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いろいろな事態が起きると頭の中がこんがらがる。
重要なことから順番に意識をするわけではない。目に
付いた事柄から処理していく――者もいる。
たとえば――。
玄関を出たら家の前が遊園地だったらどうするか。
そういう者は、目を丸くしているあいだに着ぐるみの
シロクマに手を引かれて、一緒にメリーゴーランドに乗
って、ジェットコースターに乗って、アスレチックをや
って、振り子の飛行船に乗って、空中ブランコに乗って、
ループチューブをゴムボートで下って、ゴーカートに乗
って、「きゃっほぉい」とバンジージャンプをやって、
観覧車まで乗ったところで「そういえば、どうして玄関
の前に遊園地があるんだ?」と疑問を抱く。「すげえ大
変なことじゃん? なんだなんだ? どうなっているん
だ?」と慌てふためく。
いまのタフがまさしくその状況だった。
「いま『水ようかん』をひとり当たり700個近くのペ
ースで回収しているけどな。ぜんぜん、追いつかないん
だ。『水ようかん』はどんどん発生している。このまま
じゃ、世界中が『水ようかん』で埋まっちまうんじゃな
いか?」
「落ち着け」
ダブルはタフの額をぺしりと叩いた。タフは頬を真っ
赤にして肩を怒らせ眼前に顔を突き出していた。
「たとえ『水ようかん』がいまの5倍、すなわち10万
個体発生したとしても、しょせんは1個体あたり手のひ
らサイズだよ? 埋まるわけがないじゃん。人間なんか
70億人いるけど人間がいない地域はまだまだたくさん
あるじゃんか」
おお、とタフは呆れるほど素直に姿勢を戻した。人間
に置き換えてみて、ようやく理解できたらしい。
「なら、世界はどうなっちまうんだ?」
「えぇ」
「オレが持ち帰った検体が『水ようかん』だってことは
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わかったけどな。それがこんなにうじゃうじゃと湧き出
ているんだ。尋常じゃねえだろう。どうなっちまうんだ
よ」
至極まっとうな疑問だ。むしろ一番最初に抱くべき疑
問といえよう。玄関を出て遊園地だったら、シロクマに
手を引かれる前に、「なんでここに遊園地があるんだ!」
と叫ばなくてはいけない。
ダブルはボールペンの尻で耳をほじった。タフにはな
にからいえばいいか。面倒くさいな。なんでこんなこと
でぼくは悩まなくちゃいけないんだ。バカバカしい。タ
フのことだ。理解しなくても、「わかった気」になるま
でラボから去らないだろう。「さっさと第一報を書けば」
と突き放すのも逆効果だ。
ダブルはちらりと作業台へ目を向けた。水素もリチウ
ムも関わりに合うまい、と視線を作業台へ釘付けにして
いた。ヘリウムは背中を向けてダブルから依頼された抽
出作業を黙々と進めている。
もとよりヘリウムくんを巻き込む気はないけどね。ヘ
リウムくんには作業を進めてもらわないと実験ができな
いからね。
「おい。笑っていないでなんとか言え」
「んもう。パラダイムシフトでもやりたいんじゃないの」
「は?」
「だから。地球がパラダイムシフトしたがっているって
いったの」
「……パラダイムシフトってなんだ?」
「えぇ」
気が遠くなる。
「意識改革のことです」
ヘリウムがタフの隣りに立っていた。いつの間に!
ダブルは目を見張った。さっき見たときには壁面装置の
前にいたのに。
「あ、あのねヘリウムくん。きみはいいから作業の続き
を――」
「だれの意識だ」
「それはもちろん対象は人間でしょう。地球上に発生し
ていて、そしてあえて人間が作り出した『水ようかん』
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の形をとっているんですから。そもそもパラダイムシフ
トという言葉の場合は、いち個人の意識をさすわけでは
ありません」
「わかったよ。ぼくが説明するからヘリウムくんは抽出
の続きを頼むよ。まだ1000個体分は終わっていない
んだろうが」
「あと817個体残っています。ですがタフさんにいつ
までもラボにいられるとボクのほかの仕事が増えますか
ら。作業台を直したり、散らかった検体をかたづけたり」
「オレが邪魔だっていうのか」
「邪魔だよ」「邪魔です」
ダブルとヘリウムが声を揃える。しまった、とダブル
が思ったときには遅かった。タフは再び顔を真っ赤にさ
せて作業台に両手をつく。
「地球上で大異変が起きているんだぞ! しかもそれが
人間に対する意識改革だと? わけがわからん。そんな
ことをいわれてラボに戻れるか!」
もう好きにしたら、とダブルは頬杖をついたが、ヘリ
ウムは違った。
「タフさんはどうして『水ようかん』が発生していると
思いますか?」
「わからんから、こうしてお前らに依頼したんだろうが」
「ここはアンノウン係です。未確認物質を調査する係で
す。それ以上に関与する権限はありません」
「それでもお前らがいちばん『水ようかん』の実体に近
い位置にいるわけだろうが。なにか思うところはあるだ
ろう」
「だから、こうしてタフさんにたずねているんです。タ
フさんはどうして『水ようかん』が発生していると思い
ますか?」
「知らんわ! 知らんからこそここに持ってきたんだろ
うが! しつこいぞ」
「知らないながらも思うところはあるでしょう。それを
お聞かせください」
「思うところって。と、とにかく不気味な事態で。どう
してなんて考えたことなんか」
「『ない』んですか? 本気ですか? リペア部はそこ
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までお気楽なんですか」
