〜
モジャ毛君の災難
みなさん、こんにちは。モジャ毛です。
我がモジャモジャ頭を見て、どなたもわたしをモジャ
毛と呼びますが、ははは、自分で呼ぶのはなかなか虚し
いものですね。
いえ、そんなことよりバレンタインです。チョコです。
セント・バレンタインデーです。
「リカさん、2月14日はなんの日だかご存知ですか?」
「モジャ毛さん、このマフィンすごいです。ブロックチ
ョコが入ってる。アーモンドも。うわ、生地はさくさく
のふわふわ。旨しです」
「新しく入ったパティシエの自信作だそうですよ。じゃ
なくて」
「モジャ毛。餌付けしてんじゃない。リカに仕事をさっ
さと渡せ。うちは万年人手不足だ!」
ウスイ部長の怒鳴り声が飛んできました。わたしは渋
々リカさんに任務依頼書を差し出しました。
リカさんはボブヘアーをふんわりと揺らして書類に目を
走らせます。頬についたマフィンのカスがなんとも愛ら
しい。
「この地区はチョコで有名な地区ですね。やった。バレ
ンタインシーズンだからいろいろなチョコを食べられま
す」
バレンタインという言葉の認識はされていたようです。
よかった。
「あとひと月たらずで2月14日を迎えるのですが。そ
こで」
「モジャ毛。いい加減にしろ」
頭上から書類が降ってきました。ウスイ部長です。
「リカに追加任務な。安心しろ。14日といわず、2月
15日までびっしり詰め込んでやったから」
適材適所の鬼女。異名に違わずスケジュール表は秒刻
みです。しかもこれ、わたしがリカさんと話し込み始め
た数分の間に作り上げたに違いありません。
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
さすがのリカさんも仕事量にマフィンを喉に詰まらせ
ていました。すかさずわたしはカフェオレを渡しました。
「リカならできる。リカしかできない。頑張れリカ。フ
ァイトだリカ」
ウスイ部長は歌うように言うと手をひらひらと振って
デスクへ戻っていきました。
「ウスイさん、今日も絶好調ですね」
「すみません。で、バレンタインですが」
「はい。バレンタインです。楽しみですね」
おお。それはもしや! 期待で胸が膨らみます。
「何種類のチョコを食べられるでしょうか。あ。ちゃん
と仕事もしますからご心配なく」
……そうですよね。リカさんならばわたしよりもチョ
コの心配をするのは当然ですよね。何しろ社内有数の食
いしん坊さんですし。
そのときです。
ウスイ部長がまくしたて始めました。
「モジャ毛。マッドに妙なアイテムが届いてヤツは軽傷。
救護班の手配だ!」
「海のクライアントがキャンセルを言い出した。海のヤ
ツをなだめろ。仕事を逃がすな!」
「救護班の手配のネタがばれた。ダブルの動きが怪しい。
ヤツを止めろ。絶対に外へ出すなよ!」
「音色がポカしやがった。唯に補充アイテムの送付だ!」
「クレームだ。夏美に渡した依頼書に手違いがあったら
しい。どこでミスったか至急チェック。夏美には待機指
示!」
ここまで叫び続けられるウスイ部長にも感心しますが、
どういうことでしょう? どうしてこんなに立て続け?
