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 職人は典型的な学園都市で生まれた。
 ひとつの島が丸ごと学園都市になった、学園都市だ。
 島の規模は1周するのに、時速60キロで走行するエアフローカーで2日程度かかる大きさだ。実際にはバイパスがあちらこちらにかかっているので東端から西端までは3時間もあれば移動可能だ。民間仕様の小型ジェット機ならば20分というところか。
 学園都市なので見渡す限り校舎ばかりだ。
 白い柱状の校舎が主体だ。内部の気温を一定にするために、窓がひとつもない建物もあった。中には新進建築デザイナーの設計による、機能性とはかけはなれた建物もある。曲線を多用し、色彩も鮮やかだ。水色にピンク色、こげ茶色にオレンジ色が目にまぶしい。遊び心を生かした門もあちこちにあった。
 その校舎のあいま合間に緑地がある。
 公園ではない。実験農場や、演習林、演習植物園だ。島まるごと学園都市とはいっても、島が平面であるわけではない。地形を生かした研究施設が随所にあった。  工業地帯や繁華街がなく、道を通り過ぎるのは学生や研究者ばかりという浮世離れした島だった。島の周囲はサンゴ礁が取り巻き、島の上空は澄み渡る青空が広がっていた。
 400キロ離れた隣の半島で戦争が勃発したとしても、この島では平然と研究が続けられていただろう。住民は総じて噂話に無関心だ。関心があるのは、いかに自分の研究を昇華させるか。そのために住民はこの島を選択して暮らしている。浮世がどうなっていようと関係はなかった。
 北米の東海岸で大規模なハリケーンが上陸して数百万人の被害者を出したときでさえ、話題にすら上らなかった。知らないわけではない。ニュースは耳にしている。耳には入るが、こころには入らない。そういう連中ばかりが暮らす島だった。
 つまり職人は、他人との理不尽ないざこざや、雑多な人々との交わりや、その土地土地のしきたりや、科学的根拠のない習慣から、まったく切り離されて育った。
 職人の周りにあったのは、学術的探究心を満たすあらゆる道具にサンゴ礁の海、そして青い空だけだった。



