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「もう一度いってくれ」
「だから。『水ようかん』だったんだってば」
 タフは盛大にため息をつく。あのな、と子どもにいい聞かせるようにゆっくりとタフは言葉を続けた。
「ヘリウムを倒れさせるほど測定をさせちまったことは悪かったと思ってる。測定を急がせたのは確かにオレだ。それについてはさっき謝っただろう。だからな。悪ふざけはやめてくれ」
「残念ながら悪ふざけじゃないんだな」
 ダブルはぴょんと木製の椅子から飛び降りた。
「どこにいく。ヘリウムの見舞いならオレもつきあうぞ」
「しつこいな。ヘリウムくんなら大丈夫だって。ぼくの顔を見ないほうが返って身体にいいくらいだよ」
 ダブルはスキップでタフを後にした。「おい、待てや」とタフがダブルの後につく。
「ラボに戻るんだよ。冗談でいっているんじゃないってことを教えてあげよう。奇跡的に2週間後にリチウムの解析が終わっていたとしても、あの黒色直方体の検体はどんどん転送されているからな。きりがない」
 ダブルはくるりと回ってタフの正面を見た。
「タフが混乱しないよう早めに教えてあげようという珍しくも心優しいぼくのサービスだよ。納期の遅れた200件分くらいとチャラにしてもいいくらいのサービスだ」
 技術開発部内のカフェの前でとまってダブルはタフを下から見上げた。白衣のポケットに両手を入れて、斜め45度の角度でタフを見上げる。
「どうする? 聞きたくないっていうならぼくは別の仕事をするけどね。タフだって仕事が詰まっているんでしょ? 社員カフェに来たのだってぼくを連れ戻しに来たんじゃなかったの? よかったな。当初の目的は達成されたというわけだ」
 タフがこぶしを握る。唇も噛んでいる。
 とおりすがりのシェフがタバコをふかしつつ茶々を入れる。
「なんだお前ら。コーヒーが飲みたいのか? いまならちょうどヒマだから挽きたての豆でいれてやるぞ。ちょっと変わった豆が手に入ったからな」
 シェフの言葉で弾みがついたのか、タフはダブルに啖呵を切る。
「わかった! きっちりお前の話を聞いてやるぜ。オレにわかるよう、しっかり説明してみろや」
 大袈裟だねえ、と肩をすぼめてダブルはアンノウン係のドアを開ける。
「う」
 ダブルはドアの前で立ちすくむ。
 ラボの中はダブルがカフェへ避難するよりもいっそう殺伐とした状況になっていた。転送機からあふれた黒色直方体の検体がうずたかく山となって作業台に流れ込んでいた。水素は検体に半分埋もれながら頭をかきむしりつつ、ぶつぶつとつぶやいていた。もはや黄色の椅子に体育座りをしている。
 転送機からあふれでた黒色直方体の検体の山影のせいで、灯の消えた壁面装置周辺はより暗さを増していた。その奥にいるリチウムが映し出す5台のパネルが作業台の上でおどろおどろしい光を放っていた。おどろおどろしい光に照らされたリチウムの顔は目と鼻だけが強調されてホラー映画の悪霊のような面持ちだ。目の下の隈がさらにホラー映画の雰囲気をかもしだしている。
 ラボを見たタフが、うおお、と低くうめいていた。「なんじゃありゃー」と壁面装置を指差して、「あれじゃあ、まるで黒い森じゃないか」とダブルとおなじ感想を口にする。
 ぴくりとダブルの眉が動いた。タフとこのぼくが同じ発想だって? 冗談じゃないよ。ぼくは見た目どおりの、壁面装置の様相だけの比喩で『黒い森』っていったんじゃないんだからね。
『黒い森』っていったら『シュヴァルツヴァルト』でしょ。3世紀前のドイツで『シュヴァルツヴァルト』の森が酸性雨の被害にあって木々が枯渇した、っていうところまでを含んで、いまのヘリウムくんが不在の壁面装置は水素くんやリチウムくんの『酸性雨』的被害というか放置によって『黒い森』になっている、っていう深い意味があるんだから。ふっ、我ながらわかりにくい比喩だな。エヘヘ。そうだね。