「テーブルに両手をついている場合か。モジャ毛、働け
!」
ウスイ部長は両手に文房具を持っていました。クレー
ムを受け取りつつ別作業をするという荒業をおこなって
いるようです。
これほど仕事のできる上司を持つ我が身が呪わしい。
「リカに渡した書類にも5か所不備発生だ。クライアン
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
トが予定変更を言い出した!」
そうです。リカさん。
振り向いたものの、リカさんの姿はもうありませんで
した。マフィンを両手に任地へと赴いたのでしょう。機
動力命の部署の部員。依頼書を手にした以上くつろいで
いるわけがない。
「モジャ毛! スクランブル発生。職人まで脱走しやが
った。止めろ。こいつも絶対に外へ出すな!」
「アカリの通信が途絶えた。コハクの分も確認をしてア
カリの安否を確認だ!」
「会長が余計な動きを始めたらしい。止めろ、モジャ毛。
こっちの仕事が増えるぞ!」
むう、とわたしはうなりました。災難続き。負の連鎖。
どこかで断ち切らねば、永遠にバレンタインなど訪れな
い確信があります。
どうする。どうしたらいい。歯ぎしりするわたしに誰
かが肩を叩きました。
新しく入ったパティシエ、カカオくんが立っていまし
た。
にやりと笑っています。
「助けてやろうか? モジャ毛さん」
***
「意外。モジャ毛さんって器用なんだね」
「こういう作業は没頭できていいですねえ。手順通りに
やればちゃんとモノが出来上がる。素晴らしい」わたし
は涙ぐみそうです。
「チョコのテンパリングしながら泣く人は初めて見たよ」
そんなことより、とカカオくんは心配そうな顔をしま
した。
「モジャ毛さん、寝なくて大丈夫なの? かれこれ数日
は仮眠程度にしか寝てないよね」
「超多忙期ではいつものことですから。カカオくんこそ
すみません。大事な睡眠時間を削って」
「オレはこの時期は寝られなくなっちゃったから大丈夫
だよ」
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
この時期。バレンタインの時期。わたしはしばし無言
で手を動かしました。カカオくんも無言でボウルの中身
をかきまぜ続けます。
それは愛しそうな顔つきでした。
悲しそうな顔つきではない。
それが、返ってわたしの胸に刺さりました。
カカオくんの婚約者、遥さんとおっしゃいましたか、
彼女が事故で亡くなったのはちょうど3年前のこの時期
です。営業だけでなく総務も兼ねているために、そうい
う個人情報が否応なしに耳に入る。
わたしの無言を察したのでしょう。カカオくんはふっ
と笑いました。
「喜んで菓子を食べてくれる相手がいるのは、いいもん
だよな」
「カカオくんはいつからお菓子作りを?」
「3歳だ」即答でした。
「カズさんのマカロンを食べて目覚めたんだ」
カズさん。わたしは目を見開きました。カズさんとい
えば、我が社の英雄的社員です。「あ」とわたしは声を
もらしました。
「遥さんは、確か、カズさんの娘さん、でしたか」
「うん。だからオレとあいつは幼馴染だったんだ」
カカオくんが、もうわかるだろう、という視線を投げて
よこします。「そうですか」とわたしはボウルに視線を
戻しました。
カカオくんは3歳から遥さんに恋をしていた。遥さん
のために菓子を作り続け、パティシエにまでなってしま
った。
27歳だったカカオくんが念願の暖簾分けの許可を持
って遥さんのもとに走ったのはちょうどバレンタイン期
間だったといいます。まさしくこれから彼らの人生は始
まろうとしていた。そんな彼が遥さんの事故死をきっか
けに何もかも失った。
テンパリングのチョコがボウルに流れ落ちるさまを眺
めました。カカオくんにはもう、このチョコを食べても
らいたい一番の相手はいない。どこを捜しても、もうい
ない。
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
「しけたツラしないでくれる?」カカオくんが苦笑いし
ています。
「どうしてオレがパティシエを続けていると思う?」
それはつねづね疑問に思っていたことです。菓子を作
り続ける。それは常に今は亡き婚約者を思い出すことで
す。辛いばかりではありませんか。
黙っているとカカオくんはあっさりと答えを口にしま
した。
