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◇◆試し読み◆◇
「座ったら?」
振り返るとディーバがスツール椅子を差し出していた。
「コーヒーも淹れたの。なんなら軽食でも作るけれど。
みんな何時間も食べていないでしょう?」
ナユタが黙っているとディーバが視線を逸らす。
「……ミセスが喋ってくれないの」
だろうね、とナユタは肩をすくめる。
「あなたも……そんなふうだし」
ナユタはディーバの鼻先に人差し指を突きつける。
「七千八百億」
「え」
「単位は言わないよ。今回の君の件でそれだけの損失が
出た。ウチは一応企業なんだよ。慈善団体じゃない」
ディーバの眉がみるみる歪む。ナユタは天井に顔を向
ける。
「──って言いたいところだけど、そんなんじゃないん
だよ」
え、とディーバが戸惑った顔をする。ナユタはディー
バからスツール椅子を奪ってそれを乱暴に壁へ叩きつけ
た。観葉植物の鉢植えが割れる音が響く。
ナユタ、とギフトが短い声を出す。
「手荒にしないでくれ。こっちの仕事が増える」
「わかってますよ」
ディーバが目を見開いてナユタを見ていた。ナユタは
そのディーバをカウンターテーブルに押しつけた。
「なんのために碓氷がここを用意したと思っているんだ
い。君のためだよ」
「それは……」
「君のためにフォックスは頑強なセキュリティを作り上
げ、君の痕跡を消すために情報調査部の部長は不眠不休
で世界中のデータ改ざんを行った。さっきだってどれだ
けミセスが必死だったか。君の所在地を突き止めさせな
いためにどれだけの社員が動いたか」
まくしたてるナユタにディーバは唇を震わせた。それ
を冷ややかな眼差しで眺めてナユタは訊ねた。
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「なぜだと思う?」
それは、とディーバは口籠もったのち、小さい声を出
す。
「わたしに……利用価値があるから」
違う、とナユタは即答する。え、とディーバは顔を上
げる。
「そんなことで会長が動いたりはしない」
「だったら」
「君がウチの社員だからだよ」
ディーバが目をしばたたく。
「利用価値があったから君を社員にしたわけじゃない。
君はウチでしか生きていけない、そう会長が判断したか
ら君を連れ出したんだ。君を生かすために会長は君を連
れ出したんだよ」
「……え」
「ウチは──RWMは、そういう場所だよ。環境コンサ
ルのスペシャリスト。そんなのは後付けだ。あの二年間
の研修に現場措置をしていれば嫌でも専門家になれる。
そうだろう?」
ナユタは両手を強くカウンターテーブルで掴んだ。あ
いだにはさまれたディーバが身を固くする。
「殺害するわけにもいかず、そのまま現場に置くわけに
もいかない。そういう人間の巣窟《そうくつ》。それが
RWMだ。──俺を見ればわかるだろう」
ディーバの瞳がひと際大きくなる。ナユタがそれを口
にするとは思わなかったのだろう。
だから、とナユタは語気を強める。
「俺たちは互いに絶対の信頼を持っている。信用じゃな
くて信頼だよ。そうじゃなければ、お互い生き抜くこと
ができない。それに何より、会長の恩に報いることがで
きない。会長の役に立てないだろう」
それとも君は、とナユタは口元を歪める。
「違うのかい? どうでもいい、なんとでもなれ、そん
な捨て鉢な気持ちでここにいるのかい?」
ああ……、とディーバが小さな声を漏らす。
それに君は、とナユタは口調を強める。
「君はウチを『RWM』と呼ぶ。
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今回、これほどビスナが動いている。だからそのビスナ
と区別するためだとはわかる。だけど、そうじゃないん
だよ。君は無意識にまだここを自分の巣と自覚していな
い。だから『ウチ』と呼べないんだ」
あ、とディーバが口元へ両手を当てる。頼むから、と
ナユタはディーバへ顔を近づける。
「あまり無茶をしないでくれ。どんなに俺たちが君を守
りたいと思っても、君自身がそれを望まないんなら、守
り切れないだろう?」
私は、とディーバが手を震わせる。その手をナユタは
掴んだ。
「ミセスが腹を立てているのはね。君が唄をうたったか
らだけじゃないよ。君がミセスを信頼していなかったか
らだ。ミセスやギフトさんや俺を信頼できなかった。あ
のままではバイカルアザラシを守り切れない、そう判断
して君はうたったんだろう?」
俺は出会ったばかりだから信頼するのは無理かもしれ
ないけれど、と言いかけてナユタは言葉を止める。掴ん
だディーバの手が震えていた。
──やり過ぎだ。息を吐く。俺としたことが、どうし
てこんなに?
