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 魚影が見えた。
 大きい。
 職人の乗っている船より大きいのではないかと思えるほどの大きさだ。クジラ? それもシロナガスクジラ? 職人は身を乗り出してシロナガスクジラを見た。シロナガスクジラはゆったりと船の下部で停滞していた。海上へのぼってくる気配はない。
 とっさに職人は周囲を見渡した。
 だれもシロナガスクジラに気づいていないようだ。いかに意気消沈していたとしても、船と同じサイズのシロナガスクジラが船の下にいたら騒ぎが起きるだろう。  どうしてかなっ? ほかのひとには見えないのかなっ? 
 幻覚、という言葉が浮かんだ。職人は目をこする。どれだけこすっても魚影は消えなかった。船の真下にシロナガスクジラはいた。見間違いではない。
 クルーに知らせるべきか、とは思わなかった。シロナガスクジラは人間を捕食することはないからでもあるが、それだけではなかった。
 職人の身体が硬直するようなできごとが起きたからだ。
 ――歌ってるっ? ――
 文字どおり職人は耳を疑った。
 クジラはエコーロケーションという超音波を使う。獲物を捕らえたり、クジラどうしで会話をしているともいわれている。ただし超音波だ。海中にいてもなかなか聞くことはできない。それを船のはるか下にいると思われるシロナガスクジラのエコーロケーションを、船の甲板にいる自分が聞きわけられるわけがない。
 おかしい、と思ったときには、職人の視界が海の中へと転じた。
 甲板から落ちたのかと思った。そのわりには息苦しくはない。なにが起きているのかわからないまま、職人は周囲の光景に目を見張った。魚の群れがいた。その魚が次第に大きくなっていく。やがてプランクトンが見え出した。遊泳生物や底生生物が雪のように職人の周囲を取り巻いていく。雪だったプランクトンがはっきりとクラゲの形をとるようになり、静かだと思っていた海の中はどんどんにぎやかになっていく。そこかしこをカイアシ類のプランクトンが飛び回り、エビやカニの幼生が合間をぬってすすんでいく。
 職人はプランクトンの合間を両手を広げて漂っていた。動くことはできない。ただ見つめるだけだ。目を見張って見つめ続けていた。
 不意に海の温度が上がったと思ったら、職人の目の前を巨大な生物が横切った。クビナガリュウか? その横を巨大なイカが通り過ぎる。シーラカンスが職人の背後から現れて、職人にあいさつをするかのごとく職人の周りをぐるりとまわって去っていく。足元のサンゴの形も変化していた。こんもりとした株ではなく、穴だらけのクサリサンゴだ。ウミユリが潮に揺れてオウムガイが海底をそろそろと進んでいく。
 緑色の椅子の集団、ストロマトライトが現れたときには、もう不思議とは思わなくなっていた。ストロマトライトは表面からさかんに泡を出している。酸素だ。無数の泡の列が海面に向かって伸びていく。そして海は暗くなりだした。生物の種類もどんどん減っていく。見えるのはバクテリアくらいだ。
 そのバクテリアもいなくなり、光が差し込んでいた海も真っ暗になる。いつしか海水は蒸発し、職人は宙に浮いていた。空は真っ黒の雲が覆っている。その中をひっきりなしに稲妻が走っていた。黄色や紫色の稲妻だ。雷の音も鳴り響いている。地上には海水はなく、赤黒いマグマの海が広がっていた。
 原始の地球だ。
 このまま宇宙へ放りだされるのかと思ったが、稲妻が光る真っ暗な空から熱湯の雨が降り出した。どしゃぶりの雨だ。地上はあっという間に冷やされマグマの海を冷やしていった。最初は1ヵ所に、やがてそこかしこに水溜りができていく。雨は降り止まず、低い土地に雨水が溜まり始めた。それでも雨は止まない。
