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 え、とソラが目を丸くしてフロアBを見ていた。
「どういうこと? なにが起きてるの? ダブルっち、なにをやったのさ」
「ぼくはなにもやっていないよ。見てのとおりだ。フロアBの盆の周囲に『水ようかん』の成分を置いただけだ」
 ヘリウムが1週間かけてせっせと抽出した『水ようかん』の材料である『水』29200グラム、『小豆』3300グラム、『寒天』420グラム、『砂糖』6700グラムだ。それらをそれぞれ輪のように盆の周囲へ張り巡らした。菓子バームクーヘンの層の状態だ。バームクーヘンの中央の空間に盆がある。そのまま『デイジーワールド』の実験を最初から繰り返しただけだ。
 だけなのだが――。
 盆の上では白デイジーと黒デイジーが咲き乱れていた。太陽の温度をいくら上げても枯れる様子は見えない。
 フロアAの盆が赤い灼熱地獄になったところでようやく黒デイジーと白デイジーは枯れ果てた。
「なんで? どうして? 『水ようかん』を置いただけなんだよね。どうしてこんなに生物相の持続時間が違うの?」
「エヘヘ。ならねえ。こんどはこの『水』だけを除いてみるよ。さて、どうなるでしょうか」
 ダブルは水素とヘリウムとリチウムに合図を送った。『デイジーワールド』の実験が繰り返される。フロアBの盆の上にはデイジーの花がつぎつぎと咲いて――。  ええっ、とソラとタフがフロアBの盆に釘付けになった。いままでの実験の経過データを示したモニターとフロアBの盆をなんども見直している。
「どういうことだ?」
「どうなっちゃったの? 今度は最初の状態に戻ったよ? ダブルっち、なにをしたの?」
「『水』を除いただけだよ」
 水、とソラは目をしばたたく。
「そうか。『水』だね。キーワードは『水』なんだね。その『水』が生物相に影響を与えているわけ?」
「ソラっちは理解が早くて助かるねえ。少しはタフも見習ってくれ」
「なんだよ。特別な『水』だっていうのか?」
 ダブルは両手でタフの肩を叩いた。
 本当に、ようやく『水』に注目してくれたよ。なんどもなんどもぼくはタフに水が問題だと繰り返していたのにねえ。問題が山積みになると、どれが重要項目なのかさっぱりわからなくなるヤツの典型だな。
「タフにはなんどもいっているけど」
 とダブルは嫌味たっぷりに前置きしてソラを指さした。
「この『水』は3世紀前に存在した成分でできた『水』なんだよ。現存しない」
「だって目の前にあるじゃん」
「『水ようかん』から取り出したものだからね」
「現存しない『水』を『水ようかん』から取り出したの? それって現存するっていうんじゃないの? 実際に目の前にあるんだもん」
 そうきたか。ダブルが天井を仰いだときだ。
 ヘリウムがソラの前に出た。手に皿を持っている。
「これはさっきボクがラボで作った水ようかんです。カフェで手に入る材料を使って作りました。ソラさんがいうところの現存する水ようかんです」
「いつの間に。ぼくは頼んでいないよ?」
「係長がギャラリーを集めてくるといいましたからね。きっと必要になると思いまして、急遽つくりました。材料も配合も『水ようかん』と同じになっています」
 ダブルは両手を口に当てる。この状況を自ら予測して準備しただと? 『水ようかん』から『水』と『小豆』と『寒天』と『砂糖』を抽出するだけでも手間なのに。不眠不休で1週間の作業なのに。その上、1000個体分の通常の水ようかんまで用意したとは。なんて役に立つ子なんだ。役に立ちすぎだろう。
 ダブルは身震いさせて水素とリチウムに目を向けた。ヘリウムがこんなに役立っているときにあいつらはなにをしているんだ? 野次も相槌も聞こえないぞ? 
 水素はフロアAで、眼鏡がずり落ちるのも構わずに顔を引きつらせて合計3回の『デイジーワールド』の実験結果をパネルに入力していた。もっと複雑な状況が発生したフロアB担当のリチウムは髪の毛を逆立て、頭から湯気が出る勢いで実験結果の入力をしている。白衣が肩からずり落ちるのもいとわず、これとあれはそれだからと、指示語だらけの言葉をつぶやきつつパネルに指を走らせていた。なるほど。これではとてもタフとソラを気遣う余裕がないわけだ。
 ……まあこいつらは『ガイア理論』すら知らなかったんだからな。当然の反応といえなくもないか。リチウムくんが頑張って2万個体の測定データを解析やり終わっただけでもすばらしいとしようかねえ。結局3週間かかったとはいえ、いつもの10倍くらいの速度で仕上げたのだからな。いつもがサボりすぎなんだよ。ひとのことがいえるか。えぇ。ぼくはやるときはやるよ? 