う、とダブルは顔をこわばらせた。もしかしてヘリウ
ムくんはものすごく怒っているんじゃないのかな。抽出
作業の邪魔をされて怒り心頭に達してぼくとタフとの不
毛な会話に割って入ったんじゃ。……間違いないだろう。
あのヘリウムがここまでしつこくタフに食い下がるには
それなりの理由があるはずだ。
まずい。ダブルはこぶしを口に当てた。本気になった
ヘリウムがタフにどんな薬物を投与するか。筋肉弛緩剤
か、筋肉融解剤か。いままでタフは痛覚を5倍にするア
ンプルとか強力精神安定剤とか精力増強剤を注射されて
も気合で持ち直していた。そんなタフでもさすがに瞬殺
にちかい状況となるだろう。この忙しいのにタフに倒れ
られたら、タフに押し付けた第一報をぼくが書かなくち
ゃいけなくなるじゃん。モジャ毛にやらせるにしても、
いきさつを説明するという手間がかかるぞ。まずい、ま
ずいよ。
「係長は思いつきで『パラダイムシフト』などという言
葉を使ったわけではありません。パラダイムシフトとい
う言葉はボクにも同意できる点があります。1万876
5個体を測定したからこそ伝わってくるものがありまし
たから」
ほほう、とダブルは眉をあげた。さすがヘリウムくん。
ヘリウムくんには地球の意図がわかっているようだね。
ひょっとすると、いや、しなくても、ヘリウムくんも『
水ようかん』を食べたのかもしれないねえ。だからこそ
倒れたのかもしれないな。そうか。それは思いつくのが
遅かったな。十分ありうることだったね。だからってケ
アできることはないけどね。ヘリウム自身の問題になる
だろうからな。そうだね。
まあ、こんなことをするくらいだから、多分、地球は
人間を嫌ってはいないようだけどさ。さすがに懐が深い
な。生きてきた年数が違うからねえ。46億年か。オレ
ならこんな目に合っていたらとっくに反物質を使って人
類を滅亡させているところだがな。確実だよね。エヘヘ。
「お前らがパラダイムシフトにこだわるのは勝手だがな。
オレには『水ようかん』と意識改革がまったくつながら
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ん。関連性がないだろうが」
「偏見だといいたいんですか?」
「そもそも、なんで人間がパラダイムシフトしなくちゃ
ならないんだよ。第一、そりゃ『水ようかん』が地球の
意思だとした上での話だろうが。そんなあやふやな観点
で最終的な報告書を仕上げないでくれよ。黒色直方体が
『水ようかん』だっていうだけでも十分にくだらないん
だからな」
ヘリウムが顔色を変える。当然だ。ヘリウムの測定結
果を侮蔑したようなものだ。意識が昏倒するほど情熱を
そそいで2週間かけて2万個体を測定したデータを『く
だらない』と評価されたのだ。タフのやつ。この前は黒
色直方体が『水ようかん』であることを納得してラボか
ら出て行ったくせに。あんなにとうとうと2万個体の測
定データの価値を語ってやったのに。
ヘリウムが白衣のポケットに手を入れた。
やばい。本気でヘリウムはタフを殺害する!
ダブルは素早くコンテナから検体をつかむと、タフの
顔に突きつけた。タフをかばったわけではない。ラボで
流血事件など後始末が面倒だっただけだ。
「タフも食べてみれば? ぐだぐだぬかすより話が早い
よ」
「アホか! 食えるか! 『食うな』っていう第一報を
書こうとしているんだぞ? オレが食ってどうする!」
「『食うな』じゃないよ。『命に支障はない』だよ。ク
レーム沙汰になるからな。余計なことは書くな。そして
さっさと書きにいけ」
「指図されずともそうするわい!」
タフは鼻息を荒くすると、自分の疑問はなにひとつ解
消されていないことにも気づかず、今度こそ本当にラボ
から出て行った。やれやれ、つくづく人騒がせな男だな。
ダブルはキャラメル色の椅子に座り込む。
ヘリウムは無言でダブルに背中を向けると肩を怒らせ
たまま簡易キッチンに立った。まな板の上でばんばん音
を立てて野菜を切り始める。気持ちはよくわかる。作業
を妨害された上に仕事を侮蔑されたのだ。よく我慢した
と褒めてやるべきだろう。我慢、したのかな? 殺害は
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しなかっただけで……。
ダブルはそっとラボの外に出た。ドアの影から通路を
うかがう。足音にぎやかに歩くタフの背中が見えた。そ
のタフが不意に足を滑らして転倒する。通りかかりのシ
ェフが「うお」と飛びのいた。タフは腹部を押さえての
た打ち回る。ダブルはにやりと笑った。「こんなところ
で腹痛を起こすな。俺の料理が疑われるだろうが」とシ
ェフの罵り声が聞こえる。間違いなくヘリウムの仕業だ。
忍び笑いでラボへ戻ると、香ばしい匂いがふわりとダ
ブルを包んだ。
レンゲを片手に水素がダブルに手招きをする。
「係長―。ちょうどよかった。ヘリウムが飯作ってくれ
たっすよ。食いましょう」
「ヘリウムのご飯かぁ。うふふ。久々だねえ。泣いても
いいかなぁ」
どれ、とダブルもリチウムの隣りに座った。
作業台にはチャーハンと卵スープが乗っていた。チャ
ーハンにも卵がたっぷりと入っている。ほうれん草だろ
うか。緑色が鮮やかだ。ひと口含むとチャーシューが香
ばしくゴマ油の香りが口いっぱいに広がった。卵スープ
もまろやかで身体中に染み渡っていくようだ。
ダブルはレンゲを皿に置く。
そしてヘリウムを見てにっこりと笑った。
「ヘリウムくん。お帰り。退院、おめでとう」
ヘリウムがアンノウン係に戻っておよそ3時間。
ようやくダブルはヘリウムにいたわりの言葉を口にし
た。
(第5章の1 へ続く
)