3

 あの日。
 シロナガスクジラにいざなわれて海深く意識が潜った。プランクトンを見て意識はさらに地球の記憶をさかのぼり、時間をさかのぼり、ストロマトライトが吐き出す酸素の気泡ひとつにまで意識を潜り込むことができて以来、ずっとこのままでいられたらと思わないときはなかった。
 その瞬間、その一瞬、地球を思い続けた。忘れることができないくらい思い続けた。呼吸をするよりも多く思い続けた。心臓が身体中へ血液を送り込む速さよりも早いくらいすぐに意識は地球へと向けることができた。向かった。意図せず向かってしまう。気を抜くと地球の一部になっている感覚にとらわれた。
 意識していないと自分が月面にいることを忘れてしまう。歯を食いしばっていないとみたらし団子を食べていることすら忘れてしまう。ダブルのぬくもりすら、どこか遠くで焚き火をたいているくらいにしか感じられなくなる。どれだけ髪を触られようとどれだけ頬を撫でられようと、意識はどんどん地球へと向かって現実から離れてしまいそうになる。気を抜くと現実感がなくなる。ふわふわと浮かび上がったこころもちになる。思いが気持ちの内へ内へと進んでしまう。まるで地球の引力だ。進んだ先に地球があるかのようだ。
 語尾に強く抑揚をつけて語るのは、『自分がいま生活している次元はここだ』ということを自分自身にいましめるためだ。そうしないとしゃべっているのかどうかすら自信がなくなってくる。どこに現実があるのかわからない。
 それくらい、地球が愛しい。
 ずっとずっと地球が愛しい。
 地球とひとつになる日を夢見て、それだけをこころの支えにしてきた。『ここ』で手を動かして人間として暮らすの堪えていられたのは、いつか地球とひとつになるという夢があったからだ。こころの支えがあったからだ。
 そして、いま、目の前に『水ようかん』がある。
 ダブルがすべての種明かしをしてくれた『水ようかん』だ。
 ダブルが種明かしをするまでずっと我慢して待っていた『水ようかん』だ。
 いいよねっ。15年も待っていたんだもんねっ。アタシがんばったよねっ。ご褒美だよねっ。アタシ、『すごいな』と感心されたことはあっても『よくやった』と褒められたことはないんだよっ。だれも褒めてくれないんだよっ。感心するばかり。できて当たり前と思われるばかり。『さすが』といわれるだけ。
 地球は『もういいよ』っていってくれたんだよねっ。『よくやったな』って褒めてくれているんだよねっ。褒められるって、すごくあったかい。身体の芯からじんわりと身体中があたたかくなるよっ。『もうがんばらなくていい』んだよねっ。
 ――職人は『水ようかん』の包みをはがすとゆっくりと口へ持っていく。



「食べるな」
 ダブルは職人の手を押さえた。職人は目をしばたたく。どうしてダブルが止めるのか理解できないという顔つきだ。
「ほかのだれでもなく、『お前』が食べたら『あっち側』へいくということだ」
「そうだよっ?」
「現実的には『死』を意味する」
「そうだねっ」
 職人の手が動く。口を大きく開けて『水ようかん』にかぶりつこうとする。その『水ようかん』にダブルが素早くかぶりついた。あっという間に平らげる。
「なにをするのっ」
「食べるなといったんだ」
「アタシは15年も待っていたんだよっ」
 職人は新しい『水ようかん』の包みをはがした。
「ようやく、ようやくこの日が来たんだよっ。ずっとずっと待っていたこの日が、やっと来たんだよっ」
 職人は『水ようかん』を口へ持っていこうとした。それをダブルがすかさず職人の手をつかんで職人の手にあった『水ようかん』を食べきった。食べきっただけではく、職人の膝の上にあるすべての『水ようかん』を床の上にはたき落とす。ついでにソファに職人を押し倒し、職人の白衣や着物の袂に隠し持っていた『水ようかん』すべてを床に叩き落とした。コンクリートの床の上に大量の『水ようかん』が転がり落ちる鈍い音がする。
「どうしてっ!」
「食うなっていっているんだ!」
「アタシ、ダブルくんが謎ときするまでちゃんと待っていたんだよっ」
「オレが頼んだわけじゃない。お前が勝手に待っていただけだろう」
「タフが月に持ってきたときに食べてもよかったんだよっ」
「それもお前の意思だろう」
「ずっとずっと待っていたんだから!」
