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◇◆試し読み◆◇
おかしいと気づいたのは一年前だ。
一介の美大男子学生だった音色。
音色は三年半前にRWMの会長にスカウトされて、二
年間研修と実地研修もなんとかクリアして、情報調査部
員としてがむしゃらに任務をこなす日々だった。
そんな中、任務の合間に本社へ戻るたびに音色は視線
を感じた。
ウサギ型催涙弾にクマのぬいぐるみ型クラスター弾、
メンタル調整のための医薬品アイテムの棒キャンディー
を鞄へ入れていると、いつも誰かが音色に微笑んでいた。
本社情報調査部内のデータバンクエリアのブースで資
料検索やら報告書の作成をしているときなど、とおりす
がりの部長が頻繁に音色の肩をいたわるように軽く叩い
た。
同じ情報調査部員だけならまだわかる。
右も左もわからず、全力で頑張るルーキーにエールを
送る──。
そう解釈することもできた。
だが。
音色に柔らかい眼差しを向けていたのは管理営業部員
をはじめ、修繕部員に運輸管理部員、ときには経営監査
室の社員までとなると話は別だ。社員カフェにおいては
シェフまでもだ。マシュマロ入りココアを頼めば、明ら
かにサービス過剰のマシュマロがココアの上でとろりと
溶けていた。
全社員数百二十名弱。
その万年人手不足のRWMにおいて、ただルーキーだ
からという理由で、ほかの社員を温かい眼差しで見てい
られるわけがない。
この人数で全世界の案件を一手に引き受けているのだ。
必然的に誰もが常時二桁の案件を抱え持っていた。修
繕部員に情報調査部員は本社へ戻ることすら珍しい。ほ
ぼ常に世界中を飛び回っている。運輸管理部員だってし
かりであった。
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けれど音色に向ける視線は誰もが温かい視線をとおり
越して慣れ慣れしくすらあった。新入社員である音色に
旧知の間柄のような気安さで接して来る。
「……社風か? 社員みな兄弟の精神でいないと、ここ
ではやっていられないのか?」
そんなわけないと気づいたのは北半球の北国が夏を迎
えたころだ。
音色は数案件の報告書を管理営業部に提出して、ひと
息つこうと社員カフェでマシュマロ入りココアを飲んで
いた。例の大盛りマシュマロの入ったマシュマロ入りコ
コアであった。
そのときだ。
音色の隣に白衣姿の少年が座った。
さらさらの栗毛色ショートボブ、フレア付きのブラウ
スシャツにハーフパンツを着ている。零れ落ちそうに大
きな瞳でえへへと音色に笑いかけていた。
ひと目でわかった。
コードネーム『ダブル』だ。
実地研修の研修係だった先輩のマッドから「くれぐれ
も接触しないよう気をつけてくださいよ」と念を押され
ていた技術開発部員であるだけでなく、さらに厄介らし
い第五係の係長だった。
「感動だなあ~。やっと音色くんとお喋りする機会がで
きたよ。お近づきのしるしにコレあげる」
ダブルは何やら小型装置を音色のポケットに滑り込ま
せようとしていた。音色は、うぉう、と本能で椅子を蹴
って飛び退いた。
「んも~。人の親切はありがたく取っておくもんだよ?
そうだぞ。この『コンペイトウ型煙幕剤』はめちゃく
ちゃ便利だからな」
口調がおかしい。会話の中で二種類の声が混在してい
た。
なるほど、と音色はうなる。これがコードネームの由
縁か。
解離性同一症、いわゆる二重人格。ゆえにコードネー
ム『ダブル』だ。
マッドの助言どおりすぐにその場を立ち去るべきだと
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わかった。けれど愛らしい少年の容姿とは裏腹にダブル
には隙がない。いつでも逃げ出せる姿勢のままで、音色
はダブルに声を出していた。
「そもそも技術開発部員は部内から外出禁止でしょう。
どうやってここに」
「そうだな。お前たちの身の安全のために技術開発部と
社員カフェのあいだには五重の扉があるね~」
でもさあ、とダブルは身体を揺らして笑った。
「ぼくを誰だと思ってるの? そんなセキュリティ扉の
四つや五つ、突破できないわけがないだろうが」
ヤバい、ヤバい、ヤバい。
音色の中で警鐘がなる。
ダブルがショッキングピンクとシグナルイエローのマ
ーブルの『色』をまとっている段階で、もう半端なくヤ
バい状況だとわかった。一刻も早くここを逃げ出さねば。
「せっかちさんだねえ」
ダブルは肩をすくめてシェフにマシュマロ入りココア
を注文した。
さすがのシェフも極力ダブルに関わりたくないのだろ
う。そうかと言って拒否をすれば、何をされるかわから
ない。シェフは数分もしないうちにダブルの前にマシュ
マロ入りココアのマグカップを置いた。
「これこれ~」
とダブルは目を細めて湯気の立つマグカップに息を吹
きかける。
「高校生のころはずいぶんと可愛げがあったって聞いて
いたのになあ~」
「え」
「ああそうだな。どんなにひどいイジメに遭っても他人
と関わるのを厭わなかったんだろうが。健気だねえ~」
音色の顔が強張った。
どうしてそれを知っている?
「絵さえ描いていれば幸せで、お兄さんが作ったメンチ
カツが大好物だったんだよね。メンチカツが上手い兄と
いうのもスペック高いな。ね~」
だから、どうしてそれ知っている。
立ち尽くす音色を見て、ダブルが唇に溶けたマシュマ
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ロをつけて、え? と首をかしげてた。
「ひょっとして知らないの?」
「……何をですか」
「海くんだよ。海くんはずいぶんとウチの手伝いをして
くれていたんだよ。マッドの口車にまんまと乗せられて
さ。民間人の癖に。社員でも嫌がるのにな。奇特なヤツ
だ。お人よしすぎる」
兄の名前が出て音色は目を見開いた。
どうしてここに兄さんの名前が出る? だって兄さん
は四年前に。なのに、その兄さんをどうしてコイツが知
っている?
ああ、とダブルはマシュマロ入りココアをすすりつつ
続けた。
「お人よしすぎたから早死にしたのか。惜しい人物を亡
くしたもんだ。社員じゃなくてよかった。まったくだね
え」
兄が事故死したことも知っている? それはいったい?
ダブルがマグカップから口を離す。そして呆れた声を
出した。
「……本当に何も知らないの? 今の今まで? 海がウ
チに関わったのは九年近く前だぞ? マッドは何も言わ
なかったの? 海と時子を引き合わせたのはマッドだろ?
しかもお前の研修係だった。それなのにずっと知らな
かったのか?」
そいつは、とダブルは両手を広げた。
「ずいぶんとおめでたいヤツだな」
そもそも、とダブルは栗毛を揺らして微笑んだ。
「海は本当に事故死だったのか? 他殺だったのかもし
れないぞ? ウチに関わった以上、恨みを持つヤツは大
勢いるからねえ~。それともひょっとしたら?」
「ダブルさんっ」
怒鳴り声を出してシェフがダブルの真正面のカウンタ
ーに両手をついた。鬼の形相をしている。
「……それ以上口走ったら、マシュマロ入りココアの提
供を今後一切拒否します」
いや、あの、なんでもないよ~、とダブルは手をひら
ひらさせると社員カフェから走り去った。音色はシェフ
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に顔を向ける。シェフも慌てて視線を逸らしてカウンタ
ーの奥へと消えて行った。
えっと、と音色は赤髪に手を当てる。
「……兄さんが、なんだって?」