 職人の父親はエンジニア、母親は海洋学者だった。
 職人も生まれたときから知能検査を受け、2歳から英才教育を始め、10歳で博士号を取得した。専門は機械工学だ。
 新型ロケットエンジンの設計を専門としていた。ロケットの打ち上げ用途に応じて使う部材を交換でき、段階的にカラになったタンクを切り離す『モジュラーロケット』の応用だ。取得した特許は10歳の段階で3桁を越えて、特許だけでもひとりで食べていくには不自由ない収入を得ていた。
 それでも5、6歳の職人はそれなりに子どもらしい無邪気な面もあり、両親と休みが重なった日にはサンドイッチをカゴに詰めて演習植物園へと向かった。
 演習植物園には剪定された街路樹とは異なり、枝をのびのびと伸ばした大樹が何十本とはえていた。針葉樹のドイツトウヒやハルニレ、イタヤカエデ、ミズナラ、ヤチダモ、ハンノキ、オニグルミ、ドロノキなど多種多様の植物が植わっている。
 職人はハンカチノキの下にシートを敷いて寝転がるのが好きだった。「行儀が悪いわよ」と母親にたしなめられながら寝転がったままで母親特製のジャムサンドイッチを頬張る。父親はビールを傾け、母親は赤ワインのコルクを抜く。そういう時間が職人はとても愛しかった。視線の先には芝生が広がり、リスが走り去っていく。風がハンカチノキの枝を揺らして、職人のふわふわの長い髪を揺らした。こんなふうに時間はずっと続いていくものだと、職人は思っていた。
 ハンカチノキの次に職人が大好きだったのが、研究所の自分の部屋から見える岬の光景だった。
 石灰質の土地の上を生い茂る背の低い緑色の葉が風に揺れ、その先に海と空が一緒になったような青色が広がる光景だ。報告書を片手に横を見ると、いつも岬の光景があった。砂糖がたっぷり入ったカフェオレを片手に外を見るとどこまでも広がる海が見えた。雨の日も風の日も、新しいロケットエンジンシステムのアイデアがわいた日も、パーツの直径に決め手が欠けて計画が中断した日も、窓の外には岬があった。岬を見て、職人は顔をあげる。顔をあげて、白衣の袖をまくるのだ。
 職人が11歳のときだ。
 両親がそろって調査にでかけた。
 大型船での調査だった。航行先は太平洋全域。その要所要所のサンプリング地点で母親は海水の採集を行い、父親は母親が採集した試料を船上で分析するための装置のメンテナンスや自分の開発した装置の海中での試作運転に明け暮れる、そういう実習航海だった。
 各国の研究者や技術者が50人以上乗り合わせ、船上でも実験を行い、24時間試料採集が可能で、専用のシェフや医師まで乗船する、3ヵ月がかりの大掛かりな調査だった。
 これまでもなんどか職人はひとりで留守番をした。今回が特別だったわけではない。
 両親そろって同じ船に乗ることは珍しかったものの、初めての体験ではなかった。
 もともと両親と同じ学園都市にいるときでさえ、互いに顔を合わせるのは朝食だけという忙しさだ。くわえて、誰かが学会やら調査やら会議やらで出張すると、3人そろって食卓につくこともないほどの家庭だった。
 母親も元来、家事をすることはなかった。
 家事は3人共通の所属機関の福利厚生部門スタッフがこなしてくれていた。
 三度の食事の支度から、掃除に洗濯、クリーニング、ベッドメーキングまで、至れり尽くせりの日々だ。母親が料理をするのは気が向いたときだけだ。ピクニックにいくときとか、論文に煮詰まって気分転換などだ。
「料理ってレシピどおりにつくればいいから没頭できるわよね。頭を使わなくていいもん。ストレス解消になるわ」
 と3人でどうやって食べるのかと思えるほど大量のチキンのトマト煮込み料理を寸胴鍋いっぱいに作ったりもした。
「母さんの作る料理は『男の料理』ってかんじだな。リトルドクター」
 父親は職人のことを職人が博士号を取得してから『リトルドクター』と呼んでいた。
「バリエーションは福利厚生部門スタッフにはかなわない。だけど母さんの料理は福利厚生部門スタッフが作れない味わいがある。秘訣はなんだと思う? リトルドクター」
 ゆったりと指をふり、父親はたっぷりともったいをつける。そして、答えは愛情だよ、と職人の頭を撫でるのだ。
 美味しくできたかな、美味しいと思ってもらえるかな、食べて元気になれますように、そういう母親の思いが豪快なチキンのトマト煮込みにまろやかな味わいを加える。
「自分の作った料理を誰かが食べてくれる。食べて欲しいと思った相手が食べてくれる。それはとても幸せなことだと思わないかい? リトルドクター」
「うんっ」
「今度は父さんが作るからな。楽しみしていてくれたまえ。母さんを超える『男の料理』を作って見せよう。だからいまはこのみたらし団子のお土産で勘弁しておくれ」
 今度の航海が終わったら、お父さん、ご飯を作ってくれるかなっ? それともまたお土産にみたらし団子を買って来てくれるかなっ? あれ美味しかったなっ。
 職人の研究は両親不在の間も忙しく、帰宅するのは連日深夜に及んだ。福利厚生部門スタッフが作っておいてくれた夕飯を温めなおし、すでに湯が張ってあった風呂に入り、ふわふわの布団に入るとあっという間に1日が終わった。
 淋しい、とは思わなかった。
 両親には両親の仕事がある。
 自分にも自分の仕事がある。
 お互いに尊重して生活を送っている充実感を、朝陽を浴びるたびに感じたほどだ。
 そんなふうに何事もなく職人が研究所で白いつなぎを着てヘルメットをかぶり、ロケットの組み立て作業に立ち合っていたときだ。
 両親の訃報が届いた。
「え」
「太平洋マーシャル諸島の東およそ460キロメートル沖合いにて、船内から爆発が発生。おそらく引火性試薬が発火したものと予想。船尾から浸水。爆発は船全体に広がり、10分後に爆発炎上、のち沈没。救命カプセルも融解するほどの高温だった模様。生存者はゼロ――だそうです」
 福利厚生部門スタッフは気の毒そうな顔をする。
 お父さんとお母さんが死んだ?
 にわかに信じられなかった。
 信じられないまま、職人は1週間分の仕事をこなして休暇を取り、遺族が乗り合わせて現場に向かうという大型船に乗り込んだ。ジェット機組もあったが、ジェット機だと空中から花を海に投げ入れることしかできない。職人はじっくりと両親が眠る海を見たかった。
 海は吸い込まれそうにどこまでも青く、両親を飲み込んだとはとても思えないほど凪いでいた。職人はひとり、甲板で海を眺めた。11歳の子どもがひとりで乗り込んでいるのだ。当然のようになん人かの大人が職人に声をかけた。
 風邪を引くよ。目的地到着まではまだ時間があるから中に入っていなさい。食事はとったのかい? 食欲がないのはわしらも同じだ。それでもいまは無理にでも食べておこうじゃないか。一緒に食おう。お嬢ちゃん、身寄りはほかにいないのかい? ほかの大人はどうしたんだい? 
 どの問いにも職人は首を振り続けた。声が出なかった。身寄りは聞いたことがなかった。興味がなかったからだ。両親がいて、好きなだけ自分の研究ができる。それだけで職人は満足だった。
 そして船はマーシャル諸島の沖合いに到着した。
 沈没した両親が乗っていた船はもちろん影もかたちもない。
 空には海鳥が声を上げて飛び回っていた。遠くに真っ白な雲が4、5個浮かんでいた。甲板を赤道直下の太陽が照りつける。
 クルー以外の乗客はみな遺族だ。声高に語るものはおらず、船上は静まり返っていた。波が船に打ち付けるゆるやかな音があたりに響いていた。沈没した船の姿が見えるわけでもない。ここが現場だといわれても、だれもが容易に受け入れることができずに、困惑しているかのようだった。
 職人も無言で手すりに両手をかけた。
 真っ青な海の上にほんのりと白い空があり、その白い空の上には深い青色の空が広がっていた。ときおり海に白い波が立つ。白色と青色の世界だ。ここがつい10時間ほど前まで自分が研究に没頭していた土地と同じ世界とは思えない。遠くに浮かぶ雲がゆっくりと姿を変えていく。丸い綿状の雲がちぎれて繊維状になっていく。海鳥の鳴き声も間遠くなっていくようだ。
 雲からも海鳥からも引き剥がされて、職人はひとり、白色と青色の世界に置き去りになった気持ちになっていく。
 ――お父さん。アタシまだお父さんの『男の料理』を食べていないよっ? お母さん。アタシまだジャムサンドイッチの作り方を教えてもらっていないよっ?――  そのときだ。
 職人は声を聞いた気がした。
 ――リトルドクター――。
 目を見開いて、職人は海へと視線を転じた。

(4 へ続く)

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