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第3章ブラック・フォレスト
1
アンノウン係のラボの中は多種多様の音であふれてい
た。
いつもはヘリウムが陣取っている壁面いっぱいに並ん
だ複合装置の、8種類のコール音に6種類の警告音に装
置のモータ音、備え付けのプリンターが動く音にアナウ
ンスの機械音声、プリンター脇にあるパネルのスピーカ
ーからは不吉にうなる音がしていた。
転送装置からは相変わらず引っ切り無しに、新しい検
体が『新着検体です』というアナウンスの機械音声とと
もに転送されては脇のコンテナへと輸送されていた。こ
の輸送する音も大きくはないものの、振動とともにラボ
へ低く響いている。
加えてラボに9台ある電話が鳴りっぱなしだ。留守電
状態にしておいても、録音中の先方の怒鳴り声が絶え間
なくラボに響く。
『総務係のタフだ。なんだこのナンバー8763333
1の書類の〈対策〉は! クライアントあおってどうす
る! テロを起こしたいのか! 書き直しだ! 転送す
るとお前らなくすから、直にすぐに取りに来い! 10
分以内な!』
『リペア部だよ。半年前に渡した検体の結果はまだ出な
いのかい? 気の長い俺でも限界だよ。とりあえず、こ
の岩の割れ目からうじゃうじゃわいてくる紫色のゲル状
物質は密封しておくけど、それでいいよね。ダメなら解
除する装置を転送してくれ。4万5000ヵ所もあるん
だから大変だよ? ふうやれやれ、まいったねぇ』
『ごめーん。試作装置開発係だけどさー。2ヵ月前に渡
したペンギン型装置のマイクロモーター。あの調査、し
なくていいんだってー。っていうか、別のに使うから返
してー』
『情報調査部です。クマのぬいぐるみ型装置がだんだん
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過激になっていますよ。本当に量産システムをパスして
いるのですか? あやしげなものを転送しましたので検
査のほど、よろしくお願いしますね』
電話だけではない。電話が込み合ってつながらない連
中が緊急モニターを使ってクレームを寄こす。アンノウ
ン係がスピーカーをはずしていることを知ってか、手書
きの文字をボードに書いて、激しい身振り手振りで事態
を訴えている。
どれもこれも一刻を争う風情のクレームだ。
「どれから手をつけていいんだ……。そ、そうだ。優先
順位をつけなくちゃ。はわわわわ」
と慌てる水素にダブルはペンを持った指先を振った。
「いつか読んだコンサルタントの本にね。『優先順位を
考える前に、まずはやったら』っていうのがあったよ」
「じゃあアンタがやってくださいよ!」
「ぼくは水素くんから頼まれた書類にサインしなくちゃ
いけないからねえ。これをやらなくていいなら手伝うぞ」
「……すんません。サインをやってください」
「それにしてもヘリウムくん、ひとりいないだけでこん
な有様になっちゃうなんてねぇ」
ダブルはじみじみとラボ内を見渡す。
いっとき見間違えるくらいに整理整頓されたラボの中
は、いつもの小汚いアンノウン係以上に散らかり放題に
なっていた。床にはコンテナからあふれた検体が転がり
落ち、空中では書類が舞い、壁面装置の前ではリチウム
が座り込んでいた。ヘリウム作の装置マニュアルを10
冊以上も開き、右のマニュアルを見ては首をふり、左の
マニュアルを見ては装置のボタンを押して、けたたまし
い音を出して肩をびくつかせていた。
「ああもうっ。僕は2万個体の測定データを解析しなく
ちゃいけないんだよ? どうして僕がヘリウムの代わり
に測定をしなくちゃいけないんだい」
「タフの検体を先に測定したから順番が狂ったんだろう
が。わかりきったことを愚痴るな」
「なら水素が測定をやってよ。どうせ僕の解析が終わら
ないと書類は作れないだろう?」
「俺にだって差し迫った書類があるんだよ! さっきの
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タフの電話が聞こえただろうが。っていうか、偉そうに
いうわりにお前ちっとも測定してねえじゃないかよ」
そりゃそうさ、とリチウムは胸を張る。
「この装置、全部ヘリウム仕様にカスタマイズされてい
るんだよ? うふふ。もうマニュアルの段階で、なにが
書いてあるのか解読不能だよ」
「そりゃお前がバカだからだろう?」
「失礼だね。なら水素がマニュアルを解読してごらんよ」
どれ、と水素はマニュアルを覗いた。
「なんじゃこりゃ。何語で書いてあるかすらわからねえ」
「しかも、別に今日が特別忙しいわけじゃないんだよ?