 うるさい、とダブルは壁を叩いた。
「お前の意思なんて関係ない! お前が死んだらオレは地球を破壊する!」
「な!」
 ダブルは職人の目の前に手のひらサイズの黒い装置を突き出した。
「タフが『水ようかん』を検体として持ち込む少し前に完成した装置だ。対惑星用の反物質装置だ。これを稼動させれば地球ひとつくらい簡単に粉々にできる。もちろん月もそのまきぞいもくうだろうけれどな」
「やめてよっ」
「だから食うな!」
 職人が大きくかぶりを振る。
「ずっとずっとアタシの夢だったんだよっ。アタシがどんな思いで待っていたのかダブルくんだって知っているでしょっ」
「わかってる。知っている。だから食うな」
「どうしてっ!」
 職人の大きな瞳から大きな涙が零れ落ちる。
「どうしてそんなこというのっ? ダブルくんだって地球のことが好きでしょっ」
「きらいではない。だがな。職人を失ってまで好きじゃない。職人をとられてまで好きでいるほどお人よしじゃない!」
 ダブルはソファの上に転がっていた『水ようかん』を手のひらで握りつぶした。 「『水ようかん』? ふざけるな。笑わせるな。なにがガイア理論だ。なにが夢だ。自殺の言い訳に地球を利用するな!」
「そんなんじゃないよっ!」
「おなじことだろうが!」
「いやだよっ」
 ダブルの腕からのがれようとする職人をダブルは抱きかかえた。職人はダブルの胸の中で大きくもがく。職人の息がダブルの腕に胸に熱く吹きかかる。職人の腕がダブルの背中を叩いてもダブルは力を弱めなかった。
「そんなに地球とひとつになりたいのなら――」
 思わずダブルの言葉がつまる。のどから振り絞るように言葉を続けた。
「オレがお前をきっちり看取ってやる。きっちり看取ってその亡骸を地球に土葬してやる」
 職人がダブルを叩く手を止める。
「そうすればお前は有機分解されて、晴れて地球と一体化だ。どうだ! 問題はないだろうが!」
「そんなにっ――」
 職人も言葉を詰まらせる。
「――そんなに待てないよっ」
 ――目の前に、手を伸ばせばとどく目の前に、15年待ち続けた結果がある。口にすれば一瞬で地球とひとつになれるものがある。ずっとずっと描いていた夢がかなうものがある。地球がひとりの人間ごときに応えてくれるなど、思ってもいなかった。希望してはいたけれど、期待はしていなかった。待ち望んでいたけれど、本当に願いがかなうとは思っていなかった。
 その思いがまさにかなうものが目の前にある。
 この日が来るのをどれだけ待っていたことか。待って待って待って待って。毎日毎日、ウサギ型催涙弾を作り続けて。何百個体も何千個体も作り続けて。ようやく、ようやく手に入れたチャンスなのに――。
「――みすみす見逃すなんてことできないよっ」
 ――この機会を逃したら、地球はもう返事をくれないだろう。拒絶したと受け取られるかもしれない。地球を見る姿すらも変わってしまうかもしれない。いままで見えていた地球のぬくもりすらも地球は見せてくれなくなるかもしれない。
 地球とひとつになる夢がかなわなくなる。
 ずっと思い描いた夢が消えてしまう。
 どれだけの思いだっただろう。ほんの思いつきの思いではない。そんな軽い思いではない。15年間。長い長い年月。それだけの年月をずっと思い続けてきたのだ。
 そして、扉は開いているのに――。
 職人はダブルの腕のなかで激しくもがいた。『水ようかん』をつかもうと、ひとつでいいから手にしようと指先を伸ばす。それをダブルも渾身の力で押しとどめる。職人が窒息するかもしれないほどの力だ。手加減はできなかった。それほど職人の力が強かった。職人の15年間の思いの力だ。
「すぐだ!」
 ダブルは職人の耳元でさけぶ。
「たかだか、あと20年かそこらだ! オレたちは薬物まみれだ。それ以上はもたない。もっと早いかもしれない。心配ない。すぐだ。保障する」
「15年だって気が遠くなるほどだったんだよっ」
「すぐだ」
「20年だなんて待てないよっ」
 長すぎるよっ――。職人が嗚咽を漏らす。ずっとずっと待って待ち続けて。やっと15年がすぎて。15年かけて返事をもらえて。この上、まだ待つなんてことは、もうできない。20年? 気が遠くなるよ。そんなに待てるわけないよ。だって、だってだって。目の前にいますぐ夢がかなうものがあるのに!
