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◇◆試し読み◆◇
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「まずいなと思ったのは、彼女が生まれたときでした。
何がどう具体的に『まずい』のかまではわからなかった。
けど、彼女は必ずやらかす。『何か』をやらかす。それ
も半端じゃない。地球を壊しかねないほどの『何か』だ」
「明るい、いいコに育っています。素直だし、邪念もな
い。だからこそ、うん……厄介です」
「三歳のときでしたね。彼女が覚醒したのは」
「例えば? まあ、害のないものでしたよ。幼稚園の先
生のおばあさんが病気で入院したけど、それを家族は先
生に秘密にしているとかなんとか」
「ただ……それを『認識』したのが幼稚園の先生に残っ
ていた微量の匂い。気配に近い、感情に近い、『匂い』
だった。そうです。彼女は、俺が彼女が生まれたときに
感じた不安を『匂いから情報を読み取る力』にしたんで
す。今後も『それ』がその力だけに留まる保障はない」
「あなたの言う通りです。『まだ起きていない出来事に
対処することはできない』。何かが起こるとわかってい
ても、阻止することはできない」
「え? 俺が? そりゃあそうですけど。だって俺は彼
女が生まれたときからの知合いなんですよ? いくらな
んでもまずいですよ」
「……ああ、そうですよね。いい人のレッテルを剥がす
には絶好のチャンスだ。今さら、失って怖いものもない
ですしね」
「わかりました。やればいいんでしょ、やれば。お仕事
ですからね。その前にひと言いいですか?」
「……会長、ずるいです。正論ばっかり吐かないでくだ
さい」
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1
灰色の外壁に黒い窓枠、オフィスビルの一階、大通公
園を西に一本中通へ入った場所だ。その前を唯はリクル
ートスーツ姿のままでうろついていた。
どこからどう見てもオフィスビルだ。周囲の建物にも
スーツ姿のサラリーマンが出入りしている。業者の車両
もひっきりなしに小路に入って来る。そんなありふれた
オフィスビルにもかかわらず、唯が目にしているのは木
製扉。オフィスというよりカフェだ。
現になんだかほんのりとコーヒーの匂いが漂って来る
かのようだ。その匂いに触発されてか、扉そのものが柔
らかい雰囲気をまとっている。懐かしい気持ちになる。
うん、これはカフェだ。カフェに間違いない。看板は
出ていないもののカフェならば自分が入っても問題なか
ろう。唯は何度もドアノブを引いた。それこそざっと二
年間ほど。
すなわち……就職活動を始めてからも、悔しいことに
大学を卒業しても就職が決まらず、こうして就活を続け
る合間に唯はカフェに通い続けては扉を引いた。
一度も開かなかった。
カフェ自体が閉店しているのか、それとも何か特殊な
操作が必要なのか。今日も何度か扉を引いてみたのだが、
一向に開く気配はなかった。
「会員制ってヤツかなあ」
それでもあきらめきれずに唯はカフェの向かい側へと
移動をした。
「なんだってこんなにここが気になるのかなあ……」
自分では執着心はさほどないと思っている。
最後まで取っておいたケーキの苺を「なんだよ、食わ
ねえのかよ」と彼方に盗られたときも腹は立たなかった。
三時間かけて豚の角煮を作っていたのに、おとうさんか
ら「ごめん。今日の晩御飯は食べられないよ。イケダさ
んが飯鮓を作って来てくれてね。みんなで食べることに
なったんだよ」と連絡があってもこれまた腹を立てるこ
ともなく、ひとりで美味しくとろとろの豚肉をいただい
た。
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何より不採用通知書を山ほど受け取っても「まあしょ
うがないね」と即座にゴミ箱へ捨てるほどだ。
それでもここだけは別だ。寝ても覚めても気にかかる。
気になって仕方がなくて寝坊をして面接に遅刻をしたこ
ともあるくらいだ。
「どうしたもんかいねえ」
そうつぶやいたときだった。
赤髪の青年がカフェに近寄って来た。背が高くひょろ
りとした体格の青年だ。青年は軽い足取りでカフェに視
線を向けると素早く周囲を見回した。
もしかして。唯は足音を消して青年の背後に忍び寄っ
た。案の定、青年は扉に手をかける。そして……。
「!」
扉が開いた。
なんの抵抗もなく易々と木製扉は開いた。なんで?
