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◇◆試し読み◆◇
1
知ってた。
おかあさんが、あたしを嫌っていたこと。
嫌うどころか、憎まれてた。
こんな子、いなければいいのに。
いつもそんな目であたしを見てたから。
でも──。
あたしは違った。
おかあさんが好きだった。大好きだった。
理由なんていらない。理屈なんてない。
ただ、おかあさんがいる、それだけでむねがいっぱい
になった。
好きになってくれなくてもいい。どんなに嫌いでもい
いから、ののしってもなぐってもいいから、だから、そ
ばにいてほしかった。
出かけたままもどらないおかあさん。
食べるものがなくなって、すっごくおなかがすいて。
外に出れば誰かが助けてくれる、なにかをくれるって知
ってた。
だけど、そのすきにおかあさんが帰ってきたら?
会えなかったら?
──いやだ……いやだよ。
そんなの絶対にいやだよ。
だから、外に出なかった。
出ないで家でずっとまってた。
ずっとずっと、まってた。
そして、あの事件がおきた。
やっと帰ってきたおかあさん。
そのおかあさんがみんなに責められて。こぶしをふる
わせて。──おかあさんはナイフを手にとった。
あたしを、刺そうとした。
びっくりした。
嫌われてるとは知ってた。憎まれてるともわかってた。
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でも。
殺したいほど嫌われているとは思ってなかったから。
それでも……すぐに思った。
いいよ。
おかあさんなら、いいよ。
あたし、死んでも、いいよ。
なのに──。
おかあさんは泣きさけぶ。
『私が何をしたっていうのよおっ』
さけびながら──おかあさんは自分の首をかき切った。
おかあさん、おかあさん、おかあさん──。
いやだよ、いかないでよ。
ひとりにしないでよ。
そばにいてよ。
なだめる大人の手をふりはらって、あたしはさけんだ。
『こんな街、なくなっちゃえっ』
──だって、本当になくなるなんて思わなかったから。
思って、なかった、から。
──あたしの名前は、ハナ。
会長がくれた名前。
今は八歳。
街をまるごとこわすほど、植物をあやつる力が、ある。
2
「ウチの子にならないかい?」
我ながら驚くほど無邪気な声が出た。妻のディーバと
八歳の少女ハナが目を見張る。そこでようやく失言に近
い発言だったとナユタは気づく。
ディーバの金髪シニョンが逆立っていくようでナユタ
は慌てて両手を突き出す。
「勢いで言ったわけじゃない。衝動発言では断じてない」
「だったら」
「君の了承を得ずに口走ったのは申し訳なく思う。けど、
ずっと思っていたんだ。半年前、ハナに会ってからもう
俺は」
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俺は、とナユタは顔をくしゃくしゃにしてハナをがっ
しりと抱きしめた。
「なにすんのっ」
とハナは叫ぶ。
「だってハナがあんまり愛らしいから身体が勝手に動い
ちゃうんだよ」
「冗談じゃないよっ。セクハラだよ。ジドウギャクタイ
だよ。ナユタのヒゲがちくちくする。痛いよっ」
そう言われたらなおさら愛しさがこみ上げる。ナユタ
は我慢できずにハナへ頬ずりをする。ああ、なんて柔ら
かい肌。なんて小さい顔。細いボブヘアの茶髪の一本一
本すら愛しくてたまらない。
「痛いってばっ。もういやだっ。助けて、ディーバ」
腕の中で身悶えるハナがこれまた可愛い。その小さい
手足が動くことが奇跡のようだ。いつまでも触れていた
くてナユタはハナを抱きしめ続ける。ナユタのひとつで
しばった黒髪が右へ左へふさふさと揺れる。
ベシリと頭を叩かれた。ディーバだ。
「いい加減にしなさいよ。『たとえ手の甲であってもほ
かの女性には触れないし、もちろんキスもしない』と婚
姻届けにサインをするとき誓ってくれたのは誰?」
「ハナは女性じゃないよ。女の子だ」
「ナユタ」
しぶしぶとナユタはハナから離れる。すかさずハナは
ディーバのうしろへ走って逃げて、ディーバの黒い胸当
てつきギャルソンエプロンの裾をつかんだ。
だって、とナユタは胸で言い訳をする。
ディーバと結婚できただけでも幸せなのに、そこにハ
ナまで現れるだなんて。夢なら覚めないで欲しい。だか
ら現実のものにしたい。そう思って口にした。どこがい
けない?
そもそも、とナユタの胸は熱くなる。
ディーバがプロポーズを受けてくれるまで何年かかっ
たことか。
──あなたのことは大好きよ。このままずっと一緒に
いたいと思っているわ。けれど『結婚』となると話は別
だわ。ほかの誰でもなく『あなた』の配偶者になる、そ
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れが何を意味するのか、あなただってわかっているでし
ょう?
