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第6章アース・ソング
1
草履の足音が響いてアンノウン係のドアが開いた。
「大丈夫っ! ダブルくんっ!」
職人が走りこんでくる。白衣のすそを揺らして着物の
袂を手で押さえていた。
「大丈夫じゃないっすよ」
水素が職人に水の入ったコップを手渡した。
「見てくださいよ。係長のあの様子。もうあれは、あれ
は、ありえないでしょう!」
リチウムまで大声を上げた。頭に手を当てて首を振り
始める。職人は水を飲むのも忘れてダブルに見入った。
あんぐりと口を開けている。コップを持った職人の手が
震えていた。
ダブルはキャラメル色の椅子に座ってペンを持ってい
た。納期のすぎた書類へせっせと指を走らせている。い
ままでは見向きもしなかった書類だ。ダブルの作業スペ
ースに山積みになっていて、ダブルの趣味の反物質の試
作装置を製作する際の防御壁の役目すら果たしていた書
類だった。
その書類の山がなかった。
ダブルがつぎからつぎへと処理していったのだ。
「しっかりしてっ! ダブルくんっ!」
あのなあ、とダブルは顔をあげた。
「仕事をしていてどうして心配されなくてはならないん
だ。溜めていた仕事をしている。ただそれだけのことだ
ろうが。喜ぶべき出来事だろう。……というか、オレは
どうしてこんなに仕事を溜めていたんだ? どれだけズ
ボラなんだ」
ダブルは眉間にしわをよせるとヘリウムに声をかけた。
「コーヒーをくれないか。忙しいところを悪い。お前が
いれたコーヒーが一番美味いからな。ブラックで頼む」
「コーヒーっ!」職人が裏返った声をあげた。
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「しかもブラック!」水素が続く。
「しかもヘリウムにいたわりの言葉つきで!」リチウム
がさらに続く。
職人は水素の黄色い椅子に座り込んだ。呆然とした顔
つきでダブルを眺めつつ、コップの水を口へと運ぶ。そ
の間もダブルの手は止まることがない。引き締まった顔
つきで書類を眺めてはなにやら書きこんでいた。いつも
のにやにや笑いも貧乏揺すりもアイデアに煮詰まって重
要書類で紙ひこうきを作成してリチウムに向けて飛ばす
ということは一切ない。
「そうかっ」
職人はぽつりとつぶやく。
「ダブルくん、きっと『いいヒト菌』にかもされたんだ
よっ」
「なんすかそれ」
水素とリチウム、それにヘリウムまでがコーヒーをい
れる手を止めて職人に顔を向けた。
「いまごろかもされるなんてダブルくんらしいねっ。ダ
ブルくん自身は『邪心を取り除く』ガスだと思っていた
けどっ。あれは菌なんだよっ。ダブルくんのことだから
きっと『菌の効果が放出されたんなら、ま、いっか』と
か思って抗体を作っておかなかったんだねっ。不明瞭な
研究対象は徹底的に調査しておかないとどうなるかって
いうことの典型だねっ」
職人はくすくすと笑った。
「あの。いまいちよくわからいのですが」
ヘリウムが抑揚のない声で職人の前にコーヒーを置く。
「職人さんには甘めのカフェオレにしておきましたから」
といい添える。コーヒーカップを見て職人は手を頬に当
てた。カフェオレは泡の部分がイラストになったアート
カフェオレになっていたらしい。
「地球のイラストだねっ。すごく細かいねっ。飲むのが
もったいないくらいっ」
「ありがとうございます。それで、その『いいヒト菌』
とはなんでしょう」
「5週間くらい前に流行していたヤツだよっ。みんなが
『いいヒト』になっていた事件があったでしょっ。アレ
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だよっ。アタシも感染したっ。そうかぁ、ダブルくんだ
けだもんねっ。感染していなかったのはっ」
水素とリチウムも眉を曇らせる。思い出せないらしい。
「覚えていないのっ? アタシとソラさんが知り合いに
なるきっかけになった菌だよっ。このラボで泣き叫んだ
りしちゃったよっ。ヘリウムくんがいろいろ気を使って
くれたよねっ。その節はどうもありがとうっ。あのとき
は自分の感情を制御できなくてまいったよっ」
ああ、と水素が大きくうなずいた。
「実はそのあたりの記憶があいまいでして。なんだか係
長にいいようにあしらわれた記憶はあるんすけど」
「なんだっ。みんな知っていてダブルくんに黙っている
のかと思ったっ。あんなことをされたのに怒らないなん
て人間ができているなあって感心していたんだよっ」
「なら、その『いいヒト菌』をばらまいたのは係長の仕
業なんすか!」
「わざとじゃないだろうけどねっ。びびっていたからっ」
職人は地球のイラストを壊さないように気を使ってカ
フェオレに口をつける。
「うんっ。そうだねっ。ダブルくんのせいだねっ。みん
ながラボの中をぴっかぴかに磨き上げていたのも、水素
くんがタフが持って帰ってきた『水ようかん』の発生地
点データをいっきにかたづけさせられたのも、タフが持
ち帰った検体をヘリウムくんだけじゃなくて水素くんと
リチウムくんが手伝ってすべて測定するはめになったの
も、みんなこの菌のせいだねっ」
「本当っすか!」
「それより、どうして職人、そこまでご存知なんです?」
「盗聴器から聞こえてきたからだよっ」
えー、と水素とリチウムは手を震わせてコーヒーのし
ずくを床にたらした。
「盗聴器ってどういうこと? このひとたちの関係って
なに? 全部愛なのかい? なんて重い愛なんだ……」
「リチウム……。その件は関わり合うな。こっちの命に
