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◇◆試し読み◆◇
「研究室が決まったっ?」
秋吉が声を裏返す。岩井クンは低い声でたしなめる。
「声がデカいよ。もうすぐ授業はじまるんだから」
「だってお前さ、見にいっただけっしょや。なのにいき
なり? あ、くっそー……マジでかー、塩野研が定員っ
て表示になってるわー」
スマホを操作しつつ秋吉は盛大に顔をしかめた。しば
らく、なんでお前が? 優秀な人材をほしがるもんじゃ
ないのか? 早い者勝ちだった? それならおれがいけ
ばよかったー、とボヤき続ける。
「いったいナニが決め手になったんだよ」
「そうだなー。……菜めしおにぎり?」
「へ? 祥子センセもあのにぎりめしを食ったの? だ
から昨日おれの分がなかったのか」
「ぼくの分もなかっただろ」
「いくつ食ったんだよ。そうかー。菜めしおにぎりかー。
ならしょうがないなー。アレはマジでうまいもんな」
「あのな。それにそもそも秋吉は北キャンの研究室が本
命じゃん。そっちはどうだったのさ」
それだよそれ、と秋吉は小声になる。
「いま北キャンパスやばいんだってよ」
「ナニそれ」
秋吉は素早く周囲に視線を走らせる。そしてさらに小
声で続けた。
「事件が起きてんだってよ。窒素ガス大量消費事件」
「……それのドコが事件?」
「どうも春先から夏にかけて使われたらしいんだけど、
いろんなオープンラボで使われていて人物が特定できて
ないってさ」
「もう十月も終わりじゃん。どうしていまごろになって?
」
「窒素ガスの利用集計は年に三回なんだってよ。で、大
量に使用されていたのがわかったんだ」
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「んー? 年に三回? 窒素ガスってボンベとかに入っ
てんじゃないの? ボンベの交換するときに気づかなか
ったのかな」
「ボンベもあるけど、北キャンの実験施設エリアには窒
素専用の配管があって、コックひねると窒素ガスが出る
んだ。大型装置もわんさかあるからボンベじゃ間に合わ
ないんだってさ」
実験室のそこかしこに窒素ガスのボンベがあって、コ
ックをひねると自由に窒素ガスが出る? そりゃなかな
か……物騒だな。換気が悪かったら窒息しそうだ。まあ、
よっぽど大量にワザと流し続けないとそんなことにはな
らないか。
それにしても、と岩井クンは苦笑する。
さすが研究機関だよな。窒素を相手に四苦八苦か。な
にかよくわからないガスで大騒ぎならまだしも、窒素だ
よ? 空気のほとんどが窒素なんだから。
「被害総額が数千万だ」
「へ」
「それでもまだ大げさなって顔をしていられるか?」
「……なるほど。確かに事件だな。警察とかは動いてん
の?」
「岩井クンよ。ここは大学だぜ? 大学自治とかあるっ
しょや。内々で処理できればそれにこしたことはないん
だよ」
「けどさ。お前だって知ってんじゃん。警察にバレるの
も時間の問題じゃん」
「通報や告発されたわけでもないのに警察が動くかよ。
おれだってお前にしか話してない。それこそ──研究室
配属に響くだろ」
それもそうだ、とうなずいていると授業がはじまった。
岩井クンは真面目に授業を受ける。
今日の講義内容は『二次電池の種類と用途についてう
んぬん』。つまり岩井クンの大好きな蓄電池についてで
あった。夢中で聞いているうちに岩井クンは事件を忘れ
た。
至福のときをすごす岩井クン。講義する教員もここま
で真剣に聞いてくれる学生がいて、さぞしあわせであろ
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う。
昨今の大学で『蓄電池の勉強がしたい』とピンポイン
トに目標をもって勉学に励む学生は少ない。留学生なら
まだしも日本人となるとなおさらである。
そんな岩井クンを早々に囲い込んだ祥子センセ。ラッ
キーだったのではない。野生のカンのように反射神経が
働いただけであろう。こいつにしておけ、とおじいちゃ
んから天啓を受けたのかもしれない。実際、祥子センセ
にしてみれば岩井クンの名前が天啓であった。