ぐうの音も出ないとはこのことか。ナユタは唇を噛み
しめて、だから時間をちょうだい、というディーバへお
となしくうなずいた。
いまかいまかと待ち続けた。いつになっても返事はも
らえず、もういっそ結婚なんてかたちにこだわることは
ないか、とあきらめかけたころだ。「待たせてごめんな
さい」とディーバは微笑んだ。「あなたのプロポーズを
受けるわ」と続けた。
何が決め手になったのか。わからない。それでもディ
ーバの力強い紫色の瞳を見て、本当に、と思う。彼女は
決意したのだ。決意して、くれたのだ。一生俺といる。
何があってもどこへ行ってもずっと俺と人生をともにす
る。彼女の瞳を見てあらためて思い知った。それがどれ
だけの覚悟を必要とする行為か。生涯父を慕って、その
まま逝った母ですら決断できなかった行為だ。そして未
婚のまま俺を産んだ。それほどのことなのに。
俺はそれを──彼女へ一方的に押しつけ一方的に決断
させたのだ。自分の身勝手さを思い知らされた。ナユタ
はディーバを力の限りに抱きしめる。ひたすら、ありが
とう、と繰り返し、彼女を三日三晩離さなかった。
そしてハナ。
半年前に管理営業部長の碓氷《うすい》から「ディー
バに預かってもらってくれ」とここへやって来た少女だ。
その愛らしさにナユタはひと目でとりこになった。
ディーバから「まさか、ハナに恋しちゃったわけでは
ないわよね」と凄まれたけれど、「それこそ、まさか。
俺に幼女趣味はない」と断言し、無表情でナユタを睨み
続けるハナを構わず抱きしめ頬ずりをしてきた。
子どもとはこんなに愛らしい生き物だったのか。胸が
いっぱいになる。ハナに触れているとそれだけで気持ち
の奥が柔らかくなりいてもたってもいられなくなった。
「あなたがこんなに子ども好きだなんて知らなかったわ」
とディーバは肩をすくめたものの、そのディーバも心の
底からハナを大切に思っていることは眼差しでわかった。
少なくとも俺を見る目とはまったく違う。
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これが慈愛というものか。
けれど、とナユタはハナの首元を見る。ペンダントト
ップのついたチョーカー。彼女はいつもそれを身につけ
ていた。本社でハナを管理するためだ。そうしなければ
自力で生きられない。それほどの力がハナにはある。
だからこそハナはウチにいるわけだが。碓氷によると、
ハナの両親は他界していた。親族もいない。天涯孤独の
身だ。
かくしてナユタは常々思っていたわけであった。
ハナがウチの子であったならどれほどいいか。
ウチの子でなければ、ウチの子になればいいじゃない
か。
なんでダメなんだ?
あらためて思いを強くしてナユタはハナへ笑顔を向け
た。
そこをハナがディーバの背中から顔を出す。「ってい
うか」とナユタとディーバの顔を交互に見る。
「二人は夫婦だったの?」
「ハナ。何カ月ここにいるんだい。俺たちをなんだと思
っていたんだい?」
「……恋人?」
ああ、とナユタは感嘆の声をもらす。両手を広げてふ
らふらと再びハナへ抱きつこうとした。ハナは慌ててデ
ィーバの背中をつかむ。
「そんなに俺たちは幸せに見えたかい? 嬉しくて涙が
出そうだ」
ナユタは両手を広げたまま、ディーバごとハナを抱き
しめようとした。それをディーバが右手で押し返す。
「いい加減にして。こんなときによく能天気なことを言
えるわね」
「能天気? 心外だ。俺はいつだって君たちことが大好
きでたまらないって話をしていて──」
「アラームが鳴っていたでしょう。警戒度2の音。それ
が気にならないの?」
「ウチはいつだって非常時だよ。その中でいかに幸せを
見いだせるか。人間らしさを失わずに生きる秘訣だよ」
「人間らしさを保つ前に、人類が滅びるかもしれないわ」
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「またかい?」
「たとえ話ではなくて」
うんうん、と笑顔でうなずくナユタにディーバは「あ
あもうっ」と声を荒げた。
「ナユタ、現実逃避もいい加減にして。ちゃんとモニタ
ーを見て」
「見た」
「──ナユタ」
「その上でハナに告げた。『ウチの子にならないかい?
