3

 ほの暗いアンダーラボの中には2つの作業台が左右に配置してあった。
 らせん階段を降りてガラスドアをくぐった先に、フロアを占領するかたちで2つの作業台が並んでいる。あるのは作業台だけだ。壁面装置も検体の入ったコンテナもゴミもメモもなにもない。床と壁と天井が一面白色にコーティングされているので、なおさら簡素感を引き立てていた。
「ほわあ。あの小汚いラボの下がこんなふうになっているなんて思いもよらなかったな」
 ソラが高い天井を見上げて口を開けていた。タフも呆けた顔でラボの中を見回している。職人は大きな目を輝かせて早くもヘリウムの隣りに陣取っていた。
 ヘリウムは2つの作業台の間に立って照明の調節をしていた。2つの作業台へ均等に光が当たるよう、光の角度と光の強度を操作している。
 水素は右側の作業台、リチウムは左側の作業台にへばりついている。へばりついて険しい眼差しでパネルを操作していた。
「便宜上、右側の作業台をフロアA、左側の作業台をフロアBと呼ぼう。それぞれに盆が置いてある。さて問題です。この盆の中には何が入っているでしょう」
「砂か?」
「惜しい。土なんだよ。フロアAの盆とフロアBの盆にはまったく同じ土が入っています」
「フロアBからはなにか出ているよ? 芽?」
「正解。花の芽だよ。急速発芽用の種の芽だ。何週間もみんなで盆を見守っているわけにはいかないもんね。というより、ぼくが来るまで発芽させるのを待ってくれていてもいいのに」
 ダブルは恨みがましい眼差しをヘリウムに向ける。ヘリウムは「係長がまさかカフェまで行かれるとは思っていませんでしたから」と濁った目で返した。それをいわれてはダブルも反論できない。ぼくだってまさかカフェまで行く羽目になるとは思ってもみなかったよ。あれで修羅場になっていたら確実に実験は終わっていたな。うんうん。
「フロアAからはなにも出ていないぞ? そもそもヘリウムはなにをやっているんだ?」
 ダブルはふふんと鼻を鳴らす。
「この状況を見てもまださっぱりわからないとはナイスリアクションだよ、タフ。これはね。仮想惑星生物相の実験なんだよ」
「は?」
「つまり。2つの作業台の上の盆は、それぞれ惑星の状態を表しているんだ。惑星に光を当てているヘリウムはさしずめ太陽の役だ」
「おお」
「太陽は2つの惑星を均一に照らしているから、環境的にはおなじなんだよ」
「なるほど」
「フロアAにはなんの種も植えていないよ。生物のいない場合の惑星だね。フロアBにはデイジーの種が植えてある」
「だからデイジーワールドか」
 正解、とダブルは拍手する。
「それも2種類のデイジーの種だよ。白デイジーと黒デイジーだ。白デイジーは光を反射する性質があるんだ。黒デイジーは光を吸収する性質がある。つまり太陽の光の熱を保持する性質だよ。ここまではいいか? ついてきているか? タフ」
「あ、ああ」
 ダブルが話している間もフロアBからはつぎつぎと発芽をしてやがて黒い花を咲かせた。
 ソラがフロアBの盆を指さす。
「白い花がひとつもないね」
「まだ気温が低いからね。ではヘリウムくん、気温の上昇をよろしくお願いします。おっとみんな盆に影を作らないように気をつけてね。データの取り直しでヘリウムが泣くぞ」
 律儀にタフが姿勢を正す。水素はフロアAの、リチウムはフロアBのデータ収集に顔を引きつらせている。その間をソラが顔をきょろきょろと動かして見比べていた。
「フロアA、均等に気温上昇中っす」
「フロアB、気温急上昇しましたよ」
「へえ。フロアBは黒デイジーでいっぱいだね。そうか。黒デイジーは熱を蓄えるんだっけ。だから気温も急上昇したんだね。フロアAはなにも植えてないから気温の上昇率は変わらないんだ」
 職人の大きな瞳がさらに輝く。ひと言も発せずフロアBに見入っている。フロアAには見向きもしない。職人にとって生物のいない惑星などなんの価値もないのだろう。
「気温をさらに上昇、お願いします」
「あ。白いデイジーが咲いたよ。わ。どんどん広がっていく。すごいね。黒デイジーとおなじくらい白デイジーが咲いているよ」
 ……すばらしい。ソラをつれてきてよかった。ダブルはしみじみと感じ入る。ここまで解説をしてくれるとは。なんて便利なんだソラっち。
「はい。どんどん気温を上げてください」
「フロアA、変わらず均等に気温上昇中っす」
「フロアB、気温の上昇がほぼ停止しましたね」
 え、とソラはリチウムに顔を向けてからフロアBに視線を戻した。
「白デイジーが増えてる。そうか。白デイジーは光を反射させるんだ。だから太陽の光が強くなっても気温は上昇しないんだね」
「フロアB、気温下降」
「今度は黒デイジーが増えてる」
「フロアB、気温下降停止しましたよ」
「わかった。これって、『気温の恒常性』ってやつだね!」
 さすがソラっち。情報調査部のルーキーと謳われているだけのことはある。それに引き換えタフはあんぐりと口を開けたままだ。開けたままならまだしも目をぱちくりさせている。目をぱちくりさせているだけならまだしも、ソラに質問を始めた。プライドがないのか、先輩としてのプライドは。
