〜
3
ほの暗いアンダーラボの中には2つの作業台が左右に
配置してあった。
らせん階段を降りてガラスドアをくぐった先に、フロ
アを占領するかたちで2つの作業台が並んでいる。ある
のは作業台だけだ。壁面装置も検体の入ったコンテナも
ゴミもメモもなにもない。床と壁と天井が一面白色にコ
ーティングされているので、なおさら簡素感を引き立て
ていた。
「ほわあ。あの小汚いラボの下がこんなふうになってい
るなんて思いもよらなかったな」
ソラが高い天井を見上げて口を開けていた。タフも呆
けた顔でラボの中を見回している。職人は大きな目を輝
かせて早くもヘリウムの隣りに陣取っていた。
ヘリウムは2つの作業台の間に立って照明の調節をし
ていた。2つの作業台へ均等に光が当たるよう、光の角
度と光の強度を操作している。
水素は右側の作業台、リチウムは左側の作業台にへば
りついている。へばりついて険しい眼差しでパネルを操
作していた。
「便宜上、右側の作業台をフロアA、左側の作業台をフ
ロアBと呼ぼう。それぞれに盆が置いてある。さて問題
です。この盆の中には何が入っているでしょう」
「砂か?」
「惜しい。土なんだよ。フロアAの盆とフロアBの盆に
はまったく同じ土が入っています」
「フロアBからはなにか出ているよ? 芽?」
「正解。花の芽だよ。急速発芽用の種の芽だ。何週間も
みんなで盆を見守っているわけにはいかないもんね。と
いうより、ぼくが来るまで発芽させるのを待ってくれて
いてもいいのに」
ダブルは恨みがましい眼差しをヘリウムに向ける。ヘ
リウムは「係長がまさかカフェまで行かれるとは思って
いませんでしたから」と濁った目で返した。それをいわ
れてはダブルも反論できない。ぼくだってまさかカフェ
まで行く羽目になるとは思ってもみなかったよ。あれで
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
修羅場になっていたら確実に実験は終わっていたな。う
んうん。
「フロアAからはなにも出ていないぞ? そもそもヘリ
ウムはなにをやっているんだ?」
ダブルはふふんと鼻を鳴らす。
「この状況を見てもまださっぱりわからないとはナイス
リアクションだよ、タフ。これはね。仮想惑星生物相の
実験なんだよ」
「は?」
「つまり。2つの作業台の上の盆は、それぞれ惑星の状
態を表しているんだ。惑星に光を当てているヘリウムは
さしずめ太陽の役だ」
「おお」
「太陽は2つの惑星を均一に照らしているから、環境的
にはおなじなんだよ」
「なるほど」
「フロアAにはなんの種も植えていないよ。生物のいな
い場合の惑星だね。フロアBにはデイジーの種が植えて
ある」
「だからデイジーワールドか」
正解、とダブルは拍手する。
「それも2種類のデイジーの種だよ。白デイジーと黒デ
イジーだ。白デイジーは光を反射する性質があるんだ。
黒デイジーは光を吸収する性質がある。つまり太陽の光
の熱を保持する性質だよ。ここまではいいか? ついて
きているか? タフ」
「あ、ああ」
ダブルが話している間もフロアBからはつぎつぎと発
芽をしてやがて黒い花を咲かせた。
ソラがフロアBの盆を指さす。
「白い花がひとつもないね」
「まだ気温が低いからね。ではヘリウムくん、気温の上
昇をよろしくお願いします。おっとみんな盆に影を作ら
ないように気をつけてね。データの取り直しでヘリウム
が泣くぞ」
「白い花がひとつもないね」
「まだ気温が低いからね。ではヘリウムくん、気温の上
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
昇をよろしくお願いします。おっとみんな盆に影を作ら
ないように気をつけてね。データの取り直しでヘリウム
が泣くぞ」
律儀にタフが姿勢を正す。水素はフロアAの、リチウ
ムはフロアBのデータ収集に顔を引きつらせている。そ
の間をソラが顔をきょろきょろと動かして見比べていた。
「フロアA、均等に気温上昇中っす」
「フロアB、気温急上昇しましたよ」
「へえ。フロアBは黒デイジーでいっぱいだね。そうか。
黒デイジーは熱を蓄えるんだっけ。だから気温も急上昇
したんだね。フロアAはなにも植えてないから気温の上
昇率は変わらないんだ」
職人の大きな瞳がさらに輝く。ひと言も発せずフロア
Bに見入っている。フロアAには見向きもしない。職人
にとって生物のいない惑星などなんの価値もないのだろ
う。
「気温をさらに上昇、お願いします」
「あ。白いデイジーが咲いたよ。わ。どんどん広がって
いく。すごいね。黒デイジーとおなじくらい白デイジー
が咲いているよ」
……すばらしい。ソラをつれてきてよかった。ダブル
はしみじみと感じ入る。ここまで解説をしてくれるとは。
なんて便利なんだソラっち。
「はい。どんどん気温を上げてください」
「フロアA、変わらず均等に気温上昇中っす」
「フロアB、気温の上昇がほぼ停止しましたね」
え、とソラはリチウムに顔を向けてからフロアBに視
線を戻した。
「白デイジーが増えてる。そうか。白デイジーは光を反
射させるんだ。だから太陽の光が強くなっても気温は上
昇しないんだね」
「フロアB、気温下降」
「今度は黒デイジーが増えてる」
「フロアB、気温下降停止しましたよ」
「わかった。これって、『気温の恒常性』ってやつだね
!」
さすがソラっち。情報調査部のルーキーと謳われてい
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
るだけのことはある。それに引き換えタフはあんぐりと
