最終話

 ダブルはカフェでマシュマロ入りココアを注文した。
 遅まきながら感染した『いいヒト菌』が消えたのは昨日のことだ。自分で原型を作っておきながら予想外だったのは、あれだけ職人と対峙しておいてもなお『いいヒト菌』はダブルの中に10日間留まり続けた点だ。
 最初にばらまいたときにはみんなは1週間ですんだのに。なぜぼくだけ10日も感染していなくちゃいけないんだよ。風邪でも後から引くのは長引くというからな。んも。少しは免疫があるかもって職人がいっていたのはガセネタだったの?
 おかげでこの10日、ダブルはすっかり働き者となった。
 ダブルの予言どおり、ラボの中から『水ようかん』は消えてなくなった。
 コンテナに山積みになっていた『水ようかん』の検体も影もかたちもなくなっていた。転送機から『水ようかん』が転送されてくることもなくなった。地球上で『水ようかん』が発生したという報告もなくなった。
 職人が決断を下した瞬間とときをおなじくして、『水ようかん』は光の泡となって消え去ったらしい。
「そりゃあファンタジー映画のようだったっすよ! めちゃくちゃきれいだったんですから! ラボ中が光り輝いたんすから!」
 係長にも見せたかったなあ、と水素が頬を赤くしてラボに戻ったダブルに報告した。
 なくなったのならめでたい限りだ。
 これで『水ようかん』に振り回されることもあるまい。
 そう胸をなで下ろしダブルがキャラメル色の椅子に座ったときだ。
 タフがラボに駆け込んできた。
「大至急『水ようかん』の最終報告書を書き上げてくれ。『どうなっているんだ』と地球上が大騒ぎで問い合わせがじゃんじゃん来ていて対応しきれんわ」
 そんなの無視すればいいじゃんか、と思うのに、ダブルの口からは「当然だろうな」と言葉が漏れ出た。
「わらわら自然発生をしていた食い物が突然光の泡となって消え失せたんだ。神の仕業かとかなんとか騒ぎでも起きているんだろう」
「そのとおりだ。苦情の中でも一番多いのが宗教がらみだ。新興宗教まで起きる有様だ。小さな政府では政権をひっくり返されそうな騒ぎにまで発展しそうらしい」 「『水ようかん』を食った連中はパラダイムシフトを体験しただろうからな。この事態もまた地球の思惑どおりというわけだ」
「悠長なことをいっていないで報告書を頼む。第一報とか第二報とかではなくて、RWMからの正式報告書が必要なんだ。データは揃っているんだろう?」
 リチウムがにっこりと微笑んで解析データをダブルに差し出す。
 水素もにっこりと微笑んで関係書類の束をダブルに差し出した。
 ヘリウムも無表情でうなずいていた。
「わかった。オレが責任を持って報告書を書き上げよう」
「本当か? なんだ? お前どうしちまったんだ? なんだか今日は変だぞ――」
 といい続けるタフの口を水素とリチウムが2人がかりで取り押さえる。鈍いタフはダブルが『いいヒト菌』に感染していると気づいていないらしい。おそらく自分が感染していたことすら気づいていないに違いない。水素とリチウムはダブルが『いいヒト菌』に感染している間にできるだけのことをやらせようという魂胆なのだろう。
 そして報告書を書き上げたのが昨日のことだ。
 一般人にもわかるようガイア理論から『デイジーワールド』実験にいたるまでの一連の出来事を詳細に具体的に記載した。対策も載せたし、思いつく限りのトラブルシューティングまで付録としてつけた。1500枚に渡る大作になった。これだけ書けば読むのにも一苦労だろうから、読み終わった後にケチをつけることもままならないだろう。エヘヘ。
 ついでに『いいヒト菌』からも解放された。酔いからさめる感覚だ。疲労感だけが頭の芯にこびりついている。なにしろ数年分の作業を10日で仕上げたのだ。我ながら無茶をしたものだ。これは糖分補給でもしなくちゃやっていられないね、とダブルはマシュマロ入りココアを飲みに社員用カフェへやってきたのだった。
 テーブルに肘をつくダブルの前にマシュマロ入りココアのカップが置かれた。
 待ってました、とにんまりと笑ってダブルがカップに手を出すのと、「とうっ」と職人の掛け声が聞こえたのが同時だった。
「ちょっと待ってっ。忘れ物だよっ」
 よほど息せき切って走ってきたのか、職人の草履が片方なかった。
「一緒に飲みたいなら待つからさ。まず脱げた草履を拾っておいでよ――」
「とうっ」
 職人はダブルの言葉の途中で再び掛け声を出してマシュマロ入りココアの中になにかの液体を数滴たらした。
「……なにを入れたのかな?」
「強力滋養強壮剤だよっ。この10日間かけてねっちりと精製して作り上げた高純度の滋養強壮剤っ。ダブルくんのために作ったっ」
「……口にして命に支障はないんだろうねえ」
「もちろんだよっ。ダブルくんにはアタシより1日でも長く生きてもらわなくちゃいけないからねっ。そのための強力滋養強壮剤だもんっ」