関わるぞ。要は職人と地球の悪口さえいわなけりゃいい
んだからよ」
ああそうだねえ、とリチウムは震える指先でコーヒー
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をすすった。
ヘリウムは無言でこぼれたコーヒーを実験用タオルで
拭き取ると、ダブルにブラックコーヒーを差し出す。
「『いいヒト菌』の話は本当ですか?」
「ああ。すまなかった」
「謝った! それもすんなりと認めた上で!」
水素とリチウムが今度はコーヒーカップごと床にひっ
くり返す。
「ボクたちの場合は1週間、感染していたと記憶してい
ます」
「なに? お前、覚えているの!」
「係長の場合も今後1週間はいまの状態が続くと思えば
いいですか」
「オレの場合は5週間前の免疫が若干あるだろうから、
もう少し短いだろうな」
「わかりました。ならば、いまのうちに」
とヘリウムは白衣の懐から書類の束をつかみ取る。
「これらの実験の使用許可書にサインをください。いま
まで『ええ。面倒臭い』とかなんとかいってサインして
くださらなかった3年分です」
「わかった。2時間待て。書類に目を通す」
「ええっ。ヘリウム腹黒いぞ! じゃ、じゃなくて、な
ら俺も俺も」「僕も僕も」
水素とリチウムがダブルに駆け寄った。それをダブル
は片手で押しとどめた。
あそこにいるのは職人じゃん。そうだな。いつからい
たんだ? まったく気づかなかった。オレとしたことが。
エヘヘ。そんなに気にしなくても。するだろう。おちゃ
らけるのもいい加減にしろ。
ダブルは立ち上がると職人の前まで進んだ。ちらりと
職人が飲んでいるカフェオレを見る。地球のイラストが
描かれていた。ヘリウムが描いたのか。芸の細かいやつ
だな。ヘリウムくんはね。いいからお前は黙っていろ。
うう。
職人は器用に地球のイラストを崩さないままでカフェ
オレの下の層を飲んでいた。ほとんど底が見えるくらい
だ。たとえイラストでも地球が崩れるのはたまらないの
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か――。
職人、とダブルは低い声を出す。
「話がある」
「なにかなっ」
職人が無邪気に髪を揺らした。きらりと蝶の髪飾りが
光る。
――思えば。ずっと職人は無邪気にしていた。『水よ
うかん』が検体として届く前も届いた後も。むしろ届い
た後のほうが無邪気さが増しているくらいだ。用意周到
だとはいえ、こめかみが少しくらいひきつってもいいの
にな。不安なんて少しもないのだな。オレも信用された
ものだ。14年のつきあいだからねえ。14年も一緒に
いて、オレが期待通りの行動には出ない可能性を考えな
かったのか? 信用しすぎだよね。バカだな。
ダブルは左右を目だけで見回した。ここでは駄目だ。
水素とヘリウムとリチウムがいるだけではなく、盗聴器
まである。職人のラボまで話が筒抜けだ。
「オレの部屋へ行こう」
「ええっ」
と声を上げたのは水素とリチウムだった。
「昼間っからなにをいい出すの? このヒト。『いいヒ
ト菌』ってそういう菌だったの?」
「数時間戻れないかもしれない。タフに頼まれた『水よ
うかん』の第二報は作業台の上だ。タフが来たら渡して
くれ」
ダブルは職人の手を取るとらせん階段へと向かって歩
き出した。
背後で水素とリチウムが手を取り合っている。
「うわー。ここまで堂々とされると引止めらねえな。っ
つうか、きちんと仕事がしてあるから文句もいえねえー」
「な、なんかすごく男らしいしねえ」
「小柄で愛らしい容姿とまたものすごくミスマッチだぜ
……」
それをヘリウムが呼び止めた。
「係長」
「なんだ」
「流血沙汰は勘弁してください」
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うわー、なにいってんのお前―。ちょ余計なこといわ
ないでおくれよー、と水素とリチウムが手をばたばたと
させながらヘリウムの白衣をつかんでいた。ヘリウムは
真っ直ぐに濁った目をダブルに向けている。地球上で修
羅場を数知れず潜り抜けてきたらしいヘリウムだ。あな
がち的外れでもないかもしれないな、とダブルは苦笑す
る。
「――心がける」
うわー、否定しなかったよー、と水素とリチウムがま
た小声でまくしたてた。ヘリウムだけが表情を変えずに
ダブルを見ていた。
ダブルは背中を向けてらせん階段を下った。
◇
ダブルの自室はアンダーラボの下、つまり地下3階エ
リアにある。
ダブルの自室の内装はコンクリートむき出しのデザイ
ナーズルームだ。愛らしい容姿に似合うようにパステル
カラーで統一するのは芸がない。赤色の柱に緑色のドア、
青いテーブルとシックな中にも鮮やかな色合いが目に付
く。リビングには足の低い布張りソファがあった。黄色
い3人掛け用ソファだ。肘掛も何もないシンプルなソフ
ァだ。
このソファを職人は気に入っているようだった。
部屋に入るなり、草履をぱたぱたと鳴らしてソファへ
直行した。クッションを手に取り顔に押し付ける。ダブ
ルの匂いを確認するようにクッションの匂いをくんくん
と嗅ぐ。そのままくすくすと笑ってソファにごろんと転
がった。
「この部屋へ来るのひさしぶりっ」
ダブルは寝転がっている職人の隣りに腰を下ろした。
膝に肘をついて両手を顔の前に合わせた。
職人が身体を起こす。天井のトップライトが職人の顔
を照らし、頬にまつげの影を落とした。ダブルはゆっく
りと口を開く。
「もう、気はすんだだろう?」
(2 へ続く
)