「すぐだ!」
 ダブルは繰り返す。
「すぐだ!」
 職人の耳元で繰り返しさけぶ。
「オレだってずっと見ていた! オレが月に来てから14年。オレはお前を見ていた! この日が来るのを待ち続けていたのはお前だけじゃない! オレだって待っていた!」
「え?」
「14年間、お前がやっていることをずっと見てきたんだ! ひとりで待っていたふうにいうな! 14年間ずっと見ていて、ずっと待っていたオレの身にもなれ!」
「……ずっと気づいていたってことっ?」
「……お前の行動はあからさますぎるんだよ。不審すぎる。挙動不審だ。探らなくとも見ていればわかる」
 職人がだらりと腕をおろした。
「会長だって気づいていただろう。黙っていたのは、こうしてオレがお前を止めるとでも思ったんだろうさ。もっとも最終的にはソラの持ってきた調査データが決め手になったんだがな」
「――そうかっ。みんなずっと知っていたんだねっ。だれも止めないから、てっきりうまくやっているんだとばかり思ってたっ。バカみたいだねっ」
 職人は目を伏せる。ダブルの腕の中で小さく身を縮める。自分のバカさ加減を悔いるように小さくなる。小さくなって体を震わせる。
 そして職人はダブルを突き飛ばした。
 職人が転がるように床にちらばった『水ようかん』へと走った。今度こそためらいのない動きだった。この機会を絶対に逃さないという意思にあふれた動きだ。
 着物のすそが乱れるのも構わずに職人は『水ようかん』に飛びついた。あと少し。職人は『水ようかん』をわしづかみにして包みをはがす。あと少しで地球とひとつになれる。職人はむき出しになった『水ようかん』を口にいれようとして、その瞬間をダブルが職人を床へ押し倒した。『水ようかん』を持っている職人の手をダブルは強く床に押し付ける。
「食うな!」
「邪魔しないでっ」
「食うなというんだ!」
「こんなことならタフが検体を持ってきたときに食べてしまえばよかったよっ」
 ダブルくんの謎ときなんて待っていないで。職人が歯軋りをする。
 ダブルは目を鋭く細めると空いた手でナイフを取り出した。職人の手にある『水ようかん』をナイフでずたずたに切り裂く。手当たりしだい床に転がっている『水ようかん』にナイフを突き立てた。それからナイフの柄の向きを変えた。ナイフを職人ののど元につきつける。
「食ったら殺す」
 ダブルの低い声が室内に響く。職人の首筋から血がひと筋にじみでる。職人は目を見開いてダブルを見ていた。職人の眉が大きくゆがんでいる。
「そうしたらお前は地球に受け入れられる前に月で野垂れ死ぬことになるな。地球とはひとつになれない。残念だったな」
 職人がぽっかりと口を開ける。言葉は聞こえない。職人の見開いた瞳がみるみる透き通っていく。怯えや怒りの色はない。苛立ちの色さえ消えていた。憎しみや憤りの色もない。あるのは不思議そうな色だった。
 どうしてダブルがこんな行動に出るのか。まるで想像できないという顔つきだ。なにがここまでダブルを動かすのか、まるで理解できないという顔つきだ。
 ――恋愛の究極の形は心中だよっ――。
 そうソラにさとしていたのは職人自身だというのに。
 自分たちの身にそういう状況が訪れることはまるで想定外だった。職人にとってもダブルにとっても。職人の襟元が血に染まっていく。桃色の半襟に模様のように赤色が混じる。それでもダブルは力を緩めなかった。――これでは職人を殺したあと、オレは自殺をしなくてはいけないじゃないか。
 ダブルは口を曲げる。
 笑い声が突いて出た。
 含み笑いのような声が次第に大きな声になる。笑って笑って笑いまくった。腹が痛くなるほど笑った。頬が引きつるほど笑った。自分の笑い声でこめかみが痛くなる。目尻に涙が浮かんだ。
 ――そうだ。オレにとっても想定外だ。オレがこんな陳腐な行動に出て、あんな陳腐な言葉を吐くなどとオレらしくもない。いくら『いいヒト菌』にかもされているからといってもありえないだろう。なんという無様さだ。
 ダブルはひといき笑うとナイフを床へ捨てた。
