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 ふうむ、とダブルは腕を組んだ。
 確かにヘリウムの入院は2週間と承諾したのは自分だ。
 だけど。これってあんまりじゃないの? まったくこいつら、情けないほど使えないな。だからってぼくが手を出したら甘やかしすぎだし。ひとには向き不向きがあるとはいうが、こいつはひどいな。
 ダブルは自分のキャラメル色の椅子に座り肩をすくめる。
 壁面装置は放置状態だった。
 ヘリウム作成の壁面装置マニュアルの解読すらできなかった水素とリチウムは、早々に、
「ヘリウムがうわごとで心配するくらい大切な壁面装置なんすから。俺たちが壊したら大変っすよ」
 とかなんとかいって、壁面装置を完全に放置した。最低限、壁面装置維持のためのキャリアーガスを流しているだけというていたらくだ。壁面一角の照明までも落としていた。
 数日前まで7、8個のトップライトに照らされて、装置冷却用にファンがフル稼働していた面影はどこにもない。20個あるモニターもどんな波形も示さずに黒い画面のままだ。壁面装置は薄暗い中でぼうんぼうんと鈍い音をたててキャリアーガスを流している。アンノウン係の内部でもっとも生産的かつ活動的だった一角があたかも巨大な黒い森のようだ。
 壁面装置を黒い森にいたらしめたひとり、水素は作業台で髪をかきむしっていた。
 水素はアンノウン係のドアにもっとも近い黄色の椅子に座って、ひっきりなしに貧乏揺すりをしていた。例のナンバー87655467の書類の『対策』部分変更に伴う書類全体の変更手続きだ。
 ダブルが条件として出しただけのことはあって、手間と時間ばかり食う変更作業だ。水素は紙媒体の書類をめくっては返すを繰り返している。ときおり、「係長!」と雄叫びをあげ、「F図とD図の因果関係がなんか変なんすけど、このまま提出していいんすよね!」とがなり声をあげてくる。ダブルが適当に「うん。いいよ」と答えると盛大に舌打ちをして「ウソつけ!。H表の計算とぜんぜん違うじゃねえかよ!」と毒づいた。わかってんなら聞かないでよね、とダブルは相手にしなかったので、水素は「ああもう!」とさらに髪をかきむしりつつ、紙媒体の書類をめくっては返すを繰り返した。
 壁面装置を黒い森にいたらしめたもうひとり、リチウムはぶつぶつとつぶやきつつ、作業台の上で両手をせわしく動かしていた。
 リチウムはらせん階段ちかくの薄紫色の椅子に座って、作業台上空に投影した5台のモニター上のデータを整理集計入力作業をしていた。モニター5台でも足りないくらいだが、5台のモニター画面を見比べて指を動かすのがリチウムの限界のようだ。
 作業内容はもちろん、倒れるほど頑張ってヘリウムが測定をした2万個体の検体の解析だ。ヘリウムの出した測定データから2万個体それぞれの特性情報を集計してまとめるという作業だ。
 単純作業ではある。ならばパソコンソフトにやらせればいい、という話ではない。規則性があるかどうかわからない検体なので、結局は手作業となるのだ。手作業で、5台のモニターに映った黒地に緑色の数字データを手元のパソコンで計算をしたり、パネルで動かしたり、表にまとめたりを繰り返している。5台のモニターを平行作業しているので油断するとどこをやっているのかわからなくなる。気の抜けない作業だ。
 ダブルの宣言により期限は2週間、すなわちヘリウムが退院してくるまでなのでのんびりと手を動かしていては当然終わらない。ふだんは薄紫色の椅子に持続して座っているのが長くて10分というリチウムも、今回ばかりは8時間以上座り続けていた。リチウムの目の下には薄黒い隈ができ、艶やかさを売り物にしていた髪は静電気を帯びたように逆立っていた。
 まったくさあ。これしきのことで情けないねえ。ぼくなんて普段の行いがよすぎるから、ほうら、もうすぐ100件の書類にサインをし終わっちゃうよ。
 残り数件分、というところでダブルは手を止める。
 まあね。その気になればこんなふうにちゃんと仕事ができちゃうから普段からサボるようこころがけているんだけどね。てきぱき仕事をすると周囲が期待するからな。どんどん仕事を押し付けてくるもんね。ウチの会社は容赦ないからな。
 エヘヘ、とダブルは手のひらの上でペンをくるくる回した。
 仕事っていうのはさ。物足りないくらいの量がちょうどいいんだよね。どんなに得意な仕事でも切りが見えなければ苦痛でしかない。冗談じゃないよね。
