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◇◆試し読み◆◇
お待たせしました、とマッドが棒キャンディーを宙に
掲げた。一メートルと離れていない距離で隣り合ってい
るのに、いちいち大袈裟な男だ。
「技術開発部から解析報告が来ましたよ。あのマーブル
模様に見えていたガス、ヤバいですねえ。『万が一、マ
グマ溜まで到着するようなことがあるとブリニー式噴火
を誘発させかねない』とあります」
「ブリニー式噴火っ」
マリの声が裏返る。イタリアの古代都市、ボンベイを
廃墟にした、あの巨大噴火のことだ。その噴煙柱はとき
には五万メートルを超えて成層圏にまで達し、数日から
数か月もの間、周囲を暗闇に包むという。まったく冗談
ではない。
「それだけでなく、ちょっとした噴火口にもやすやすと
入り込んでは地中の溶岩成分を噴火しやすいよう組成を
変える恐れもあるとのことですよ」
「何よそれ。どうしてそんなことまでいいきれるのよ。
技術開発部のやつら、こんな短時間でそこまで解析でき
るだなんて……すでに何か火山の実験でもしていたの?」
「ブリニー式噴火を食い止めるアイテムもあるにはある
そうですが。あまりに危険だということで量産の認可は
降りていないそうです。よかったですね。食い止める人
材がいて」
ああもうやっていられないわよ、とマリは首を振って
から、で、とマッドをうながした。
「ガスの解析結果がわかって、それで私たちはどうすれ
ばいいの」
「そこで出番なのがそのコックローチくんの……」
マッドの言葉の途中でコール音がした。マリのイヤー
モバイルだ。
仕事中に誰だ、と眉をしかめてアームを伸ばすと、マ
ルコからのメールだった。一瞬、後回しにしようとした
ものの、あとでゆっくり見る時間がとれる保証もないの
で、マッドに背中を向けてメールをモニター投影した。
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公私混同など、すでにマリにとってはどうでもよかった。
それに詫びのメールならこの任務も清々しい気持ちで進
めることができるというものだ。
ところがそうは問屋がおろさなかった。
件名からして不愉快だ。
『どうしよう。見合い話が来ちゃった』だ。
「見合いっ」
マリは思わず素っ頓狂な声を出す。マッドがすかさず
マリの背後に詰め寄った。マリは投影モニターを縮小し、
さらに手でモニターを隠してメール本文を開いた。
『農協の小麦統括部長から強引に見合い話を押しつけら
れたよ。
おれにはマリがいるからって何度もいったんだけど聞
き入れてもらえなくてさ。会うだけでいいからって、お
れがウンっていうまで帰んなくて、しかたがなくて、だ
から、会うだけ会ってみることになっちゃった。
大丈夫っ。部長の顔を立てるだけだからっ。
相手は隣の農業海上プラントで、シェアナンバーワン
の小麦農家の次女なんだけどね。そんなこと、おれには
どうでもいいし。画像見たけど、マリの足元にもおよば
なかったよ。でもマリに黙って会うのもズルいだろ?
