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第5章デイジー・ワールド
1
軽快な足音が聞こえた。プロのランナーのような足音
だ。そのままアンノウン係のラボのドアを蹴り破りそう
な足音でもあった。アンノウン係のラボの中がたまたま
話し声ひとつしなかったので、ダブルは足音に耳を澄ま
した。
それにしても足音ってすごいよね。足音ひとつでだれ
なのかを認識できちゃうんだから。職人は草履の音だし
タフはあわただしい足音だからすぐにわかるな。そして
この足音は、とダブルはにんまりと笑う。
さすがに自制心が働いたのだろう。足音の主はドアの
前で一拍間を置いて立ち止まる。そして勢いよくドアを
開けた。自動ドアを勢いよく開けるのはなかなかできる
ことではない。情報調査部員であるがゆえの所業だろう。
案の定、ドアを開けたのはソラだった。
ソラはラボに入るなり、ダブルを怒鳴った。
「なにあれ! どういうこと! あんなものがあったら
ヤバイじゃん! なんで『食べてもOK』的な第一報を
出したのさ! 私たちが回収しきれていないことへの嫌
がらせ?」
「久しぶりだね。ソラっち。月面本社へ帰るなり、技術
開発部へやってきてくれる情報調査部員なんてお前くら
いだぞ。ありがたいねえ」
「とぼけるな」
ソラは作業台を飛び越えてダブルの目の前に着地した。
長い杖で床を鳴らして威嚇する。
「『水ようかん』の件をいっているんだね? あの第一
報はぼくが出したんじゃないよ。タフには『くれぐれも
食ってもいいとも悪いともとれない文面にしろ』と忠告
をしたのだが。やっぱりタフだからね。ダメだったか」
「笑い事じゃない」
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ソラは青い瞳をずいと近づける。
「手当たり次第に食べちゃうひとが続出なんだからね。
私が回収している横にすばやくやってきて口に入れる先
住民だっているくらいなんだから」
「それが不安だと? ふうん。どうして不安なのさ。あ
れは構成元素的には和菓子の『水ようかん』だよ。まあ
食っても『水ようかん』自体は命に支障はないぞ。不安
がるってことは、ソラっち。お前、食ったな?」
「う。だ、ダブルっちこそ、そんな発言ができるってこ
とはダブルっちも食べたね」
なかなか鋭い。だれもいままでそのことを明言しなか
った。さすが情報調査部のルーキーだ。食べたよ食べた
よ。食べたとも。ダブルはエヘヘとソラに笑う。
「で? ソラっちはどうだった? 食べてどうかなった?
」
ソラは作業台の上に腰掛ける。水素がダブルに渡した
書類の上だ。水素くんが泣きそうだな、とダブルはちら
りと思う。
「和菓子っていうのはあんまり食べたことがないからわ
かんないんだけどね。甘いゼリーみたいだったよ。うん。
そうだね。美味しかった。『すごく』美味しかった」
ほほう。なにやら特別な種類の『すごく』のようだ。
でも変だよ、とソラは顔をしかめる。
「なんか、すっごく不思議な気持ちになった。目の前に
ある『水ようかん』が現実感がなくて。目の前にあるの
に実際はないっていうか、ちゃんと触れるのにホノグラ
ムみたいなかんじで。そんな感じになったのは、ただ回
収しているときにはなかったよ。直感的に、こんな物質、
『ありえない』って気持ちになったもんね」
気持ちが悪かったよ、とソラは繰り返す。ああ違う、
気持ちがよかった、のかもしれないな、ともソラはいい
直す。
「そんで、なんだか泣けてきちゃった」
思い出したのか、気丈なソラが涙ぐむ。ダブルは無言
で実験用タオルを差し出した。ソラも無言で実験用タオ
ルを受取ると涙をふいた。
「トンボとかテントウムシを追いかけていた子どものこ