 まあ、水素くんが髪をかきむしりながら書類と格闘するのも、リチウムくんが2週間で2万個体の検体測定データを処理しようとのたうちまわっているのも、それ自体は問題じゃないよね。むしろ頑張っていると褒めるべきだな。壁面装置に手をつけるのをあきらめたことだって「英断だ」と褒めてあげたいね。まったくだ。
 電話やメールやクレームがじゃんじゃん来るのも構わない。「手が回らないから関わらない」と決めた装置のすべてにダブルが8年前に作った『グミ型吸音機バージョン7』を貼り付けたからだ。鳴ってはいても音は聞こえない。快適な作業環境だ。
 問題は――。
 ダブルは眉をひそめて転送装置を見た。
 ダブルの視線の6メートルほど先にある転送装置。白い機能的な形態をした転送装置からはいまもなお『新着検体です』というアナウンスの機械音声とともに、新しい検体が転送されてきていた。それらはコンテナへ自動輸送されているものの、そのコンテナから検体がいくつもあふれ出て床に山積みとなっていた。
 あふれ出た新しい検体は作業台との通路を埋めて、ダブルがラボの外に出るためにはらせん階段の前をぐるりと通ってラボの中をほぼ一周しないとならない状況だ。その間にリチウムの落としたメモ書きを踏みつけたり、水素が床に置いた書類の山を避けなければならない。小会議室ほどの大きさのメインラボがまるで大会議室並の動線を要した。不便極まりない。しかもリチウムの後ろを通るときには「係長―。ヘリウムの棚の上から8段目にFコードがあるので取っていただけませんかー。手が離せないんですー。離すと全部のデータがぶっとんじゃうんですー」と泣きつかれるし、水素のわきを通るときには「ああもう! どうしてここにサインなんかしたんすか! もう一度書き直しじゃないっすか! 対策変更するのは構いませんが、変なところにサインしないでくださいよ! ったく!」と八つ当たりされるという面倒臭さだった。
 ううう、とダブルはうなる。いつもならヘリウムくんがやってくれていたのに。新しく検体が来たら、おおまかに確認をして、少なくとも検体がコンテナからあふれる前に壁面装置のコンテナ置き場へと移動してくれていたのに。一応、新着リストの報告まで声をかけてくれていたしな。むうう、とダブルはうなり声を上げる。
 それだけではない。
 ヘリウムがいないと不便な事態はヘリウムが入院して1時間も立たないうちに発生した。
 バナナジュースが飲めないのだ。そんな当たり前の事態にダブルははたと気づいて身もだえた。医務室室長にヘリウム退院について嘆願したのはこのためでもある。ためしに「僕が作るなんて2年ぶりですねえ」とリチウムが作ったものの、甘すぎて吸い込んだ瞬間にダブルは吐き出した。乾いた喉が癒されるどころか、かきむしるほどに喉が痛くなった。
 それだけではない。
 いつもなら「小腹が減ったな。ヘリウムくん。なんか食べたい」とひと言いうだけで、ヘリウムは検体を測定する手を止めて手早くスモークサーモンとセロリのサンドイッチとかチキンとマイタケのパスタとかエビとブロッコリーのタルタルベーグルサンドとか20品野菜入りミネストローネを作ってくれた。測定をしながらパエリアやおでんを作ってくれたこともある。「今日はちょっとがんばりました」と圧力鍋ではなく、ふつうの鍋でとろとろのビーフシチューを10時間かけて作ってくれたこともあった。
 おかげでアンノウン係の胃袋はいつも幸せに満たされていた。ダブルがしょっちゅう社員カフェへ抜け出していたのは食生活の改善というより気分転換だ。ヘリウムの料理に不満はない。いま思えば、そのあたりがかつて地球上でヘリウムが女性にモテまくっていた所以かもしれない、とダブルはしみじみとうなずく。
 もちろん食事はラボの中でしか取れないわけではない。
 モジャモジャ頭の営業部員がダブルに訴えたように、ラボの外には技術開発部専用のカフェがある。カフェに行けば食事を取ることはできる。ハンバーガーからビーフストロガノフ、木苺のタルトから46種類のジェラードアイスクリームまで品数は揃っている。注文してから出てくるまでの時間も5分とかからない。熱いものは熱いまま、冷たいものは冷たいまま。出来たてほやほやの提供だ。
 ただし、そして致命的なことに、まずい。
 少なくとも、ダブルの口には合わない。ヘリウムの料理でダブルの口が肥えたせいかもしれない。「空腹が満たされればいい」とか「手早く栄養補給できればいい」とか「食事はエサだ」という技術開発部員向けだ。