どうして? 唯はあんぐりと口を開く。青年が特に何か
操作をしたようには見えなかった。赤髪の青年はそのま
まカフェの中へと入って行く。
躊躇はなかった。唯は赤髪の青年の背後にぴったりと
ついてカフェの中へと足を踏み入れた。頭上でドアベル
がチリリンと鳴るのと同時に濃厚なコーヒーの匂いが唯
を包む。
目をすぼめて唯は周囲を見回した。床は板張りで壁に
も木がふんだんに使ってある。その壁のいたるところに
画が飾ってあった。空の画だ。青空の画から夕焼けの空、
綿雲の空から虹がかかる空まであった。その先は木製の
パーテーションでよく見えないもののカウンター席があ
るようだ。
コーヒーの効果か、唯が柔らかい気持ちに満たされて
いると「うおう」と頭上から声がした。赤髪の青年が唯
に気づいてのけぞっていた。
「いつの間にっ。社員じゃないよね。民間人だよね」
民間人? 唯は首をかしげる。
「つうか、どうして入れたのっ」
「えー。お兄さんの後ろからこう、するっと」
唯はウナギの仕草をまねしてみせる。青年は赤髪に両
手を当てて身悶えた。
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「うああ。冗談じゃないよ。懲戒処分もんだよ。いやい
や、落ち着け、俺」
赤髪の青年は深呼吸をする。
「……うん。今ならまだ間に合う。お嬢ちゃん。ここは
ね。社員以外は立ち入り禁止なの。さあ、出た出た」
「嫌です。やっと入れたのに。ずっと入りたかったんだ
から」
「またそんなこと言って。ここが見えるわけないでしょ。
適当なこと言わないで。ウチのセキュリティの高さは軍
事施設並なんだから。それにここはれっきとしたオフィ
スなの。きみは厚かましくも社員でもないのにオフィス
に居座ろうっていうの?」
いいから出て行け、と赤髪の青年は唯の背中をぐいぐ
いと押した。
「嫌だー。ここはカフェじゃん。こんなに植物がたっぷ
りあってコーヒーのいい匂いがするオフィスなんてない
よ」
あのねえ、と赤髪の青年が苛立った声を出しかけたと
き含み笑いが聞こえた。青年は背筋を伸ばす。緊張した
面持ちで、いや、あのその、と口ごもり背後に向きを変
えて九十度の角度に腰を曲げた。
「す、すみません。俺のミスですっ」
「誰かいるの?」
「お嬢ちゃんは黙ってて。つうか出て行って」
「それは無理です」
「あ、何すんのっ」
唯がこっそりカフェの中へ進もうとするのを赤髪の青
年がウエストをつかんで阻止をする。唯はスカートがめ
くれるのも構わず床に這いつくばった。絶対に外に出な
いぞとパーテーションを両手で握りしめる。
「あああ。大丈夫ですから。カズさんはそこにいてくだ
さい。カズさんに出て来られたら、本当に俺は懲戒処分
ですから。しかも無期限の。お願いです。勘弁してくだ
さいっ」
唯は青年の顔を見た。今なんて言った? カズさん?
足音が聞こえた。
床板をゴム底の靴で歩くような足音だ。威圧感はない。
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ゆったりとした優しげな足音だった。足音は唯たちに向
かって来る。その足音が途中で止まる。
「ここまでならいいだろ~?」
唯の顔がみるみる強張る。……この声。この口調。覚
えているどころではない。忘れたことなどない。唯は這
いつくばった姿勢のまま声の主に顔を向けた。
緑色ドット柄シャツに黒いギャルソンエプロン。
さらさらで長めのショートヘア。
眉を下げて口元には笑みをたたえ。
線の細い二十八歳くらいの青年。
「カズ……さん?」
唯の視界がぼやけていく。鼻先も熱くなる。
どうして? なんで? どういうこと?
だってカズさんは彼方と遥のおとうさんで。
十六年前にお葬式を出したじゃん?
そのカズさんがどうして目の前にいるの?
しかも……二十八歳の遺影の姿そのままで。
次から次へとわき上がる疑問とともに、唯の瞳から涙
があふれた。