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ろを思い出しちゃった。指によじ登ろうとしているアリ
を見てさ。当たり前なんだけど、『あ。私、地球で生き
ているんだ』とか思ったりして」
疲れているのかなあ、とソラはしんみり頬に手を当て
る。
「あとでカフェに行こうっと。なんだっけ。ダブルっち
がよく飲んでいるヤツ。マシュマロ入りココア? 甘そ
うで疲れが取れそうだね」
とっさにダブルは携帯電話を見た。パネルを動かして、
カフェの店内図を起動させた。う、とダブルは固まる。
まずい。職人につけたGPSがカフェ内で点滅している。
なんだかよくわかんないけど、ソラと職人を合わせるの
はまずい気がするよ。そうだな。しかもソラがマシュマ
ロ入りココアを飲むとなれば、ひと悶着はまぬがれない
ぞ。
慌ててダブルは「そ、それで」と話題をそらした。
「地上で『水ようかん』を食べたほかの人はどんな反応
をしていたのかな。依頼したのにそういう情報がなかな
か入ってこないから困っていたんだ」
「そうなの? すごく重要なことじゃん。私ちゃんと報
告しているよ? どこで止まっているんだろう」
タフのところだろうな、とダブルは遠い目をした。あ
とできちんとデータを要求せねば。それはそれとして、
実際に体験したものの口から直接聞くのは興味深い。
「……個人差もあるけど。ハイになっちゃうひとが多い
かな。急に走り出したり、無口だったひとがべらべらと
しゃべり出したり。泣き出しちゃうひともいたかな。中
には麻薬扱いしているやつらもいたよ。密売行為が始ま
るのは時間の問題だね」
まあそんなところだろう。
おそらく、ダブルが『水ようかん』を食べてもなにも
感じなかったのは、ダブルの感受性の問題だけではある
まい。ダブルには地球の意思を尊重する気も、人間側に
立つ気もさらさらない。ダブルが大切なのは反物質と職
人だ。だからこそ、ダブルにはあれはただの水ようかん
でしかなかったのだろう。ソラのように感じ入ることは
ない。
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感じ入ることはないが、パラダイムシフトをうながす
ものであろうというのは予想できる。なにしろ地球上に
『ありえない』ものが2万個、いや、いまや4万個以上
も自然発生しているのだ。ほかにどんな理由があるって
いうんだろうねえ。
エヘヘと笑ってダブルはソラに手を差し出した。
「なに?」
「例のデータをちょうだい」
ああ、そうだったね、とソラはすっかり忘れていたと
いうふうにジーンズのポケットからチップ状態のデータ
を取り出す。
「こんなのをなにに使うのか考えてみたんだけどさ」
「そいつは忙しいソラっちの手をわずらわせちゃったね。
むしろ考えるな」
「……それってうちの会社的にヤバイことなの? 私、
手を貸そうか? ダブルっちひとりにやらせたら、RW
Mごとつぶされそうだからね」
「大丈夫だよ。まったく問題ないよ。RWMのこととは
関係ないもん。ぼく個人の問題にちかいくらいだもん。
エヘヘ。たとえヤバイことだとしてもオレひとりで十分
だ。これでもお前より10年以上先輩なんだぞ」
「じゃあ忘れるよ? 私だってほかに考えることもある
しね。考慮すべき項目から削除するけど、本当にいい?」
「問題ない。ソラっちは恋人のことでも考えていればい
いんだよ」
ソラが、それだよ、とばかりにがばっとダブルの両腕
をつかんだ。
「結婚について考えたことある?」
「はい?」
「遠距離っていうか、仕事が忙しくてなかなか会えない
とマズイよね。それこそ『大丈夫、心配ないよ』ってい
われても、こっちは心配だよ。数ヵ月も会えないでいて
恋人といえるのかな、とか。仕事しろっていったのは向
こうだから遠慮しているんじゃないかな、とか思っちゃ
って。結婚しておけば安心かな。男子的にはどうなの?
