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◇◆試し読み◆◇
そのときだ。
「備品は大事にいたしましょう」
背後から声をかけられ、キリンは思わず飛び退いた。
男が立っていた。
クリーム色のスーツを着て、目立つピンクの蝶ネクタ
イをつけている。面識はないものの、その特徴的なスタ
イルから先輩情報調査部員のマッドであることはすぐに
わかった。
マッドは、ほほう、と明るい声を出しながらモニター
に顔を近づける。
「ドーンコーラスですか。懐かしい名前ですねえ。まっ
たくアレには手こずらされました。ご存知ですか? メ
ンバーはそれこそ子どもから老人までいるんですよ。ど
こにでもいるんですよ」
「……マッドさんはあの事件をご存知で?」
「知らない情報調査部員はいないでしょう。もっとも、
わたしはほかのかたよりちょびっと多くは知っています
がね」
マッドはひゃひゃひゃと肩を揺すって笑った。そして
おもむろにスラックスのポケットに手を突っ込む。何を
する気だ。咄嗟にキリンが身構えると、マッドは棒キャ
ンディーを取り出して包みをペりぺりと剥がした。
「失礼。複数個食べたかどうか不安になりましてねえ」
包みから現れたのはピンクに赤いラインが入ったキャ
ンディーだった。キリンは肩の力を抜く。
この棒キャンディー、技術開発部のれっきとしたアイ
テムだ。精神安定剤とか睡眠剤とかいろいろバリエーシ
ョンがある。錠剤ではなく棒キャンディーの形態をして
いるのはRWMの技術開発部員から抜くことが不可能な
遊び心らしい。さらには複数個食べなければ副作用があ
る、ことも遊び心らしい。極めていらぬ気遣いである。
マッドが手に持っているピンクに赤いラインの入った
棒キャンディーは滋養強壮剤だった。
「いやもう、管理営業部の無茶振りには舌を巻きますよ
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ね。わたしだって一応まだ人間なんで疲れるんですが、
となんど訴えても聞き入れてもらえませんでした」
きみも大変ですねえ、とマッドは口を大きく歪めて棒
キャンディーを口に含んだ。そのまま「でも」とマッド
は手を伸ばしてパネルの上に指を走らせた。途端に画面
表示がオフになる。
「な」
「過ぎたことじゃないですか。過去にばかり囚われると、
足元をすくわれますよ?」
だからといって断りもなしにいきなり履歴消去とは穏
やかではない。キリンはマッドに向き直る。ストレート
に声に出す。
「何かぼくが見たらマズイことでもあるんですか?」
「ドーンコーラスはどこにでもいるんです」
「そうみたいでしたね」
「いえ、過去形ではなく、現在進行形で増えているみた
いですよ?」
へ? と声が出た。ついもう消えているモニターに視
線を向ける。『クレーター・ダウンバースト事件』は解
決した。ドーンコーラスの首謀者は死亡、そうでなくて
も行方不明になっているらしい。だったらドーンコーラ
ス自体が組織をなさない。すでに解散している。そう思
い込んでいた。
それが、まだ続いている?
数百万人とも数千万人ともいわれるメンバー数。メン
バーはどこにいてもおかしくなくて──。
「まさか、あなたもメンバーだって言うんじゃないしょ
うね」
マッドは目を丸くし、棒キャンディーを吐き出して腹
を抱えて笑った。そ、そ、その反応は予想していません
でした、と笑い転げている。
「なるほどねえ。わたしがメンバー。それはそれで人類
も綺麗に浄化してみせたくなるところですが、残念なが
ら、そんな暇はなく」
マッドはキリンに顔を突き出す。
「RWMの社員としての仕事にひいひい言う毎日なんで
すよ」
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はあ、とキリンはマッドの顔から視線を逸らせない。
笑い転げながらも、マッドの目は笑っていなかった。
「マドカさん」
これまた唐突にマッドは口にする。
「慕っている男性社員がいるそうですよ?」
「え?」
「これまた残念ながら、きみではなさそうです」
さあ、どうします? と頬に笑みをたたえてマッドは
新しい棒キャンディーを取り出した。
どうするもこうするも、あんたに指図されることでは
ないし、そもそもどうしてそんなことをいきなり口にす
るのか。強がって見たものの、キリンの気持ちはマッド
の思惑通りに乱れていく。
マドカに好きな男がいる? ほかの男があの柔らかい
唇に触れ、あの柔らかい髪に触れる? それは。キリン
は口元を歪ませた。なかなか気持ちの悪い事態だ。
さらに追い打ちをかけるようにキリンのイヤーモバイ
ルが鳴った。管理営業部からだった。任務の催促のコー
ルだ。
ああ、とマッドが口に棒キャンディーを突っ込んだま
ま、「こっちのブースはわたしが今から使いますからお
気になさらず」と『雲原』と表示されているはずのブー
スへと入っていった。そのまま鼻歌が聞こえてくる。
マッドがモニター画面を見て動揺する気配はない。
つまり──マッドも二月の隠されたある事実に関連し
ている、ということか。
いいでしょう。つぶやいてキリンはマッドに背を向け
る。すべては、これからですよ。