「オレの菓子を旨いと言ってくれる人がいるからだよ。
リカさんだって目尻を下げて食べてくれた」
「はい」
「だから会長にスカウトされたとき、迷いもなく入社を
決めたんだよね。超多忙な人たちにこそ、心を癒す菓子
が必要だと思ったから」
ほら、とカカオくんは出来上がったチョコトリュフを
差し出しています。わたしは頭を下げて受け取りました。
口に含む。まろやかなカカオの香りが口に広がります。
ブランディーでしょうか。鼻の奥からゆったりとした匂
いが抜けていきます。思わず頬が緩む。
「そういう顔がオレは見たいんだ」カカオくんが満面の
笑みを浮かべています。
「そのために菓子を作り続けているんだ。確かに」とカ
カオくんは少し言いよどみました。
「遥は誰よりもオレの菓子を喜んでくれた。その遥はも
ういない。その事実はくつがえせない。どうしようもな
い。でもさ。だからって、それがオレが菓子を作らない
理由にはならない、って思った」
モジャ毛さん、とカカオくんは真面目な声を出しまし
た。
「心を込めた菓子は違うよ。機械で作ったのと全然味が
違う。伝わるんだ。作り手の想いがさ。作り手のぬくも
りも。だからさ」
カカオくんが言葉を切り、わたしは力強くうなずきま
した。
「じゃあ次の行程にいくぜ。昨晩作っておいたガナッシ
ュにテンパリングしたチョコを付ける作業だ」
「化学実験をするように慎重に、ですね」
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
「集中だよ。食べる相手を思い浮かべて、ガナッシュに
チョコをかけていく」
相手がどんな顔をして頬張るかとか、どんな感じでチ
ョコは口の中で溶けていくかとか、食べたヤツはどんな
気分になるかとか。そういうことを思い浮かべる。
言いながらカカオくんの頬には笑みが浮かんでいきま
す。目の前に相手がいるかのような顔つきです。
思わずわたしは目を伏せました。
遥さんというお嬢さん。彼女はなんて幸せ者だったの
でしょう。これほどまでに誰かに想いを寄せられるなん
て。
そしてカカオくんを羨ましく感じました。誰かをこれ
ほどまでに想いを寄せることができるなんて。
「モジャ毛さん、これからできるじゃん。というかもう
してるし」
「そうですね」わたしはガナッシュにチョコをかける作
業に集中します。
カカオくんも、などと野暮なことは言えません。
まだ3年なのです。
24年間、一緒にいた相手と絆を引きちぎられてまだ
3年。心変わりをしろなどと、どの口で言えるでしょう。
相手を思い浮かべてチョコを作る。笑顔を思って作り
続ける。わたしは黙々と手を動かし続けました。
***
2月14日。気温マイナス7度、湿度11%。雲一つ
ない青空のもと、わたしは地下鉄駅3番出口前に立って
いました。
ウスイ部長の作成したスケジュール表によるとあと2
分でリカさんが目の前を走り抜けていくはずです。サボ
りではありません。ちゃんと営業仕事の途中ですとも。
チョコの入った小箱を両手で抱えてそわそわと通りを
うかがう。まるで女子高生にでもなった気分です。
そしてあのふわふわとしたボブヘアーが目に入りまし
た。
リカさんです。
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
「リカさん」と呼びかけようとしたまさにそのとき、小
柄な物体が視界を横切りました。ダブルさんです。
「どうしてここに!」
とっさにダブルさんのジャケットをつかもうとしたも
のの、あっさりとかわされました。悔しがる間もなく、
職人までもがダブルさんに続きます。その職人もするり
とわたしの動作をかわし、わたしの手は無様に宙を舞い
ました。
ダブルさんたちの向かう先にいたのは音色くんでした。
そういえば唯ちゃんのいるカフェはこの近くにあります。
「ヤバい。音色くん、逃げてください!」
わたしの声に気づいたのか、ダブルさんたちの姿に気
づいたのか、音色くんは文字通りその場で飛び上がって、
そのまま逆方向へと走り出しました。
「音色くん。あれほど警告したのに。いつの間に彼らの
カモになっていたのでしょうかねえ」
不意に背後から肩を抱き締められました。包帯だらけ
の男が目に入ります。棒キャンディーを舐めていなけれ
ば誰なのかわからないところでした。
「どこが軽傷なんですか、マッドさん。重症じゃないで