心配させるだけってわかってたけど、連絡しとくね。
見合いは今日の午後五時に、おれんチのテラス。
急な上におれんチっ。冗談じゃないっ。
強引な部長を持つと、ホントまいるよね。
じゃあ、お仕事がんばってねー』
……会うだけ。断れない相手。しかも今日、自宅のテ
ラスでだと? マリは頬を震わせた。……まあ、あいつ
も二十三だものね。子どもじゃないし、新規開拓枠で入
った農地で五年目、農協の世話には相当になっているわ
けだろうし。あの人懐っこさだもの。世話焼きオヤジが
放っておくわけがないわね。ないんだけど……。
「『お仕事がんばってねー』」
棒読みの声がしてマリは我に返った。ちゃっかりマッ
ドがマリの頭越しにメールを読んでいた。
「『会うだけ』。素晴らしい。そんなわけないですよね
え。世の中はしがらみでできていますからねえ」
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「うるさい」
「それにしても見合いとはベタな。普通は彼女に見合い
話が来て彼氏が慌てるというケースですよねえ。さすが
マリさん」
「だからうるさいっ」
「律儀にメールを送ってくるなど泣けてきますねえ。震
えるほどの若造だ。律儀さとマメさと誠意を混同してい
るパターンですね」
マリはマッドの尻を蹴り上げようとした。マッドはひ
ゃひゃひゃと笑い声をあげながらそれを避ける。
「マリさんもご自身の淋しさを、年下男をペットのよう
に可愛がることで埋めているだけではありませんか?」
「あなたには関係ないでしょう?」
「気が向かなければ振り向いてももらえない、そんな関
係には心底懲りていたはずなのでは?」
マリはあらん限りの力でマッドを睨みつけた。なんで
もかんでも知っている口ぶり。情報調査部員の癖だとわ
かっていても腹が立つ。同時に幼少期の記憶がうずく自
分にも腹が立つ。
そうとも。マリは奥歯を噛みしめる。振り向いてもら
えない悔しさは散々味わった。自分だけならまだいい。
気を向けてももらえなかった弟。その弟が不意にいなく
なったのは弟が四歳のときだ。
どこ? マリは必死で家中を捜した。いない。靴もな
い。けれど、弟がけして手放さなかったクマのぬいぐる
みは床に転がっていた。弟がひとりでどこかへ出かけて
行ったのではないのは明白だ。お母さんっ。マリは叫ぶ。
……はどこに行ったの。どこにやったのっ。母親は答え
ない。気だるげにテーブルに頬杖をついて酒をあおるだ
けだった。
警察が来たのは一週間後だった。幼児殺人死体遺棄罪。
それが母親への令状だ。母親は男とともに逃げた。マリ
のまったく見知らぬ男だった。もちろん父親ではなかっ
た。その日から、マリは恐れを抱いた。
次は私かもしれない。
親は等しく子どもを愛する? 馬鹿な。自分の所有物
として、何をしても構わない存在として、振り回し、命
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すら平然と奪う、そういう親も存在するのだ。
それからだ。マリの感覚が鋭敏になっていったのは。
常にこれから起きる出来事を予測する。最悪の事態を
想定する。少なくとも数手先、できれば一時間以内に起
こりうるすべての事象に、どう対応すれば生き残れるか。
マリの能力、『数十歩先の事柄を視る』力はこうして
鍛えられていった。おかげで十代でこの会社、RWMに
スカウトされた。金に困ることはなくなった。食べるも
のにも不自由しない。けれども自由な時間はなくなった。
恋人とも気楽に会えない。あげく見合いまでされそうに
なっている。散々だ。
なんだか……面倒くさいわね。マリは黒髪をかきあげ
た。なんだって、この私が三歳も年下の男に振り回され
なくちゃいけないのよ。見合い? したけりゃすればい
いでしょ? いちいち報告しないでよ。自分で決めなさ
いよ。巻き込まないで。
いっそ、とマリは手の動きを止めた。
別れるか。
「早まらない方がいいですよ」
マッドが耳元でささやいた。
「なかなか会えないとはいっても相手がいれば同じ時を
すごすことができる。それは記憶となってわたしたちの
ような時間に追われる生活をする者には大いなる糧とな
ります」
けれど、とマッドは言葉を継ぐ。
「ひとたびそれを失えば、それはなかなかの喪失感とな
ってしめつけてくる」
「けしかけているの?」
「いえ。──手放すな、と申しているのです。握った手
があるのなら何があっても離すな。髪を振り乱してでも
捕まえていろ。実体験です」
いってマッドは左手をひらひらと動かした。
あ、とマリは口を開けた。マッドの左手薬指にあった
はずの指輪がなかった。確か娘もひとりいたと聞いたこ
とがある。……いつの間に。