 ダブルは気を取り直して自分のスペースにタフを手招きした。
「タフにわかるように説明するにはどうしたらいいかな。百聞は一見にしかず、ってやつだろう。そうだね。まあ早くこっちに来てこのデータを見て。リチウムを蹴飛ばすなよ。リチウムくんにまでフリーズされたらアンノウン係は完全機能停止になるからね」
 無茶いうなや、と文句をたれつつ、タフは意外に器用に検体やら書類やらメモ書きの紙やらを避けてダブルの前までやってきた。ほほう、無神経でもリペア部員。身体能力は高いねえ。伊達にバカみたいな訓練を積んではいないということか。 「まあ、適当に座ってよ」
 ダブルはキャラメル色の椅子に座るとパネルに指を走らせモニターを映し出した。「適当に座れといってもよ」とタフはあたりを見回す。ようやくヘリウムの黄緑色の椅子を見つけて手に取った。
 その間にダブルは作業台上部のモニターにヘリウムが測定をした2万個体の検体データを投影した。黒地に緑色の数字が左上から右下に向かって表示されていく。タフが椅子を持ってダブルの元へやってきてからもなお10分以上かけて表示は続いた。生データなので、ダブルが初めてヘリウムの測定データを見たときと同じだけの時間がかかる。
 最後に右下でエンドマークが点滅したところで、ダブルはタフに振り向いた。
「とまあ、こういうわけなんだよ」
「わかるか!」
 だよね、とダブルは悪戯っぽく笑った。
「なんどもいうけど、詳しい解析はいま一生懸命にリチウムくんがやってくれているよ。予定では2週間もしないうちに完了するはずだから、乞うご期待、だね」
「そうやってお前が無茶をさせるからお前の部下は倒れるんじゃないのか」
「早く結果を知りたがっていたのはタフだよ?」
 むう、とタフは口を閉じる。
「それではタフにもわかるように、この数字からどうして『水ようかん』という結論に至るのかを解説しよう。耳をかっぽじってよく聞けよ」
 10分後。
「なにをいっているのかさっぱりわからん。オレは理系じゃないんだ。そのへんのおばちゃんにでもわかるように説明しなおせ」
「研修で化学とか生物学とか習ったでしょ? 素人みたいなことをいうな」
「10年も前のことを覚えていられるか。実戦で役に立たんもんは忘れた」
 しかたがないねえ、とダブルは再び解説を始める。
 さらに10分後。
「うお? すまん。寝ちまった。お前の話し方が面白くないな。もっと興味がわくように話してくれ」
 あのねえ、と呆れつつダブルは粘り強く解説を続けた。
 そのまたさらに10分後。
「わかった?」
「わからん」
「もう。どこが」
「全部」
 そうかこの男、バカなんだ。どこがわからないのかもわからないんだ。つきあいきれんな。やってらんないよね。ダブルがタフに背中を向けようとしたときだ。ダブルの脳裏に職人の姿が浮かぶ。頬を染めて青い地球を眺める職人だ。まっすぐな眼差しでいつまでも職人は地球を眺め続ける。職人のふわふわの長い髪が揺れて蝶の髪飾りがきらりと光る。
 んも、とダブルは栗色の髪をかきあげた。しかたがないねえ。もう少しつきあいますか。我ながら律儀な性格だ。まったくだよ。ダブルは咳払いをする。
「少なくとも2万個体の検体の測定データがあるってことは見えるよね」
「おう。オレの視力は5.0だ。いかに薄暗いラボの中だろうと、ちゃんと見えているぞ」
「なんの仕込みもなしで視力5.0ってイヌイットの人たち並だね。とにかくオレの親切丁寧な30分にわたる解説によると、お前が持ち込んだ黒色直方体は『水ようかん』だ。わかった」
「そんなわけあるか。寝言は寝てからいえ」
「だから、データはウソつかないんだってば。ぼくが暇つぶしでデータ改ざんしたところでだよ? この2万個体の検体の測定データの値を『水ようかん』にわざわざするにはそれ相当の手間がかかるんだよ。そんな時間があったらオレは迷わず反物質の実験をする」
 作ってみたい試作装置のアイデアでオレの頭はパンクしそうだ、とダブルは胸を張った。そのダブルの胸倉をタフは白衣ごとつかむ。