 雨はもうもうと水蒸気を上げながら降り続けた。真っ暗な空から稲妻とともに雨は降り続ける。延々と降り続ける。300度の熱い雨だ。高温と高圧が生み出した300度の雨だ。低い土地から雨はあふれてあちこちへと雨水はひろがり、やがて大洪水になって地表を覆った。
 海だ。
 海がたっぷりと地表をおおうと、ようやく雨は降り止んだ。空には分厚い雲だ。真っ暗な空のした、海がたぷりたぷりと地表をおおっている。いつしか雷は止んでいた。稲妻も見えない。静かだ。違う、と職人は宙に浮かびながら海面を見た。大気中の二酸化炭素がすさまじい勢いで海に吸収されていた。海の温度が高いから吸収できるのだ。
 そして雲が切れた。
 切れ目から光が差した。太陽の光だ。まぶしい。
 海の中では単細胞生物が生まれていた。たったひとつの細胞でできていて、細胞核を持たない、もっとも単純な生き物だ。だけど――と職人は指先を見る。自分の身体はこの単細胞生物をもとにしてできている。単細胞生物が生まれなかったら自分は生まれなかった。たったひとつの細胞なのに。
 猛スピードで職人のまわりの光景が変わっていく。海ではストロマトライトが生まれて、アンモナイトが動き回り、シーラカンスが群れをなし、恐竜たちが巨体を動かし泳いでいった。地上では恐竜に変わって哺乳類が歩き回り、木々が地をおおった。うっとりとするくらいの密林だ。見上げるほど大きくて青々とした木々がどこまでも広がっている。
 唐突に職人は宙へ放り出される。幾重も幾重も雲をつきぬけ空をのぼっていく。冷たい風が頬をなでる。それが止むと身体がふわふわと浮いた。
 職人は目をしばたたく。職人は宇宙と地球のはざまにいた。
 眼下に青い海と茶色の陸地、その上空に浮かぶ白い雲が見えた。地平線上に青い大気の層がうっすらと見える。地球の青さにもびっくりしたが、陸地の茶色さにびっくりする。あそこに数え切れないほどの動物や植物がある。それを思うと頭の中がいっぱいでくらくらした。
 なにより、地平線上に光っている、青い大気の層。あれが海と陸地の生き物たちを守っているんだ。温かい地球を守っている。
 真っ暗な宇宙で地球は青く光っていた。地球そのものが脈を打っていた。地球がひとつの生命体で、地球の記憶は自分の記憶で、自分の記憶は地球の記憶で――。
 ――リトルドクター――。
 再度、父親の声がした。やわらかく温かい声だ。母親の声も重なる。地球から聞こえた。地球自体から聞こえた。それで職人は納得した。
 ――お父さんとお母さん、地球とひとつになっちゃった――。
 職人は笑みを浮かべる。なぁんだ。そうかぁ。なら、よかったのかなぁ。
 アタシもいつか地球とひとつになりたいなぁ。なれるかなぁ。どうかなぁ。どうやったらなれるんだろう。そのあいだもずっと、父親と母親が職人を呼びかける声が聞こえていた。
 ――リトルドクター――。
 うん、と職人は返事をする。泣きながら職人は返事を続けた。
 気がつくと、職人は船の中の医務室で横になっていた。
 甲板でひっくり返ったという。
 医者の見立ては、炎天下の中の日射病と、心因的ストレスだ。一般的にみれば、当然の見解だろう。いちどに両親をなくしたのだ。ショックを受けないほうがおかしい。その現場にひとり立ち続ける11歳の子どもはさぞかし健気に映っただろう。いつ倒れるかとはらはら見守っていたクルーも少なくないはずだ。
「ショックだったよね。えらかったね」
 という医師に職人は首を振った。なにもいえなかった。首を振る職人に医師は訳知り顔で肩を叩いた。
 研究所に戻った職人は専門分野を変えた。
 宇宙工学から地球システム工学だ。宇宙から地球への変更だ。