いつもと同じ仕事量さ。にもかかわらずこの状況さ」
「全部ヘリウムがひとりでこなしていたんだよな。電話
もクレームも測定も。そのうえ俺たち、あいつにバナナ
ジュースとか作らせていたんだぜ? ――そりゃ、あい
つ、無口にもなるわな」
水素くん水素くん、とダブルが手をひらひらとさせた。
「緊急電話が鳴ってるよ。早く出てよ」
「そういうアンタが出てくださいよ! 緊急モニターに
強制接続するじゃねえっすか!」
水素が叫んだのと作業台上部にモニターが点灯したの
が同時だった。
くわえヒゲの男が画面いっぱいに映った。医療メンテ
ナンス係の医務室室長だ。
『ヘリウムくんの件です』と室長はカルテを見る。
どうした? ヘリウムの容態が悪化したのか? ダブ
ルはペンの手を止める。
『基本、過労なのは変わりがありません。ボロボロです
ね。よくもまあ、いままで仕事をこなしていたものだと
感心しますよ。この際なので精密検査も行いました。ほ
ら、ボクたちはほかの部の社員より、つい不摂生をして
しまいますからね』
で、と室長は一拍おく。
『薬物の過剰摂取反応が出ました。いやあ。高い数値で
す。技術開発部員は大なり小なり、なにやら怪しいコト
を自身に行っているのは黙認してきましたが、これは黙
認の許容を超えます。筋肉が可愛そうですよ』
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それから、こんこんと説教が始まった。
――確かに体調管理は個人の問題だ。それでも係長た
るものスタッフの体調に気を配らなくてどうする。これ
は明らかに監督不行き届きであって、係長であるのダブ
ルの責任だ。今後はいっそうスタッフの体調管理につい
て気を配ってもらいたい――うんぬん。
しごくまっとうで常識的な指摘だった。室長は同じ技
術開発部員とは思えぬ常識の持ち主らしい。技術開発部
員の一員であることを垣間見るのは、やたら筋肉にこだ
わる点だけだ。噂どおりの筋肉オタクぶりだ。それ以外
の点ではまるで地域医療に心を砕く医者のようだな、と
ダブルは感心をした。常識的すぎてダブルは途中で鼻ち
ょうちんを出しながら居眠りをしてしまったくらいだ。
そもそも、と居眠りをしながらダブルは思う。ヘリウ
ムは雑務をこなした上でタフの検体2万個体を2週間で
測定する人間だ。そんな荒業を可能にするためにはどれ
ほどの薬物を自らに投与したのか想像に難くない。いま
さら薬物中毒だと指摘されても困るよねえ。
ダブルの居眠りに気づいたのか、室長がモニターをカ
ルテの端でごんと叩いた。ダブルの鼻ちょうちんが割れ
る。
『この入院を利用してヘリウムくんには生活改善指導を
行います。筋肉のすみずみにまで染み渡った薬物を抜く
にはリハビリ施設で1年以上かけなければいけません。
ここでは無理です。せめて徹底した生活改善指導を行お
うと思います』
ついてはヘリウムの入院を当初予定していた2週間か
ら3週間に延期をする、そう室長は高らかに宣言をした。
真っ先に不満の声をあげたのは、ダブルではなく水素
とリチウムだった。
「いまでもヘリウムがいなくてアンノウン係は機能停止
状態なんすよ! 1週間だってもちそうもないのに3週
間だなんて無茶っす!」
「ヘリウムあってのアンノウン係なんです! 生活改善
指導なんてどうでもいいので、少しでも早くヘリウムが
復帰できるように薬を打ってやってください!」
室長が人のよさそうな瞳を剣呑に細めた。
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『この上さらに彼に薬物を投与しろと? カルテに〈要