 そのうえ、しょせんは技術開発部という場所だ。調理する側も技術開発部員。どんな薬物が混入しているとも限らない。
「なんじゃこりゃ! 明らかに興奮剤が混入しているじゃねえか! カレーにピンクの粒粒なんて毒々しすぎるわ!」と訴えたところで「みなさんの英気を養うための僕の心遣いです。どこに問題が?」とタバコをふかしつつシェフは平然と答えるのだ。
 もう、もう、とダブルは頭に手を当てた。
「限界」
「あっ! 係長! どこいくんすか! 想像はつくけど、せめてここにサインしてからにしてください!」
 水素の訴えを背後に、ダブルはラボから飛び出した。
 こんなところにこれ以上いたら、頭からキノコが生えてきちゃう。ぼくにはアツアツでほわほわなマシュマロ入りココアが必要なんだ。ついでにホイップクリームがたっぷりのったバナナチョコパンケーキも食おう。いいね。口直しにジャーマンポテトも必要だな。うんうん。もうついでにビールも飲んじゃおう。赤くてホップの香りが利いたドイツのアルトビールがいいな。エヘヘ。
 ダブルは猛スピードで五重のセキュリティを突破して、月面本社中央に位置する社員カフェへとたどり着いた。
 いっぽ足を踏み出して「お」とダブルは足を止める。
 今回も前回同様にカフェの透明なドーム型の天井から見える空は夜空だった。
 いつもなら真っ直ぐ中央のオープンキッチンわきのカウンターそばのテーブル席に座るところだ。そこが一番の死角になって、モジャモジャ頭の営業部員に見つかりにくいからだ。
 それを、ダブルは足を止めたままで天井を見上げた。地球を見る。38万キロメートルも離れているのに、ちゃんと地球は青く見えた。白い雲まで見える。こんなふうに見上げていたらまるで職人みたいだよ、と自分でも思うものの、ダブルの足は動かなかった。
 真っ暗な夜空に地球は青く浮かんでいる。青いだけではなく、全体がぼんやりと輝いていた。惑星なのだから自ら輝くはずはないし、地球から38万キロメートルも離れたここから地球の大気そのものが光って見える『大気光』が見えるはずもない。それでも確実に地球はほんのりと光っていた。
 明るく輝くのではなく『ほんのりと光る』という点がダブルのこころをとらえた。
 だってさ。それって、ホラ、ぼくたちの身体を可視光線じゃなくて、赤外線で見た映像みたいだよ。肌が白っぽく見える。微弱な電気エネルギーにも似ているな。地球のあのほんのりとした光もコロナ放電みたいなもんだね。
 しばし、自分が月面にいることを忘れるくらいにダブルの頭の中は地球の映像でいっぱいになる。風にさわさわと揺れるサバンナ草木。イネ科の植物が黄金色の穂を揺らし、アカシヤの木のみずみずしい緑色の葉が真っ青な空に映える。人影がどこにも見当たらない場所で、ツノをはやした動物たちがイネ科の植物の合間をゆったりと動き回る。
 地球を思い出すときに、思い浮かぶのはいつも草木の映像だ。雑居ビルや下町や駅ではない。間違っても生まれ育った家ではなかった。ダブルの中で、武道の実家はすでに削除されていた。思い出しても意味がない。代わりに思い浮かぶのは武術指南に赴いた森林地帯や砂漠やサバンナだ。群れを成して空を飛ぶ蝶の映像や一斉に芽吹く木々の映像だ。思い出すと気持ちが無機質になっていく。無機質なくせにほんのりとあったかくなるのだ。
 また『ほんのり』だね。ああ、オレはどうも『ほんのり』という感覚に弱いな。地球を見上げる。まだ『ほんのりと光って』いた。ダブルは地球を見上げたままで、白衣のポケットに両手を突っ込む。
 まったくさあ、やっかいなものをおくりつけてくれたもんだよね。2万個体もな。それでもあきたらず、いまなお送りつけ続けているんだよ? やってらんないよ。わざわざいわれなくても『わかっている』っていうの。少なくともぼくは。
 ようやくいつものオープンキッチンわきのカウンターそばのテーブル席に座って、ダブルはマシュマロ入りココアを注文する。
 ――まあ、『わかっている』のがぼくだけじゃ満足できないからこそ、送りつけてくるんだろうけどね。まだまだ送りつけてくるつもりかな。あと数倍というところか? えぇ。そりゃ説得力は出るけど、つきあう身にもなってほしいな。そりゃやるけどね。えらいな、やるのか。やるでしょ。正気じゃないぞ。
 ダブルは思考を止める。そして黙って地球を見上げた。

(3 へ続く)

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