 コンクリートの床にナイフの金属音が響きわたる。
「いいぜ。もう好きにしろよ」
 ダブルは職人から身体を離す。
「お前の人生だ。お前の夢だ。オレがしばることはできない。しばるほどのしがらみがオレたちの間にあるわけでもないしな。自由にしろよ」
 ダブルは投げやりに床へ座り込んだ。全身がけだるかった。
 なにをやっているんだろうな。ダブルは深く息を吐き出す。こんなに必死になって汗だらけになって大声まで出して。ダブルは髪を乱したまま、天井に顔を向ける。首筋を汗が伝った。ひと筋ふた筋と流れていく。ダブルは目を閉じて呼吸をした。
 さらに姿勢を崩すと手に『水ようかん』が当たった。ダブルはゆっくりと目を開ける。
 ……まったく。振り回してくれたよな。迷惑きわまりない。ご丁寧に2万個体も送りつけやがって。いや、その倍数以上か。このオレが5週間もかけてつきあわされた。あきっぽくて納期など守ったことがなくてこだわることが大嫌いなこのオレが――なんとかしようと試みた。
 所詮、最初から勝負のわかっていたゲームだった。プレイヤーのつもりで動いていたものの、どうあがいてもコマのひとつでしかなかったわけだ。
 当たり前だな。オレは人間で相手は地球だ。
 歯が立つ相手ではない。
 職人だって歯が立たないだろうと高をくくっていた。相手にされないだろうと高をくくっていた。地球の気まぐれにも困ったものだ。こんなちっぽけな人間の思いのひとつやふたつ、放っておいてくれればよかったものを。それでも、地球は職人に応えた。職人の思いに応えた。職人の粘り勝ち、というやつか――。
 ダブルは『水ようかん』のひとつを手に取ると職人に差し出した。
「食えよ。夢なんだろう? こんなチャンスは滅多にない」
 職人が物憂げに身体を起こす。ダブルの差し出した『水ようかん』に顔を向ける。ぼんやりとした瞳だった。職人の蝶の髪飾りがトップライトに照らされて光っている。職人の輪郭がトップライトの光に拡散されておぼろげに見える。はかなげに見えた。ふわふわの髪などすでに透き通っているかのようだ。これが職人を見る最後か。
 どうしてだろう。こういうときに笑みが漏れる。どうしようもないから、笑みが漏れる。
「約束」
「ん?」
「約束してくれるよねっ」
 ダブルは怪訝な目を職人に向けた。
「『必ずアタシを看取って亡骸を地球に土葬する』。ウソじゃないよねっ」
 ダブルは姿勢を直して職人を見た。
「必ずだよっ」
 力強い声だった。なにかを決意しなおした職人の声だった。職人の瞳にも力強さが宿っている。ダブルは職人の目を見て答える。
「約束する」
 ダブルが返答した直後だ。
 コンクリートの床が発光した。
 ダブルと職人は思わず立ち上がる。
 コンクリートの床にあった『水ようかん』が発光していた。ダブルがナイフで砕いた『水ようかん』だ。その『水ようかん』が発光しながら宙に浮かび上がる。ソファに転がっていた『水ようかん』もコンクリートの床にあった『水ようかん』も部屋の隅に転がっていた『水ようかん』もすべてが発光して宙に浮かび泡のようにばらばらになった。光の泡だ。
「……いいのか」
 光の泡が職人を取り囲んだ。
「本当にこのチャンスを逃していいのか!」
 15年間も待ち望んでいたんだろう! オレごときの説得にやすやすと乗っていいのか。オレの脅しやすかしなんかに乗っていいのか。ダブルは続ける。お前の夢でお前の意思でお前の憧れだったんじゃないのか!
 光の泡の中で職人はこぶしをにぎった。
「ダブルくんが看取ってくれるんだよねっ」
「ああ」
「絶対だよねっ」
「ああ!」
「なら、いいよっ!」
 その瞬間だ。
 光の泡がはじけて消えた。
 まばゆいばかりの閃光の中で、職人が微笑んでいた。泣きながら微笑んでいた。職人の口元がちいさく動く。光の泡に向かって3文字の言葉を吐いた。
 ――またねっ――。

(最終話 へ続く)
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