そういうのって重いかな。それともすでに私、『たま
に会える都合のいい女子』になっているのかな。怒らな
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いから率直なところを教えてよ」
「どうしてぼくに聞くのさ」
「事情を知っている人間だし、ものの弾みで聞こうって
思っただけだよ。でも深刻なの」
ずっと悩んでいるんだから、とソラは語気を荒くする。
ううん、困ったねえ。ヘリウムくんなら即答できただ
ろうけど。あいにくヘリウムはいま手が離せないしな。
エヘ、エヘ、エヘヘ、とダブルは笑ってごまかした。
「そういえば、あれ? 今日はラボにダブルっちひとり
なの? 珍しいね」
いまさらながらにソラはラボの静寂に気づいたようだ。
青い瞳をくりくりと動かしてラボの中を見渡した。
「みんなは下だよ」
「下?」
「アンダーラボで実験をしようと思ってね」
ダブルはらせん階段を顎でしゃくった。
「もちろん『水ようかん』に関する実験だ。ソラっちも
見ていく? 見たいよね。じゃあ一緒に――」
「いい」
ソラはきっぱりとダブルの言葉を切り捨てる。
「喉が渇いたからカフェにいくよ。いちど思ったらどう
してもマシュマロ入りココアを飲みたくなっちゃった。
データを渡したし文句もいったし。よし。用件完了。じ
ゃあね」
ソラは杖をぶんぶんと振ってラボから出て行こうとす
る。待って、とダブルはソラの後を追った。
「カフェならカフェオレもオススメだよ。生クリームの
味わいがまろやかでやみつきになること請合いだ」
ダブルは携帯電話を見る。GPSで職人の居場所の確
認をした。なみだ目になる。職人はまだカフェにいた。
なんとしてでも、職人のいるカフェでソラにマシュマロ
入りココアを飲ませるという失態だけは阻止しなくては。
「キャラメルマキアートなんかね。泡の上に好きなイラ
ストを描いてくれるんだよ。この前なんかガスクロマト
グラフィ装置の精密画を描いてくれたよ。しかも手書き
だ。見たいでしょ?」
「マシュマロ入りココアってダブルっち専用のオーダー
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ってわけじゃないんだよね。だれでも頼めるんだよね」
「はちみつフレンチトーストなんてすごいんだよ。15
センチはある焼きたて食パンを使っていてね。ふわふわ
のパン生地を贅沢にも砂糖入り卵に浸してこんがりとバ
ターで焼いた上にとろとろのはちみつがたっぷりかかっ
ているんだよ。いちど食べる価値はあるね」
「マシュマロ入りココアのマシュマロって何個入ってい
るのかな」
「定番のチョコレートパフェはどうだ。なんと底辺には
コーンフレークのかわりに砕いたポテトチップスが入っ
ているんだよ。この塩っ気が生クリームとソフトクリー
ムとアイスクリームの甘さで疲れた口を癒すんだよ」
「マシュマロってオプションなのかな。ココアだけを注
文するとマシュマロ入っていないのかな。マシュマロ入
りでって念を押したほうがいいかな」
なだめてもすかしてもソラのこころは揺らがない。む
しろダブルが話をそらそうとすればするほどソラの気持
ちはマシュマロ入りココアに傾いていくようだ。いつし
かダブルは技術開発部の通路に設定された五重セキュリ
ティのところにまで来ていた。それでもソラの足取りは
緩まない。くそお、とダブルは歯軋りしつつ五重セキュ
リティをつぎつぎとクリアする。
そうこうしているうちに社員カフェについてしまった。
職人がいるくらいだ。カフェの透明な天蓋からは地球が
見えた。白い雲まではっきりと見える三日月の形をした
地球だ。このところ、『水ようかん』騒ぎが続いて以来
ずっと地球のことを考えていたダブルは、なんとなく地
球が憎らしく見える。
地球が『水ようかん』なんて発生させなければこんな
面倒なことにならずに済んだのに。地球がこんなに律儀
で人間の常識的にはありえないほど大胆でしつこいとは
思わなかったよ。どうあがいてもきっかけは人間だった
んだがな。うう。それをいうと地球は悪くないんだけど
さ。わかってるよ。地球はなにも悪くない。だけどぼく
には迷惑だ。
ダブルが地球に恨めしげな眼差しを向けているあいだ
にソラはさっさと席に座った。それもオープンキッチン
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に面したカウンター席だ。なんだってそんな席に。ダブ
ルは両手を頬に当てた。はす向かいの席はよくオレが座
る席だ。と、いうことは。ダブルはこめかみを手で押さ
えた。
予想どおりだ。GPSどおりだ。
職人がいた。
はす向かいのカウンター席で、みたらし団子を頬張っ
ている。
頼むからこっちに気を向けないでくれ。ダブルは職人
にむかって両手をこすり合わせた。ついでになむなむと
拝んでもみる。そんなダブルの気持ちなど知っていても
かえりみることはないのだろう。ソラは元気よく注文を
する。
「ココアをください。マシュマロ入りで」
「マシュマロ入りココア?」
職人がダブルの背後に立っていた。瞬間移動したとし
か思えない素早さだ。ダブルは「うわあ」と声をあげる。
職人はふわふわの髪を揺らしながら、ゆっくりとソラに
近寄った。
(2 へ続く
)