「オレをからかいたいならもう少しましなウソをつけ。なんで『水ようかん』なんだ。『水ようかん』である必要がどこにある。確かに黒色直方体は『水ようかん』の姿形をしているがな。それが『水ようかん』だなんて短絡的すぎるわ!」
「お前にいわれたくないわ!」
 とダブルは鋭い手刀打ちでタフの手から離れた。ついでに離れ際、『痛覚が10倍になる液体』を注射する。タフは、うおおお、と雄叫びを上げて床でのたうちまわった。バカめ。ダブルは胸がすく。
 まあね、食べてみれば一目瞭然、っていうか一瞬に理解できるよね。ぞくぞくと検体は転送をされてきているしな。いっそのこと検体をタフの口に突っ込んじゃおうか。そうすれば、あのバカもおとなしくなるしな。
「……係長」
 水素がなみだ目でダブルの前に立った。
「タフさんで遊ぶのは構いません。けどタフさんに俺の作った書類を壊すようなことをさせないでくださいよ。ホント頼んます」
 見るとタフがのたうちまわりつつ水素の作成した書類を両手で舞い上げていた。やれやれ、とダブルは白衣のポケットから鎮静剤を取り出してタフの肩にぶすりと刺した。
「水素くんも技術開発部員の端くれならさ。これくらい自分で対処してよね」
「リペア部員にそんなに薬物多量投与できないっすよ」
「技術開発部に出向させられるタフが悪いんだよ。薬物中毒になるくらいは処罰の一貫さ」
 はあ、そうっすね、と水素は肩をすぼめて作業台に戻った。いい返す元気もないらしい。いまならタフがすんなりと書類を通すような薬物を簡単に投与できるのに。それもやらないとはねえ。
 水素の瞳に力がこもる。
「書類作成をきっちりこなすっつうのは、アンノウン係に配属されて以来の俺の美学っす。ズルするなんて問題外っす」
「美学っていえばなんでもかっこよく聞こえるのはガキの証なんだってよ」
 ほっといてくださいよぅ、と水素は半泣きになる。いつもなら反論してくるのに。こりゃこりゃ、相当に疲れているね。タフには早々に退散してもらうか。
 ダブルは床に転がっているタフの尻を蹴り飛ばす。
「起きろ。そういうわけで、世界中に発生しているのは『水ようかん』だ。わかったか。ただし、ただの『水ようかん』じゃなくて――」
「世界中に一斉に発生するのが和菓子の『水ようかん』だっつうのがおかしいっていってんだろうが!」
 逆切れのようにタフが立ち上がる。相変わらず薬物から回復するのが早い男だ。どうすればここまで早く体内の薬物を体外へ排出できるのか。筋肉マニアの医務室の室長が知ったら喜びそうだ。その割りには例の『邪気を取り除く』ガスにはそれなりに長時間感染していたけれどね。その手の薬物には免疫がないのかな? なんとも熱血でそれこそ短絡的な男だねえ、とダブルはにやりと笑う。
 いいか! と作業台を大きな手でタフは叩いた。水素の書類が再び宙に舞って、水素は、はわわわわ、と書類に向かって両手を伸ばした。
「このおよそ2万個体の検体はな。送ったデータのとおり、岩山の上とか砂漠の真ん中とか火山の脇にあったんだぞ。鉱物みたいにな。少なくとも食い物じゃないことは明らかだろうが! それをよりによって『水ようかん』だなんて。論外だってんだ!」
 どうでもいいけど、この男。ぼくの最大の問題発言の『ただ水ようかんじゃない』って点を無視したよ……。想像以上のバカだな。ダブルは白衣のポケットに両手をつっこむ。そして転送機に目をやった。
 ――こういう人間がいっぱいいるから何万個体も検体が送られてくる羽目になるんだねえ。地球環境問題について骨の隋まで叩き込まれた上に、常日頃から地球環境問題と誰よりも直面しているRWMの社員ですらこのバカっぷりだからな。退院してきてもヘリウムくんの受難はまだまだ続くってわけだねえ。
 はああ、とダブルはタフから顔をそむけた。

(5 へ続く)

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