山を降りてくれるかしら。この
厄介な男を何とかするから」
時子が海の目を見つめる。
「そういうことか」
海は繰り返す。手遅れだったのか。海はおとなしく時
子とマッドに背を向けた。
腰に下げたハンマーがやたらと重く感じた。沢の水が
切れるように冷たく思えた。なんてことだ。眉をしかめ
る。まったく信じられない。
どうやらおれは恋に落ちたらしい。
こんなに簡単に。
『われわれの幸福は、死後でなければ判断してはならな
い』
愛読書のモンテーニュ著『エセー』の文章が海にささ
やいた。