〜
◇◆試し読み◆◇
アオイは横目でチカの様子を確認して、雲原に向き直
る。雲原はゆったりとした動きでアオイの背後に回り、
アオイの両手首につけた拘束具を解いた。
「手荒なことをして申しわけありませんでしたね。時間
の無駄を少しでも省きたかったもので。お仲間を呼ぶの
も待っていただけますか? ……時間がないもので」
自由になった手をさすりつつ、アオイから距離を取っ
た雲原へ顔を向けた。
「なんで大地町なんだよ。単に雪があるからじゃねえよ
な」
もちろん、と雲原はうなずく。
「──アレがあるからです」
雲原は窓の外を見た。吹雪しか見えない。吹雪いてい
なくても夜だ。外の様子はわからない。雲原は何も言わ
ない。仕方なくアオイはイヤーモバイルをタップしてモ
ニターを空中投影させる。赤外線カメラに切り替えた。
建物が映った。至近距離だ。
「アレはなんだ?」
「『白い建物』です」
アオイは顔を跳ね上げる。馬鹿な、と声が喉からしぼ
り出た。雲原は顔を歪ませる。
「北空町がなくなったから、隣町の大地町に作る。政府
の考えることは絶望的なまでにお粗末だ」
「こんなところに『白い建物』があるなんて聞いてない。
それにアレが本物ならこの周囲一帯に立ち入り禁止措置
がされているはずだ」
「軍事機密ですからね。地図に載せられるわけがありま
せん。それに立ち入り禁止はされていましたよ。気づき
ませんでしたか?」
さすがに北空町の隣をいまさら町ごと閉鎖するわけに
はいかなかったようですが、と雲原は肩をすくめる。
「我々はさっきちょっとそれを乗り越えて来ただけです。
人騒がせな話です。君がせっかく壊してくれたのに、こ
れでは意味がない」
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
アオイは近くのベンチに座り込んだ。
世間では──北空町事件は存在しないことになってい
る。犯人であるアオイも世間では存在しない。何しろ十
六年前の事件だ。記憶に留めている人物はそういない。
その数少ない人物が自分だと雲原が言うのなら、目的は
やはり……。
「復讐か?」
「はい?」
「俺に復讐するためにこんな大掛かりなことをしている
のか?」
雲原が目をしばたたいた。本気で驚いた顔つきだ。馬
鹿なことを、と口元を緩ませる。
「復讐したいのならばとっくにしていますよ。事件から
十六年が経過しているのです。それまでに君を始末する
方法などいくらでもあった。そうでしょう?」
「じゃあ、なんで俺をここへ呼んだんだよ」
「その前にお礼を」
礼? とアオイは首をかしげた。
「あの町を、北空町を消し去って下さり、本当にありが
とうございました。あれほどわたしたちが成し遂げたか
ったことを、そしてできなかったことを、君はやっての
けた。感謝の言葉もありません」
「……わたし『たち』? ドーンコーラスはそんなに前
からあったのか?」
雲原は首を振り、暖炉に顔を向けて両手を上げた。
「十六年前の北空町があったあのクレーター。あれは凄
まじい衝撃でした。こんな方法があったのかと頭を殴ら
れた気持ちになった。自分が今までいかに生ぬるいかを
思い知らされた」
それからは夢中ですよ、と雲原は手をおろす。
「どうしたらあのクレーターを作れるか。そればかりを
考えて生きて来ました。わたしの専門は気象学だ。そっ
ち方面でなんとかできないかと思いついたのがダウンバ
ーストです。幸い酸性雨は世界中にありましたから、そ
こからは簡単でした」
世界がわたしに味方をしている、そう思いましたね、
と雲原は笑みを浮かべた。
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
アオイは額に手を当てた。
「復讐が目的じゃないなら、俺をどうしたいんだよ」
「君の力が必要です。手伝っていただけませんか?」
雲原が笑みを消してアオイの目を真っ直ぐに見つめて
来た。アオイは額から手を離す。
「……放電のことか? 俺が加担すればクレーター・ダ
ウンバーストの威力が増すとでもいうのかよ」
「そっちではありません」
アオイは鋭く目を細めた。そのアオイに雲原は繰り返
した。
「そっちではありません」
疑いの余地もなく、アオイの真の力を知っている口振
りだった。
雲原がアオイに向かって足を踏み出す。
「君だってこんな世界、ないほうがいいと思うでしょう?
……北空町を消した君ならわかるはずだ」
「俺に人類を浄化させようっていうのかよ。俺にはそん
な理由はねえよ」
「本当にそうですか? 君は北空町を消した。北空町の
アレはなくなった。アレにまつわる町民もいなくなった。
君を虐げる者はいなくなった。けれどアレは世界中にま
だあるんです。気づかない振りはいい加減にやめたほう
がいい」
現にほら、と雲原は外を指さす。『白い建物』を指し
示す。
「あそこにまだあります」
思わずアオイは拳を握る。
──マッドの声が聞こえた気がした。
『雲原に踊らされているとは思わないのですか? どう
してそこまで素直に彼を信じることができるんです?』
まったくだ。どうして俺は雲原の言葉を信じる? 相
手はテロリストだ。しかも俺によって親族一同皆殺しに
された。恨んでいないというその言葉、感謝していると
いうその態度、それをどうして俺は信じるんだ?
そう自分をいさめるものの、どうしてだろう。アオイ
には雲原が嘘をついているとは思えなかった。大学で一
度会っていたからという理由ではない。
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
☆
雲原が身体中から出す切迫感のせいだろうか。駆け引き
などしている場合ではないという覚悟のような空気のせ
いだろうか。それに加えて、なんなんだ? このほんの
りとした懐かしさは。
雲原から漂って来る、雲原がまとっている、濃厚な匂
い。
それが──わけもなく泣きたくなる匂いだった。
欠けた心の縁を無遠慮に満たそうとするその匂い。抗
おうとするのに手が動かない。染み込んで来るその匂い
に顔をしかめつつ、同時に渇望していたことに気づくの
だ。渇望していたことすら知らなかったのに。
だからと言って、とアオイは腹に力を入れる。それが
俺が人類浄化の手助けをする理由にはならない。アオイ
は目を閉じる。
いいでしょう、と雲原は肩をすくめた。
「自覚したくない、というのもまた君の意思だ。ですが、
せっかく彼女を追ってここまで来たのです。わたしの話
に乗ったほうが賢明ですよ」
「え」
アオイは目を開けチカを見た。そして駆け寄る。床に
膝をついてチカに触れた。
冷たい。
脈はある。息もある。けれどやたらと体温が低かった。
ただスタンガンに当てられて失神している状態ではない。
そもそもスタンガンを撃たれたくらいなら、いくら免疫
がなかったからとはいえそろそろ目を覚ましてもいい時
間だ。
「……あんた、チカに何をした」
「ご心配なく。依存性のあるものではありません。睡眠
薬と体温低下をうながす薬物です。そして彼女の眠りを
覚ますアンプルはわたししか知らない。もちろんアンプ
ルは早く投与するに越したことはない。あと三十分も放
置すれば命の保障はできません」