 大規模な視野で地球を研究するには地上にいるより月面のほうが都合がいいだろう、と月面の研究機関にエントリーを始めたころだ。
 エントリー完了メールが届くより早く、職人の前にRWMの会長が姿を現した。
 白いスーツを着て白い中折れ帽子をかぶった長髪の金髪の年齢不詳の人物だ。
 会長が発したのはひと言だけだった。
「うちに来なさい」
 それっきり黙って微笑んだ。
 どれくらい職人は会長を見つめていただろう。
「よろしくお願いしますっ」
 職人は会長の差し出した契約書にサインをした。
 いまから15年前の話だ。



 職人の部屋の岬の画像に圧倒されつつ、職人の長い身の上話を聞いてダブルは首をかしげた。
「地球システム工学がやりたかったんでしょ? なんで量産装置係の係長なんてやってんのさ」
「だってあんまり納品の装置がザツなんだもんっ。エンジニアの娘で工学博士の腕がうずいちゃったんだよっ」
 大丈夫っ、と職人はモニターの色に染まったソファの上で飛び跳ねた。
「ちゃんと地球測地学もやっているからっ」
「いつ」
「カフェで地球を見ているときっ。この両目にしこんだセンサーで毎回測定をしているんだよっ」
 なんと、職人はただ嬉しげに地球を眺めていたのではなかったのか、とダブルは呆れた。しかもさらりと『両目にセンサーを装着している』といってのけた。まあ、この無邪気さがあったからこそ、14年前にオレがカフェで大暴れしたときも職人は動じることなくオレにマシュマロ入りココアを差し出したんだろうがな。
「それでいまでも職人の夢は『地球とひとつになること』なわけ?」
「当たり前だよっ」
 職人がダブルの頬を両手で挟んだ。
「その方法をさぐるために、アタシは月くんだりまで来ているんだからっ」
 14、5歳の容姿の職人が、一瞬、実年齢の眼差しになる。ならば、とダブルも実年齢の眼差しを返して職人の顎を右手でつかんだ。
「月面に拉致されているぼくとは大違いだねえ。その気になれば、職人はいつだって地球に戻れるってわけだな」
「ダブルくんと違ってパイロットのライセンスはもともと持っていたからねっ。資格っていうのはいざというときに使えるように取得するもんなんだよっ」
 11歳にしてひとり立ちをした女子のいうことはたくましい。抱き寄せようとしたダブルの腕からするりと逃げて、職人はリビングの真ん中に立つ。
「こうしてねっ。両手を広げて目を閉じると、15年前に感じた岬の感覚がよみがえるんだよっ。海で見たストロマトライトとか瞼に浮かんで、シロナガスクジラのエコーロケーションが耳に響くのっ」
 いつもいつも夢を見るのっ。このまま溶けて地球とひとつになれたらなぁって。いつになったらひとつになれるのかなぁって。ずっとずっと待っているのっ。職人はうっとりとつぶやいた。
 大変だな。ダブルは肩をすくめる。そうか? 光栄なことじゃないか。ライバルが人間ではなく地球だなんて滅多にあることじゃないぞ。エヘヘ。そうなんだけどね。ダブルはソファにひとり座ってウイスキーを口に運んだ。やっぱり大変だよ。相手が地球っていうのはさ。だってホラ、なんていうの? 厄介事が待っている予感しかしないじゃん。まったくだな。
 ダブルはウイスキーを飲み干す。まあね。地球だろうとなんだろうと、全力で相手にするけどね。手は抜かないがな。うん。しょうがないもんね。
 ――ダブルくんだって地球が好きでしょっ――。
 職人の声がよみがえるものの、ダブルはにやりと笑う。それとこれとは別問題だ。
 リビングの中央でくるくると回る職人の髪飾りが、モニターの映像の光をうけてきらりと輝いた。

(5 へ続く)

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