口を開けたままだ。開けたままならまだしも目をぱちく
りさせている。目をぱちくりさせているだけならまだし
も、ソラに質問を始めた。プライドがないのか、先輩と
してのプライドは。
「え? 『気温の恒常性』? ほら、白デイジーは光を
反射するでしょ? だから白デイジーが増えると気温が
下がるんだよ。で、下がりすぎると今度は黒デイジーが
増える。そうすると熱が蓄えられるから気温が上がるっ
てわけ。気温が一定に保たれるでしょ? こういうのを
『気温の恒常性』っていうんだよ」
研修のとき習ったでしょ、とソラは明るくダメ押しを
する。さすがのタフもソラ相手に「役に立たん情報は忘
れた」とは口にしなかった。おとなしく身を縮めている。
なんだよ、ぼくのときには逆切れするくせに。
「……はい。さらに気温を上昇させてくださいな」
「あ。黒デイジーと白デイジーがどんどん枯れていく。
うわ。はやい。……全滅だよ」
「フロアA、変わらず気温上昇中っす。きれいな直線を
描いて時間とともに上昇してます」
「フロアBも気温上昇を続けていますね。どんどん上昇
していきますよ。フロアAとの気温に重なりました」
「はい。終了」
ダブルはぱんぱんと手を叩いた。
職人は悲しげな眼差しで死滅したデイジーを眺めてい
た。できることなら助けてあげたかったよっ、とでもい
いたげだ。
これが人間だったなら無反応だろうに。職人はどんな
ときでも人間以外の生物の味方だからな。そうか。だか
ら職人はラボで人間以外の生物を使った実験をしないん
だな。量産装置に情熱を注いでいるのもその為だったの
かもしれないね。徹底しているな。怖いくらいだよね。
ぼくなんかGPSを体内に装着されちゃってんだよ?
まあぼくも職人の体内にGPSを仕込んだ口だけどさ。
不毛な関係だな。あらためて思うと虚しいねえ。
「動いてもいいか?」
「どうぞ。とまあ、これが『デイジーワールド』の実験
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
だ」
「なかなか面白かった。だが、これと『水ようかん』と
どう関係があるんだ?」
「『デイジーワールド』はね。ガイア理論は合目的論で
は『ない』ことを提示する論証なんだよ。ガイア理論が
出た当時はそりゃあばんばん叩かれたからね。その反論
だ」
「ん~ん? 理解できる言語で話してくれ」
あれ? タフってヘリウムくんがガイア理論の紙芝居
をやっていたとき、いなかったんだっけ? 面倒臭い男
だな。なんで二度手間になるかな。仕方がないだろう。
コイツが理解しないと報告書にサインをしてもらえない
ぞ。ちっ、とダブルは舌打ちをする。
するとダブルの後ろからタフの前へ人影が踊り出た。
「それではこれをご覧ください」
ヘリウムだ。手には例の紙芝居を持っている。
「ちょっとヘリウムくん、太陽の役は?」
と振り向くと、職人が頬を染めて太陽の代役を引き受
けていた。代役といってもまだ次の実験へ移っていない
ので、操作を初期状態に戻し、データ回収を継続させて
いるだけだ。
だよね、とダブルは小さく息をついた。職人は今回の
実験を『見学』がしたかったはずだ。けして参加したか
ったわけではない、はずだ。参加できないくらいだ。成
り行きをすべてダブルに任せ、傍観者を決め込んでいる
はずなら、参加するわけがないのだ。そうしてくれない
と、ぼくだって推理が異なってきちゃうよ。なんのため
にこんな七面倒臭いことをやっているんだよ。
ダブルが職人を見ているあいだにヘリウムはすらすら
と紙芝居を進めていた。ヘリウムの紙芝居にタフだけで
なくソラも釘付けになっている。
「するとなにか? 『ガイア理論』っていうのは人間は
人間、地球は地球と別物じゃなくて、地球をひとつにひ
っくるめて、まるで地球に意思があるかのように『地球
そのものが巨大な生命体だ』っていうのか? そいつは
すごい説だな」
「ガイア理論は理論ですから、そこまで明言してはいま
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
せん。もちろん『こんなの科学じゃない』と大反発が発
表当時に起こりました。『デイジーワールド』は、『ガ
イア理論』はちゃんと科学的根拠に基づく理論だ、とい
うことを証明した実験といえます」
「……どこが?」
「んもー、タフってば。ちゃんと見ていたでしょ。デイ
ジーの種が植わっていたエリアBは太陽の気温がどれだ
け上がっても植物自体が温度調節を行って惑星の温度を
管理していたんだよ。植物は植物、惑星は惑星って個別
に生育していたわけじゃないよ。相互関係が働いていた
んだよ」
ソラは青い瞳を輝かせていた。すごいねえ、と鼻息ま
で荒くなっている。
厳密にいえば、あの実験だけでそこまでいい切るのは
非常に危険だ。『デイジーワールド』の反論もばんばん
出ていた。ここでそれをいえば返ってこいつらは混乱す
るだろうな。ぼくは別に厳密な『デイジーワールド』実
験を行いたいわけじゃないし。『水ようかん』っていう
突拍子もない現象が、地球と関係があることを科学的に
証明したいだけだからね。
だけどな、とタフが眉を曇らせた。
「『地球そのものが巨大な生命体だ』っていうことは納
得できるが、それがどうして『水ようかん』と関係する
んだ」
「はいはい。せっかちにならない。まずは『ガイア理論
』とはなにかを見てもらったんだからね。タフでも理解
できただろう?」
ダブルはふふんと鼻で笑う。
「では次なる実験を行うよ。ご要望の『水ようかん』の
登場だ」
(4 へ続く
)