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◇◆試し読み◆◇
「じゃあ、やっぱり犯人はミモザか」
「なんの話よ」
「『モジャ毛さんがホタルさんに新しいアイテムの開発
を依頼したんだけど、ホタルさんに白羽の矢を立てたの
がミモザだ』って噂が流れてる。知らないの?」
全然、とミモザは首を振った。……どこであの話がバ
レたんだ。技術開発部の誰かが管理営業部に盗聴器でも
しかけたか? 誰がそんなことをする? ミモザはヘリ
ウムを見る。……ヘリウムの上司ならやりかねない。
ヘリウムは死んだ魚のような目をミモザに向けた。
「なんでよりによってホタルさんを推薦したの? すご
く迷惑なんだけど。ダウンバーストだっけ? そんなも
のの措置アイテムをあの人に任せたら、地球上から雲が
なくなっちゃうよ?」
「意外。ヘリウムくんがそういう心配するなんて」
「するさ。雲がなくなったら検体としてウチに持ち込ま
れるガスの濃度も変化するだろ? 標準気体も変えない
と。すごい手間なんですけど」
ああそういうことか……、とミモザが言いかけたとこ
ろでヘリウムがミモザのつなぎを引っ張った。
「な、何?」
ヘリウムは左を指さす。技術開発部内をぐるっと回っ
て来たらしいホタルが近づいていた。ひい、とミモザは
ヘリウムとともに再び柱の影へと移動した。
「……それで、ヘリウムくんは何をしてるの? いつも
マシンの前にはりついて検体の測定をしているヘリウム
くんが、珍しい」
「バナナの在庫が心もとなくなったからね」
「バナナ?」
「ウチは全員バナナジュース中毒だからね。二十四時間
飲めるように液体窒素の中にバナナを保管しているんだ
よ」
液体窒素はマイナス百八十六度だ。カチンコチンに凍
ったバナナで作るバナナジュース……。それはもはやバ
ナナスムージーだろう。
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「……美味しそうだね」
「隣の係の係長も飲みに来るくらいだよ。ミモザも飲み
に来る?」
ミモザはヘリウムの係の中を思い浮かべた。それこそ
性別不詳の同僚にやたらテンションの高い先輩がいる係
だ。ラボの扉は頑丈だから中の様子は漏れ聞こえないも
のの、今このときも爆発騒ぎが起きていてもおかしくな
い。
何よりすぐさまミモザの噂を技術開発部中に流す上司
がいる。これまたホタルと別レベルで悪名高い上司であ
った。ホタルの代わりにこの上司の名前を碓氷に告げた
ら、碓氷は三角定規の角でミモザの頭を叩き続けたこと
だろう。
「残念だけど遠慮しておく」
ヘリウムは抑揚のない声で「そっか」と答えた。ほん
の少し残念そうにも聞こえた。そのバナナスムージー作
成はヘリウムの仕事のようだ。
よほど美味しいバナナスムージーなのかな、と思って
いるとヘリウムが柱の影から顔を出した。
「……ところで、ホタルさんってさ。何周するつもりだ
ろう。さっきからずっとぐるぐる回り続けているんだけ
ど」
「さあ」
「なかなかバナナを取りに行くタイミングがつかめなく
て困るんだけどな」
「いつからこんなことやってんの、ヘリウムくん。とい
うかどこにバナナを取りに行くつもり?」
「社員カフェ」
「通行証持ってないじゃん」
「だからミモザを待っていたんだよ」
へ、と振り向くとヘリウムが満面の笑みでミモザを見
ていた。さっきの魚の死んだような目はどこへやらだ。
そういえば、とミモザは思い出す。
どうしてヘリウムがRWMにいるか。それまたまこと
しやかな噂話があった。何しろ月面基地以外に話題がな
い技術開発部だ。噂話が大好きな部署でもあった。
ミモザが常人にありえないほどメカニックテクがある
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とすれば、ヘリウムには常人にありえないほど検体分析
処理能力があった。目にも止まらぬ速さで月面本社に送
られてくる検体の正体を突きとめる力だ。
それだけでも珍しいが、ヘリウムにはもうひとつの面
があった。女癖だ。こんな死んだような目をして作業し
ているくせになんと、いわゆる女たらしだったらしい。
二十一歳の若さで離婚を三回経験、同時につきあった
女の数は最高で五十人だとかなんとか。草食男子を通り
越して絶食男子に見えるところから相手の女は浮気され
ていることすら気づかなかったとかなんとか。……とん
だ肉食絶食男子である。
ミモザは無意識にヘリウムから距離を取って「どうし
てあたしを待っていたのよ」とぶっきらぼうに尋ねた。
「ミモザと一緒に社員カフェに行こうかなと思って」
「シェフへオーダーしていつも通りに転送装置で運んで
もらった方が早いじゃん」
「係長が壊した」
「……転送装置を?」
「うん。検体がどんどん出て来るから、もう嫌だとかな
んとか言って。先輩が直しているけど、おかげでしばら
く検体がなくて測定もできない」
何をやっているんだ、第五係。自力でマシンを直そう
という姿勢は仕事が減って助かるけど。ミモザは大きく
首を振る。
「……どうにも直んなかったら直しにいくよ」
「そのときはバナナジュースをごちそうするよ」
わあ楽しみー、とやけくそで答えているとまたもホタ
ルが二人の前を通り過ぎて行った。頭を振るわけでも何
かをつぶやくでもなく、ホタルは白衣のポケットに両手
を突っ込んで淡々と歩いて行く。赤い瞳の焦点が合って
いないので、なおのこと歩く姿は生霊のようだ。
思わずミモザはつぶやいた。
「こんなにぐるぐる回っていたら溶けてバターになっち
ゃうよ? どんな理論を立てようとしてんだろう」
「……相変わらず時々ミモザは鋭いな。うん、それが目
的かも。脳味噌を一度バター状態に溶かして再構成しよ
うとしているのかも」
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「怖いこと言わないでよ」
「比喩だよ。科学者はよくやるだろ?」
「あたしメカニックだもん」
いずれにせよ、とヘリウムは重い口調でうなった。
「そろそろホタルさん、やらかすかもね」
「何を」
ヘリウムは答えず肩をすくめた。