「この水ようかんはあえて材料ではなく、製品としてつくりました。比較しやすいようにです。視覚的に理解もしやすいですしね」
 ではやってみましょう、とヘリウムは水素とリチウムをうながした。水素とリチウムは「待って待って」とヘリウムに哀願する。ヘリウムは無言でコンテナを担ぐと、自分ひとりで準備を始めた。『水ようかん』の『小豆』と『寒天』と『砂糖』を片付けて、実験用タオルで作業台をきれいに拭き取り、1000個体の水ようかんをフロアBの盆の周囲へぐるりと配置した。リチウムははわわわと手を動かしている。いいですか、とヘリウムは水素とリチウムに冷たい声を出して太陽役に戻っていった。
 職人がヘリウムの脇で無言で目を輝かせていた。
 アンダーラボに入って以来、職人はひと言も発していない。そのくせ、人一倍好奇心に満ちた瞳をしている。神の視線。それに近い。太陽役の照明が職人の蝶の髪飾りをきらりと光らせている。蝶の髪飾りだけが、職人をかろうじて人間に留めているかのようだ。
 ヘリウムの作った水ようかんをフロアBの盆のまわりに配置した『デイジーワールド』実験が始まった。
 黒デイジーが花をつけ、白デイジーが繁殖し、白デイジーと黒デイジーが増えたり減ったりして温度を一定に保たせて、そして白デイジーも黒デイジーもつぎつぎと枯れていった。盆の中の惑星は死の灼熱惑星へと変わっていった。
 ソラが測定数値のモニターを眺める。最初の実験数値からヘリウム手作り水ようかんを使った実験数値までを見比べる。
「ヘリウムくんが作った水ようかんの数値は最初の実験の数値とまったく同じだよ。まったく、ってすごいよ。誤差もない。なにこれ。これってそんなすごい精密な実験だったの?」
「褒めるところがそこ?」
「つまりヘリウムの水ようかんがあってもなくても、実験には関係しないってことか」
「タフがまとめてくれるなんて珍しい。そのとおりだよ。タフの見間違いじゃないよ。数字だってちゃんと語っている。数字も含めてこの人数が全員、幻覚を見るなんてことはありえない」
「だから――やっぱり『デイジーワールド』に影響をおよぼしているのは『水ようかん』の『水』だってこと?」
「まだ信じられない?」
「信じたくない、かな。『水』がここのカフェで手に入る水とは違うってことはわかる。特別な水だってこともわかる。だけど、3世紀前の現存しない水? なにそれ。どうしてそんなものが目の前にあるのさ」
「3世紀前の『水』だというのも数値の結果だからね。オレが数字をいじくってどうにかできるしろものじゃない。でっちあげじゃないよ」
 そんなものが目の前にあるんだ、とソラがうめく。さすがのタフも渋い顔をしていた。理屈をこねられれば「わからんわ」とはねつけることもできる。肉眼で見れば否定はできない。理解はできなくても受け入れざるを得ない。
「せっかくですからフロアAでも試してみます」
 正確なデータは必要ですから、とヘリウムはヘリウム特製水ようかんをフロアAの盆の周囲へぐるりと配置した。水素を鼓舞して『デイジーワールド』実験を開始する。なにも起こらない。生物のいないフロアAの盆は太陽の気温上昇とともに惑星の気温が上昇するのみだ。
「念のために」
 とヘリウムは『水ようかん』の『水』と『小豆』と『寒天』と『砂糖』をフロアAの盆の周囲へドーナツ状態に層状に配置した。さらに水素を鼓舞して『デイジーワールド』の実験を開始する。水素は目を真っ赤にする。
「お前、しつこいんだよ。なんだよ。その淡々とした作業振りは。淡白な顔をして実は粘着質でしたみたいな。もういいじゃねえかよ。いつまで続ける気だよ。どんだけ実験したいんだよ」
「科学者らしからぬ発言は控えてください。より正確で信憑性があって納得がいくデータを取るのは当然のことです」
 ヘリウムは、まったくなにをいい出すことやら、まだまだ実験したいくらいだ、という口調だ。
「やるならひとりでやってくれよ。俺らを巻き込むんじゃねえよ」
「残念ながら、ひとりではできない実験ですし、いい出したのは係長です」
「……くそう」
「実験が終わったら、このボクが作った1000個の水ようかんを召し上がってもいいですよ。結構自信作なんです」
「マジでか。いくつでもいいのか?」
「どうぞ」
 ――水素の機嫌はみるみる直っていく。
 いい争ううちにも実験は進む。『水ようかん』を配置した状況でも生物がいないフロアAの盆では太陽の気温が上昇するにしたがって、盆の気温、すなわち惑星の気温が上昇を続けるだけだった。
 フロアAでは、どんなものを周囲に配置しても、最初から最後までどんな実験でも結果に変化はみられなかった。
 ソラがフロアAの盆を見下ろした。
「生物がいないと『水ようかん』があっても惑星に変化は起きないってことだね」
 で、とソラは一拍あける。
「ダブルっちはこの実験で『水ようかん』が『ガイア理論』を主張するために発生したって言いたいの?」
「違うよ。ぼくの仮説が正しいってことを証明したかったのさ」
「仮説?」
「うん。そう。もうすっかり忘れられちゃったかもしれないけどね。『水ようかん』は単なる和菓子じゃなくて地球からのメッセージじゃないか、っていうヤツ」
 タフが膝を打つ。おお、そんなことをいっていたな、と破顔する。
 ……こいつ。本当に忘れていたのか。もとはといえば、こいつの頭の回転が悪いからオレの手間が増えているんじゃないのか? こいつさえもっと理解が早ければ。こいつさえ2万個体も検体を持ち帰らなければ。こいつさえ『水ようかん』のことを黙っていてくれれば職人とのことだってこんなに苦労せずにすんだのに。
 うぬう、とダブルはタフに飛び掛った。膝蹴り様に強力精神活性剤と強力痛覚鋭敏剤と強力思考明確化誘導剤を投与しようとした。
 致死量だ。
 それを空中でヘリウムがダブルを羽交い絞めにした。ダブルが小柄だったのがヘリウムに動きを追いつかせるという裏目に出たらしい。
「測定結果がまだすべて計算が終わっていませんから。パネルに埃が入ります」
 終わったらなにをしても構いませんから、と筋肉増量剤を自ら投与したとおぼしきヘリウムはそっとダブルを床へ戻した。

(5 へ続く)

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