・長期療養〉と記載することもできますよ。彼はモノで
はない。人間なんです。健康に対する意識の低すぎる職
場への復帰を固辞しても構いませんが?』
う、と水素とリチウムが口を閉じる。
そのときモニターの背後から声がした。姿は映らない
ものの間違いなくヘリウムの声だ。
『……戻してください。ボクがいないとあの職場がどう
なるか。ボクは、ボクは』
『ああわかったから、まだ動いちゃダメだよ』
室長がモニターに背中を向ける。リチウムをベッドに
寝かせているらしい。
ヘリウム……、と水素とリチウムが声を詰まらせた。
「そこまでお前はこのアンノウン係のことを」
『……ボクの壁面装置が。早く帰らないと、ボクの壁面
装置を壊されてしまう。……ボクが血肉そそいでカスタ
マイズした壁面装置が……』
「そっちかよ!」
水素とリチウムが同時に罵る。そして水素は立ち上が
るとダブルに詰め寄った。
「係長からもなんとかいってやってください! このま
まだと3週間もヘリウムは医務室に拘束されちゃうんで
すよ!」
『拘束じゃないだろう。入院だよ。ここをどこだと思っ
ているんだい。医務室だよ。彼は重症なんだよ。聞いて
いるかい』
室長がモニター越しに呼びかけるものの、アンノウン
係では水素とリチウムがダブルの襟元をつかんでゆさゆ
さと揺すって、誰も室長を見ていなかった。
「ヘリウムがいないと美味いバナナジュースだって飲め
ないんですよ! 3週間も飲めないんですよ! アンタ
それでいいんすか!」
「く、苦しい」
ダブルは水素に持ち上げられて、両足を空中でじたば
たと動かした。
「じ、じゃあさあ。こういうのはどうかな」
ダブルは、とう、と水素の腹部を蹴り上げて宙返りを
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すると華麗な姿勢で床に着地した。水素は、ぐは、と腹
を抱えてうずくまる。
「このナンバー87655467の書類の『対策』部分
さ。いまさらだけど、ちょこっと変えていい? 『取扱
時には危険物取扱資格者を同伴のもと5人以上で換気の
利いたドラフト内にて2分以内に行うこと』ってありき
たりすぎるし。エヘヘ。もっと過激にしてみたいよ」
そ、それは、と水素が口ごもる。うつむいて指を折っ
てなにやら数え出す。ダブルが書類の変更をした場合に
こうむる自分の手間を考えているのだろう。それとヘリ
ウムがいない3週間の状況を照らし合わせているに違い
ない。
水素は眼鏡のブリッジに指を当て天上を見上げ、唇を
への字に曲げて首を左右に5回振った。眉は苦しげにゆ
がみ、目尻からは涙がしたたり落ちた。
「わかりました! その条件、飲みましょう! ただし
ナンバー87655467だけにしてください。あとが
つかえているんすから!」
商談成立とばかりに、ダブルはモニターの前に出る。
「ヘリウムくんは予定通り2週間で戻してよ。室長なら
可能でしょ? ヘリウムは測定作業を主体業務としてい
るからな。筋肉の疲労問題はさほど重要じゃないよ。オ
レもスタッフの健康管理は今後しっかり気に掛ける。問
題はどこにもない。頼むよ」
それに本当に生活改善指導なんてされたら、ヘリウム
は2週間で2万個体検体測定なんて神業をやれなくなる
からね。それはすでにヘリウムではないな。ヘリウムく
んはむちゃくちゃなところをぜんぶ含めてヘリウムくん
なんだから。
『……まったくうちの部の連中はどいつもこいつも無茶
ばっかりやったりいったり。わかりました。最初から期
待なんてしていませんでしたよ。ヘリウムくんは2週間
後に退院。それでいいですね?』
ひゃっほう、と水素とリチウムは手を取り合って飛び
跳ねた。
(2 へ続く)