「え? 『気温の恒常性』? ほら、白デイジーは光を反射するでしょ? だから白デイジーが増えると気温が下がるんだよ。で、下がりすぎると今度は黒デイジーが増える。そうすると熱が蓄えられるから気温が上がるってわけ。気温が一定に保たれるでしょ? こういうのを『気温の恒常性』っていうんだよ」
 研修のとき習ったでしょ、とソラは明るくダメ押しをする。さすがのタフもソラ相手に「役に立たん情報は忘れた」とは口にしなかった。おとなしく身を縮めている。なんだよ、ぼくのときには逆切れするくせに。
「……はい。さらに気温を上昇させてくださいな」
「あ。黒デイジーと白デイジーがどんどん枯れていく。うわ。はやい。……全滅だよ」
「フロアA、変わらず気温上昇中っす。きれいな直線を描いて時間とともに上昇してます」
「フロアBも気温上昇を続けていますね。どんどん上昇していきますよ。フロアAとの気温に重なりました」
「はい。終了」
 ダブルはぱんぱんと手を叩いた。
 職人は悲しげな眼差しで死滅したデイジーを眺めていた。できることなら助けてあげたかったよっ、とでもいいたげだ。
 これが人間だったなら無反応だろうに。職人はどんなときでも人間以外の生物の味方だからな。そうか。だから職人はラボで人間以外の生物を使った実験をしないんだな。量産装置に情熱を注いでいるのもその為だったのかもしれないね。徹底しているな。怖いくらいだよね。ぼくなんかGPSを体内に装着されちゃってんだよ? まあぼくも職人の体内にGPSを仕込んだ口だけどさ。不毛な関係だな。あらためて思うと虚しいねえ。
「動いてもいいか?」
「どうぞ。とまあ、これが『デイジーワールド』の実験だ」
「なかなか面白かった。だが、これと『水ようかん』とどう関係があるんだ?」
「『デイジーワールド』はね。ガイア理論は合目的論では『ない』ことを提示する論証なんだよ。ガイア理論が出た当時はそりゃあばんばん叩かれたからね。その反論だ」
「ん~ん? 理解できる言語で話してくれ」
 あれ? タフってヘリウムくんがガイア理論の紙芝居をやっていたとき、いなかったんだっけ? 面倒臭い男だな。なんで二度手間になるかな。仕方がないだろう。コイツが理解しないと報告書にサインをしてもらえないぞ。ちっ、とダブルは舌打ちをする。
 するとダブルの後ろからタフの前へ人影が踊り出た。
「それではこれをご覧ください」
 ヘリウムだ。手には例の紙芝居を持っている。
「ちょっとヘリウムくん、太陽の役は?」
 と振り向くと、職人が頬を染めて太陽の代役を引き受けていた。代役といってもまだ次の実験へ移っていないので、操作を初期状態に戻し、データ回収を継続させているだけだ。
 だよね、とダブルは小さく息をついた。職人は今回の実験を『見学』がしたかったはずだ。けして参加したかったわけではない、はずだ。参加できないくらいだ。成り行きをすべてダブルに任せ、傍観者を決め込んでいるはずなら、参加するわけがないのだ。そうしてくれないと、ぼくだって推理が異なってきちゃうよ。なんのためにこんな七面倒臭いことをやっているんだよ。
 ダブルが職人を見ているあいだにヘリウムはすらすらと紙芝居を進めていた。ヘリウムの紙芝居にタフだけでなくソラも釘付けになっている。
「するとなにか? 『ガイア理論』っていうのは人間は人間、地球は地球と別物じゃなくて、地球をひとつにひっくるめて、まるで地球に意思があるかのように『地球そのものが巨大な生命体だ』っていうのか? そいつはすごい説だな」
「ガイア理論は理論ですから、そこまで明言してはいません。もちろん『こんなの科学じゃない』と大反発が発表当時に起こりました。『デイジーワールド』は、『ガイア理論』はちゃんと科学的根拠に基づく理論だ、ということを証明した実験といえます」
「……どこが?」
「んもー、タフってば。ちゃんと見ていたでしょ。デイジーの種が植わっていたエリアBは太陽の気温がどれだけ上がっても植物自体が温度調節を行って惑星の温度を管理していたんだよ。植物は植物、惑星は惑星って個別に生育していたわけじゃないよ。相互関係が働いていたんだよ」
 ソラは青い瞳を輝かせていた。すごいねえ、と鼻息まで荒くなっている。
 厳密にいえば、あの実験だけでそこまでいい切るのは非常に危険だ。『デイジーワールド』の反論もばんばん出ていた。ここでそれをいえば返ってこいつらは混乱するだろうな。ぼくは別に厳密な『デイジーワールド』実験を行いたいわけじゃないし。『水ようかん』っていう突拍子もない現象が、地球と関係があることを科学的に証明したいだけだからね。
 だけどな、とタフが眉を曇らせた。
「『地球そのものが巨大な生命体だ』っていうことは納得できるが、それがどうして『水ようかん』と関係するんだ」
「はいはい。せっかちにならない。まずは『ガイア理論』とはなにかを見てもらったんだからね。タフでも理解できただろう?」
 ダブルはふふんと鼻で笑う。
「では次なる実験を行うよ。ご要望の『水ようかん』の登場だ」

(4 へ続く)

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