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◇◆試し読み◆◇
教会に歌声が響いていた。
讃美歌九十七番。
一番後ろの席に座り、『クローバー』は天井を見上げ
る。左側にあるステンドグラス。そこからまさしく歌詞
のとおりに差し込んだ朝日が礼拝堂を照らしていた。
礼拝堂の中を赤や黄色に照らすその光、きらきらと輝
くその光がクローバーの頭上も染めていく。大人と子ど
もの真摯《しんし》な歌声に導かれて、クローバーは目
を細めてそれを仰ぎ見る。すがるように。救いを求める
ように。そこから答えを導き出すために。けれど──。
クローバーは目を伏せる。
ステンドグラスをとおした光はまぶしすぎて、礼拝堂
全体が揺らめいて見えた。どうしても燃える炎の中にい
る感覚になる。
もちろんステンドグラスのせいではない。
さっき探査した案件のせいだ。
もっと、と思う。
もっと讃美歌を聴いていればこの感情は凪ぐのだろう
か。
もっと礼拝堂の空気を深くたっぷりと吸い込んでいれ
ば、そうすればこのざわついた感覚は消えるのだろうか。
そのときだ。
背後に気配を感じた。
直後、長いプラチナブロンドの髪がクローバーの両肩
へと流れ、背中から細い腕がクローバーを抱きしめた。
しなやかな細腕の主が耳元で甘い声を出す。
「見つけた」
振り向かなくてもわかる。コードネーム『黒猫《くろ
ねこ》』だ。
彼女はクローバーの耳元で囁き続ける。一応、礼拝中
であることを考慮してくれているようだ。
「凹むたびに教会へ姿を消すクセ、いい加減に治して欲
しいわ」
クローバーは軽く肩をすくめる。
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「凹んでなんていませんよ」
「捜す身にもなれと言っているの。世界中にいくつ教会
があると思っているの? ステンドグラスさえあればい
いとなれば、キリスト教の教会限定にもできないわ」
「社章バッジにGPS機能がついているでしょう? 碓
氷《うすい》さんに聞けば僕の居場所なんてすぐに教え
てくれますよ」
黒猫がクローバーの耳を甘噛みする。
「……私が彼女をどれだけ嫌いなのか知っていてよくそ
んなことを言えるわね」
「彼女を愛してやまないのは恋人のフォックスさんくら
いですよ」
僕だって、とクローバーは左耳を指さす。超軽量のイ
ヤホン型モバイルフォン、通称イヤーモバイルを装着し
ていた。
「せっかく心を癒しにここへ来たのに、ずっと強制接続
されて碓氷さんに怒鳴られっぱなしです。半分も集中で
きない。讃美歌九十七番、大好きなのに」
「やっぱり凹んでいるんじゃないの」
しまった、とクローバーはかすかに眉を揺らす。
「とはいえ、今回はすぐにわかった。この教会、あなた
の通っていた教会に塔の形が似ているわ」
「僕の通っていた教会? ……なぜ知っているんです?」
「あなたの部長に画像をもらったの。『あなたの部下の
少年がすぐにいなくなって大変迷惑しています。ヒント
になる画像などお持ちではないでしょうか』ってね」
クローバーは大袈裟にうなだれてみせる。プライバシ
ーの侵害だ。
まあ、わかるけれど、と黒猫は身を乗り出した。柔ら
かい白いシャツブラウスが半袖Tシャツ姿のクローバー
の肌に触れる。大きく開いた襟元から黒猫の胸の谷間が
あらわになる。それを隠すことなく黒猫はクローバーの
左手を取った。そしてその手首にはめた金属製のブレス
レットを指先で撫でた。
「クローバーの大嫌いな森林火災。しかも大規模火災。
その発端を見つけたんですって?」
黒猫は指先をブレスレットからクローバーの唇へと移
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動させる。クローバーは視線を伏せたままでその指先を
掴んだ。「はい」とその指の中へ小型チップを入れる。
「何これ」
「僕がこの教会に来てから拾ったデータです。アジアの
極東エリアのものだけしか入れていません。もっと欲し
ければつけ加えますが」
「あなた──碓氷の怒鳴り声を跳ねつけてメンタルリセ
ットしつつ、さらにはデータ整理もしていたの?」
「情報調査部員ですから。キャリア九年の」
「しかも十九歳。いろいろおかしいわよね」
「二十二歳で修繕部員キャリア十一年のあなたに言われ
たくありませんね」
むっとした気配を漂わせて黒猫はクローバーの耳の後
ろに唇を当てる。そのまま首筋を舐めようとしてくる。
どういう嫌がらせなのか。
クローバーは、やれやれ、と姿勢を正し、それから黒
猫がこの教会へ現れてから初めて彼女へ振り向いた。
真っ直ぐに黒猫のその金色に近いグレーの瞳を見る。
弾かれたように黒猫がクローバーから離れた。
さっきまでの妖艶な雰囲気とは打って変わって険しい
眼差しへと変わる。数秒視線を揺らし、黒猫は口の端を
歪めた。
「……やってくれたわね。クローバーのくせに」
「『クローバー』ですから。みなさんへ幸せをお届け。
そういったところですかね」
「会長はそういう意味合いであなたのコードネームをつ
けたわけじゃないと聞いたけれど?」
「相手に『キーワード』をプレゼントするのは事実です
から」
それに、と続ける。
「君もそうですよ。別に君は不幸を運んでいません。そ
のスキルは君のせいじゃない」
「『黒猫』のように相手の幸運を奪う、それは事実でし
ょう?」
「世の中の黒い猫たちは幸運を奪ってなどいません。黒
い猫に対する冒涜《ぼうとく》だ。あれは黒猫が目の前
を横切ったら不吉なことが起きるという迷信で──」
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もう結構、と黒猫は吐き捨てる。それからクローバー
が渡した小型チップを押し返した。
「あなたの『おかげで』私は行かなくちゃいけなくなっ
たわ。そのデータは自分で渡して」
「誰に」
「ギフトさん」
え、と眉を歪めるクローバーへ黒猫は畳みかける。
「なんのために私があなたを捜していたと思うの? あ
なたをカフェに連れ戻すためよ」
「カフェにギフトさんがいるということですか? だっ
てギフトさんといえば」
「運輸管理部の部長よ。ただの社員ではない。部長。そ
れだけの事態だということよ。いい加減に状況の深刻性
に気づいて」
さすがにクローバーの顔も強張る。
黒猫は繰り返す。
「いい? 必ずカフェへ戻って。そしてそのデータチッ
プをギフトさんへ渡して。今すぐによ。わかった? い
いわね?」
しつこく黒猫はクローバーへ指をさしてから礼拝堂か
ら駆け出していった。
我に返ると讃美歌は終わっていた。
それどころか多数の視線を背中に感じた。
そっとクローバーは祭壇へ振り返る。参列者たちがク
ローバーを見ていた。牧師は聖書を手にして困惑した顔
を向けていた。
さすがに騒ぎすぎたか。
できれば──もう少しここの空気の中に身を浸してい
たかったのにな。
クローバーはあきらめて席を立つ。
そして牧師へ会釈をして、礼拝堂をあとにした。