そんなこと、わかりきっている。
ミセスにけしかけられるまでもない。
目を閉じてナユタはディーバの手を口元に持って行っ
た。その甲に頬ずりをする。
「……無事でよかった」
つぶやいてディーバの頬に手を添え、唇をよせようと
した、そのときだ。
バシン、と景気よく後頭部を叩かれた。
「やり過ぎだよ。あたしらがいるんだよ。自重しな」
ミセスだった。あのねえ、と振り返ろうとしてぎょっ
とした。
大型モニター、そこで視線が止まる。
「あれはなんだい」
「バイカル湖だよ。フォックスさんがデータを送って来
た。そのリンク作業が終わったところさ。ご覧のとおり、
冗談じゃない状況だよ」
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「本当に冗談じゃないぞ。どこが何をやっているって?」
「その前に、ディーバ、コーヒーが入っているんだって?
くれるかい? 軽く何かつまみたいね。サンドイッチ
とか頼めるかい?」
「ミセス。あの……わたし」
「もういいよ。ナユタががっつり言ってくれたからね。
ただしもう二度と唄をうたわないでおくれよ」
ディーバがうなずくのを視線の端でとらえつつナユタ
は作業スペースへ足を向ける。
「水が減っているってさ」
とギフトがいきなり切り出した。
「どこの? 誰がそれを?」
「バイカル湖。フォックスが指摘してきた。まったくさ
ー。もっと早く教えろって言うんだよ。アイツ、半年く
らい前から気づいていたとか言うんだよ? それをなじ
ると『あんまり多くの情報を伝えても君たちは処理しき
れないだろう』とうそぶきやがった。いちいちもっとも
で腹が立つねー」
ギフトが乱暴に小型デバイスのパネルに指を叩きつけ
ていた。このギフトを本気で怒らせているとは。どんな
状況なんだ、とナユタは改めて大型モニターを見る。
大型モニターにはバイカル湖の断面図が映っていた。
左上部に数字が表示されている。その数字が目まぐるし
い速さで減っていた。
「あの数字、バイカル湖の水量?」
「こんなふうに減っていく数字だけ見せられても、現場
は焦るだけだっていうのになあ。あの馬鹿にはそれがわ
からない。説得力が増すと信じている。悪いね」
ギフトさんが謝ることじゃ、と言いつつこめかみがひ
くつく。確かに焦りが募る。一刻も早くどうにかしなく
てはという思いに駆られる。だが、何をどう措置すれば
いいんだ? そもそもどこがどうなってこういう事態に
なっている? それに、と疑問があふれ出る。
深呼吸をする。頭の中でごちゃまぜになっていた問題
点を素早く整理する。気を引きしめ、それで、とギフト
に向き直った。
「バイカル湖の水量と北極点の移動。
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その二つはどう関係するんです?」
「さすが修繕部員だね。第一の疑問がそれかい?」
「アラーム表示では『北極点の移動の急変』とあった。
だからここへ招集されたんですよね」
「北極点が移動すること自体は別に珍しい現象じゃない」
「なら?」
「大量に氷河が融けたせいだ。それに加えて──バイカ
ル湖の水だよ」
ナユタは素早く大型モニターへ視線を戻す。刻々と減
るバイカル湖の淡水。ほかのどこの水でもなく、バイカ
ル湖の水が問題だ。なぜなら、バイカル湖は──世界中
の淡水の二十パーセント近くがあるからだ。
ナユタの声がかすれる。
「地上から大量の液体の水がなくなると」
うん、と苦々しくギフトもうなずく。
「地球の自転軸が、かたむく」