それはのちの話として──。
授業を終えた岩井クンは指示どおり祥子センセの研究
室へ向かった。ナップサックの中には菜めしおにぎりが
たっぷり入っている。
コンコンコン、の三回目のコンのノックをしようとし
たところで扉が開いた。
「ようこそ、おにぎり~」
祥子センセが抱きつかんばかりにして岩井クンの腕を
引いた。うおっと、と岩井クンはつんのめる。その隙に
祥子センセは岩井クンからナップサックを奪った。
「ちょ、それ、窃盗。ぼくの貴重品も入っていて──」
「いただきまーす」
返して、と手を伸ばす先で祥子センセはナップサック
からタッパをとり出し、菜めしおにぎりにはむっとかぶ
りついた。
「ん~。この塩加減がクセになる~」
岩井クンは苦笑する。
まあ、おばあちゃんの菜めしおにぎりを喜んでもらえ
たならなによりかな。
……と思ったのは数秒だった。
祥子センセは岩井クンのナップサックを床へどさりと
落とす。そしておにぎりの入ったタッパだけを手に応接
セットのソファへぱふんと座った。
「うわ、ひどっ。ぼくのナップサックっ」
岩井クンはあわててナップサックを抱きしめた。まっ
たく。この五年間、ぼくと人生をともにしてきた大切な
ナップサックになにしてくれんの。底についた埃を岩井
クンは手ではらう。
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ん? 埃?
研究室内を見まわす。
広い研究室であった。
それほどほかの研究室を見たことはない。それでもこ
の研究室には窓枠がいくつも広がっている。実験室なら
まだしも研究室でこれが広いということはわかる。
その一角にどっしりとした本棚と大きなデスクセット、
それに座り心地のよさそうな応接セットがあった。観葉
植物もある。けれど、デスクセットの背後には書類の山、
机の上にも書類が崩れそうに積まれていた。
さらにはモニターがいくつもあってデスク周辺をとり
囲んでいた。
さながら秘密基地だ。
それはいい。問題は床である。
「──祥子センセ、掃除してますか」
ん? と祥子センセは小首をかしげる。うん。かわゆ
い。すごくかわゆい。けど、それとこれは別問題だから。
岩井クンはまくしたてる。
「してないですよね。したほうがいいです。身体に悪い。
ホウキとかありますか? ぼく、やってもいいですか?
ああ埃が舞うからおにぎりはタッパにしまって。空気
の入れかえもしなくちゃ」
「あ、開けちゃダメ」
え、と声に振り返ったときは遅かった。
すでに岩井クンの手は窓を開けていた。
たちまちベルが鳴り響く。
「な、なに?」
「だからダメっていったのに~」
「防犯ベル?」
激痛が走ったのはそのときだ。両手を後ろにねじりあ
げられていた。痛みのあまり声も出ない。
「あー、モモちゃん、違う違う。大丈夫。彼が岩井クン
だから」
祥子センセの声にたちまち身体が自由になる。うっわ
……なんだ? 腕をさすりつつ背後を見ると、おそろし
くがっしりとした身体つきの壮年の男性が立っていた。
きっちりとダークスーツを着ている。
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さながら、と岩井クンが思うより早く祥子センセが紹
介をした。
「彼はあたしのSPのモモちゃん」
「ホントにSP? 防犯ベルにセキュリティポリスって
どんだけっ」
「それだけ祥子センセの研究はいろんなところで狙われ
ているってコトよ。先週だって産業スパイが入りこもう
としたんだから」
野太い声が答えた。モモちゃんであった。
ん? この人ひょっとして。
「ゲイがそんなに珍しい?」
「いきなりカミングアウトっ」
「元気がいいわねえ。イキがイイのは好きよ。祥子セン
セ、このコを連れていっても?」
「うん。よろしく~。雪が降る前にとっておいたほうが
いいしね~」
「なんの話です?」
だから、と祥子センセとモモちゃんの声が重なる。
「大型二種免許。大型特殊車両《ダイトク》だけじゃ心
もとないでしょ」
え、え、ととまどう岩井クンの背中を今日はモモちゃ
んに押される。
えっと、ぼく、どこへいく?