すか」
「この街のアイス屋でコットンキャンディー味のアイス
が復活したのですよ。入院なんてしている場合ではあり
ません」
「そんな元気があるなら仕事してください」
「きみに言われたくありません。何です? その箱は」
「そうだ! リカさん!」
わたしは慌てて周囲を見渡しました。見当たらない。
いや、まだ近くにいるはずだ。うろたえるわたしにマッ
ドさんが東の方角を指さしました。
「いた!」
リカさんは東方向にある公園の屋台でソースヤキソバ
を購入しているところでした。
「リカさん」
わたしは人目も気にせず走りました。ここで会えなけ
れば数日の努力が水の泡です。
マッドさんが何か言っているのも聞こえません。気持
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
ちばかりが急いて足が上手く進まない。水の中を走って
いるようです。もがくように手を動かし横断歩道を渡る
わたしに車が突っ込んで来るのが見えたのは道路の中央
あたり。
「うおう」
わたしは瞬時に腹ばいになりました。
道路が凍っていたのが幸いしました。わたしを避けよ
うとした車はスリップして信号機へと激突していきます。
「モジャ毛さんじゃないですか。大丈夫ですか!」
顔を上げるとリカさんがいました。さすがのリカさん
も至近距離での事故に駆け付けたのでしょう。
「あれ? マッドさんに音色くんにダブルさんや職人さ
んまでいる。何かあるんですか?」
わたしは立ち上がると死守した小箱を差し出しました。
「チョコです」
「え。チョコ?」
リカさんの顔が輝きました。わたしは胸がいっぱいに
なります。
そうです。バレンタインデー。男から渡して何が悪い。
欧米では男性から女性への贈り物をする日だというでは
ありませんか。
いただけないならば差し上げる。
それくらいの気構えがなくてどうしましょう。
「昨日作ったばかりです。賞味期限は今日までです。さ
あ召し上がってください」
「モジャ毛さんが作ったんですか! すごい。きれい。
美味しそう」
箱を開けてリカさんは早速ひとつ口に入れました。み
るみるリカさんの目尻が下がっていきます。
「うわ。どこで食べたチョコよりも美味しい。ほんとで
す。ほら」
いきなりリカさんは一粒手に取るとわたしの口へ押し
付けました。勢いでわたしは口を開きます。うん、我な
がら上出来です。何日も寝ずに試作を繰り返したかいが
あったというものです。
ん? え? この状況は。ひょっとすると、ひょっと
しなくても、リカさんからチョコを貰った、と言い換え
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
てもいいのでは?
ガッツポーズを取るわたしの脇に体格のいい中年の男
性が立ちました。
「兄ちゃん、冬道で信号無視して飛び出してくるなんざ、
いい度胸じゃねえか。どうしてくれんだ。車、全損だぞ
コラ」
ああ運転手さんでしたか。ご無事でなによりです。胸
元をつかまれつつわたしは薄い笑みを浮かべました。
「何ニヤついてんだ。警察くるまでつきあってもらうか
らな」
リカさんは「チョコご馳走様でした。残りは大事にい
ただきます」と言うと笑顔で走り去りました。ダブルさ
んも職人さんもマッドさんも音色くんもすでに姿はあり
ません。
みんなまき沿いを食わないよう、各々の仕事に戻った
のでしょう。営業部員としてはありがたい行為です。こ
こでみなさんの仕事に支障が出たらウスイ部長に何をい
われることやら。
それに交渉事はわたしの専門分野です。
胸を張ろうとして胸部に違和感を覚えました。
「ちょ、兄ちゃん怪我してるんじゃねえか。誰か! 救
急車!」
ええ? わたしがそんな失態を? バカを言わないで
ください。ちょっと寝不足なだけで。意識がだんだん遠
ざかります。
なんということでしょう。
まだ負の連鎖は続いていたようです。
薄れて行く意識の中、美味しそうにチョコを食べるリ
カさんの横顔が思い浮かびました。ああそうですね。ま
あいいでしょう。こんな日もありますよ。リカさんの笑
顔が見られただけ上出来です。
問題はウスイ部長ですね。なんと言訳したものか。
どなたか一緒に考えてくださいませんか?
(了)
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