』って。ディーバ、繰り返し誓うよ。けして衝動発言じ
ゃない」
ナユタの背中越しにある大型モニター。
そこには黒地に赤い文字ででかでかと警告文書が映っ
ていた。
『MJO《エム・ジェー・オー》急激発達化』
MJOとは何か。もちろんナユタは知っている。放置
できる問題ではないともわかっている。このままでは、
あの気象現象が事件化するのも時間の問題だろう。
そう思っている矢先に違うアラームが鳴る。大型モニ
ターへ警告文が表示する。
『MJO事件化』
「もうかい? 早いね」
さらにアラームが鳴る。これまた大型モニターへあら
たな表示がある。
『グローバルG《ガバメント》から緊急依頼』
「これまた早いね。事件化するって会長から聞かされて
いたのか?」
で? と眉をひそめて大型モニターを見る。
大型モニターに表示された依頼文。
『MJO事件をなんとかしろ』
「──相変わらずというかなんというか。丸投げで無茶
振りだ」
そこへさらに左耳へ装着した超軽量モバイルフォン、
通称イヤーモバイルへコールがある。碓氷からだ。
『大至急、本社へ来い。用件は言わなくてもわかるな』
彼女は一方的にそう告げるとコールを切った。ナユタ
はゆるゆると首を横に振る。
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「これはアレかな? 俺を追い詰めるキャンペーンか何
かかい? 俺は万能じゃない。なんど言えばわかっても
らえるんだろうか」
「それは無理よ」
「ディーバまで」
「だって、いまだに私ですらあなたを見ると安心するも
の」
ディーバ、と言葉に詰まる。こらえきれずにナユタは
ハナごとディーバを抱きしめた。ああ……なんて柔らか
くていい匂いで温かくて素敵な感覚なんだ。俺の腕の中
に二人も女性がいる。それも愛する妻とそれから大好き
な少女だ。なんという幸せだ。
感慨にふけるナユタの足を「だから苦しいってばっ」
とハナが蹴り飛ばした。編み上げブーツの上からも激痛
が走る。
「お仕事なんでしょ? さっさと行けば」
嘆かわしげな顔をハナへ向けようとしてナユタはとめ
た。
ハナの視線が揺れていた。険しい顔つきをしながら、
グレーブルーの瞳の奥が不安げに震えている。『ウチの
子にならないかい』、すなわち養女、家族、その単語が
冗談ではないと、いや、たとえ笑い話であってもハナの
気持ちをとらえた証《あかし》だ。
ナユタはかがんでハナに視線を合わせる。そしてその
髪をそっとなでた。
「すぐに戻るよ。ディーバと待っていてくれ」
力強く笑みを作ってみせる。ハナも素直に小さくうな
ずいた。
本当にすぐに──戻れるといいんだが。
その思いは胸に閉じる。
大人のマナーだ。
3
『だから、そっちじゃない』
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本社の格納庫へ小型ジェット機を駐機させ、いつもど
おりに修繕部へ向かおうとしたところで碓氷からイヤー
モバイルにコールがあった。
『ちゃんとメールを送っただろう。たっぷり移動時間が
あったんだ。メールくらいは目をとおせ』
「フォックスからのよくわからないデータが大量に送ら
れてきていたからね。情報処理は苦手だと言っているだ
ろう?」
技術開発部の部長フォックス。世界で一番イカれた科
学者とRWMだけでなく本当に諸政府から認識されてい
る男だ。しかも碓氷の恋人だった。人の嗜好は様々だと
勉強になる。
『フォックスのはどうでもいいが、わたしのメールくら
いは確認しろ。もしディーバやハナに関するメールだっ
たらどうするんだ』
「それはカンでわかるからすぐに読む」
『お前のボスと同じようなことを言うなや』
「それで俺はどこへ行けばいいんだい?」
『お前ー、まったくメールを読む気がないと。ああもう
いい。時間もない。経営監査室へ来い……って走るなっ
』
小走りになりかけたナユタは「は?」と慌てて歩調を
緩めた。
「──何が起きているんだ?」
『起きているんじゃない。お前が起こしているんだ』
「なんのことだかさっぱりわからない」
『いいから、歩いて、ここまで来い。わかったな』
吐き捨てるように言うと碓氷はコールを切った。
いったいなんなんだ。首を振りつつナユタは経営監査
室へ向かった。碓氷の言葉の意味はすぐにわかった。格
納庫のウエイティングルームを抜けた直後だ。「あ」と
声がした。「ん?」とナユタは振り返る。男女の社員が
ナユタを見て頬を染めていた。反射的に笑みを浮かべて
片手を上げる。うおー、とか、やったー、とか声が上が
る。
なぜ喜ぶ? 問い詰めたいところであったものの今は
経営監査室だ。彼らに背を向け本社の中央エリアにある
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社員カフェへ出ると、ここでもナユタを見た社員が「あ」
と顔を上げた。これまた反射的に笑みを返した。またも
や歓声が上がる。
……俺は何をした? さすがに戸惑うものの、確かに
この状況で経営監査室まで駆け抜けるわけにはいかない
とはわかった。ナユタは背筋を伸ばすとゆったりとした
足取りで、ただし歩幅は広げて運輸管理部のその先にあ
る本社の中でも最高セキュリティエリアである経営監査
室まで進む。そこでセキュリティパネルに手をかざす。
社員でも生体認証を必要とする経営監査室。数年前か
ら各部署の部長の詰め所のようになっている。一般社員
には聞かせられないような事柄が内部では起きている。
ナユタも入るのは久々だ。縁がなかったのではなく、
いつもここでは厄介事を持ちかけられるので、極力足を
向けないよう配慮していたからである。
今回もやはり厄介事であった。
厄介事とカフェで察した以上の事態が待っていた。