 さあさあ飲んでっ、と職人はマシュマロ入りココアのカップを差し出した。ダブルはおそるおそるマシュマロ入りココアを口に含む。ひと口で噴出した。
「ダメだよっ。全部飲んでねっ。あ。アツアツのほうじ茶をくださいっ。あと、水ようかんもっ」
 ダブルは口を拭って職人を見る。職人はアハハと笑った。
「もう隠す必要はないでしょっ。ヘリウムくんが作った水ようかんがとっても美味しかったからっ。カフェのはどんな味がするのか楽しみっ」
「……じゃあぼくがみたらし団子を注文しようかねえ。お前な。いくらなんでもあんな派手な『水ようかん』事件があったあとでいきなりオーダーを変えたらシェフが変に思うだろうが」
「いけないのっ?」
 職人が大きな瞳を輝かせる。嫌な予感がダブルの胸をよぎった。
「あのさ。職人さ。ひょっとして新しい装置とか作ってる?」
「うんっ」
「まさかとは思うけど、その装置になにか仕掛けていないだろうな」
「もちろん仕掛けているよっ」
 きまっているでしょっ、と職人はダブルに微笑む。
 今回『水ようかん』を食べなかったけれど、地球とひとつになるという選択肢はとらなかったけれど、アタシが地球を大好きだっていうことには変わりがないんだから、だからいつだってアタシは地球にメッセージを送り続けるんだよっ、という微笑みをする。
 アタシはここにいるよっ、というメッセージを、職人は送り続ける。
「……なるほど。終始一貫している。すばらしいな。地球好きを名乗るだけのことはある。ちなみに、今回はどんなメッセージなのかな?」
「ヒミツっ」
「……なるほど。それはとてもたのしみだな。数年後か十年後か数十年後か――」  地球はどんなメッセージを職人に送ってくるのだろう。
 職人が天蓋を見上げていた。地球を見ているのだろう。ダブルは新しいマシュマロ入りココアを注文する。そして白衣の懐に手を当てた。
 白衣の内ポケット。
 そこに隠したものがある。
 黒色直方体の検体が1個体。『水ようかん』だ。
 すべて光の泡となって消えてしまったはずの『水ようかん』だった。それがどういうわけかダブルの内ポケットに隠し持っていたものだけが消えずに残った。ダブルの白衣が特殊加工を施していたわけではない。正確にいえば、多少は施してある。実験での爆発に耐えうる強度は施した。対惑星用の反物質装置を保管するくらいの強度は施した。
 それでも地球が送って寄こした『水ようかん』を想定した加工は施してはいない。
 つまり、ダブルの意思によって消えずに残ったわけではない。
 くそ。地球の意思かよ。そりゃあ、地球の意思を踏みにじって職人を月面に押しとどめたんだからな。『水ようかん』が光の泡になるきっかけはぼくの発言だったんだから、ぼくにも責任の一端がることはわかるけど。ぼくになにをしろっていうんだよ。それなりの代償を払え、といったところか。代償?
 ダブルはちらりと職人が強力滋養強壮剤を添加したマシュマロ入りココアを見た。新しく注文したマシュマロ入りココアではなく、すでに冷めて、強力滋養強壮剤によりどんよりと濃い紫色に変色したココアだ。この代償にくわえてさらにぼくになにをしろと。
 目の前に新しいマシュマロ入りココアが置かれて、職人が気づく前にダブルはマシュマロ入りココアを口に含んだ。とろりとしたマシュマロが口の中に広がっていく。カカオの風味が身体の隅々にまで広がっていった。
 口のまわりに溶けたマシュマロをつけたままでダブルは不適に笑う。
 職人のことなら、地球にいわれるまでもなくうながされるまでもない。『水ようかん』で念押しされるまでもない。1日でも多く職人よりも生き延びて見せよう。そして職人をちゃんと地球に送り届けるのだ。いくらなんでもそのころにはぼくの体力も衰えているだろうから、人間兵器として各国から狙われることもないだろうしね。
 隣りを見る。
 職人の蝶の髪飾りがテーブルライトに照らされて輝いていた。ふわふわの長い髪が揺れている。職人はやってきた水ようかんに歓声をあげていた。職人の長いまつげが赤く染まった頬に影を落とす。アツアツのほうじ茶が職人の顔に湯気をかけ、職人の輪郭がおぼろげになる。職人のふわふわの長い髪がほうじ茶の湯気に揺れる。
 ダブルはみたらし団子を頬張る。
 そして透明なドーム型の天井を見上げた。
 待ってろ。地球。ダブルは地球に指をさす。
 カフェから見上げた地球は泣きたくなるほど青かった。


(了)


  〈参考・引用文献〉

「ガイアの科学 地球生命圏」
J・E・ラヴロック 工作舎
「パラダイム・ブック」
C+Fコミュニケーションズ編 日本実業出版社
「地球環境キーワード辞典」
環境庁長官官房総務課編集 中央法規
「タオ自然学」
F・カプラー 工作舎
「古代オリエントの神話と思想 ―哲学以前」
H・フランクフォート他 社会思想社


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