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 ほわちゃちゃちゃちゃっ!
 ソラは奇声を上げてダブルに杖を振り回した。ダブルの足をなぎ払おうと床に散らばっていたダブルの試験管を粉砕し、飛びのいたダブルを狙って作業台上の317件の書類の山を叩き崩した。ガラスのサンプルケース台には亀裂が入り、床はよくわからない試薬でびしょ濡れになる。
「ちょ、ま、落ち着こうね。ソラちゃんはそんなことをするコじゃなかったじゃん。なんだか口調までぜんぜん違うし」
「うるさい! おとなしく殴られなよ! そして私に言うことがあるでしょうが!」
「んん。なにかな?」
 首を傾げるダブルに向けて、またもやソラが杖を振り落とす。うおう、とダブルは宙返りをして難を逃れる。
「ラボは狭いんだよ。地球上とは違うんだよ。そんなに杖を振り回したらオレのラボが壊れるだろうが」
 のん気な声を出すダブルにいら立ったのか、ソラは構わず力任せに杖を振るった。思わずダブルは杖の先に飛び乗った。体重をかけて杖を使用不能にさせようと試みたのだ。さっきの反物質装置を使う機会ではあるけど。ラボが壊れるもんねえ。
 ソラは杖から手を離すとダブルに向かって素早くダブルの試作品であるコンペイトウ型煙幕剤を投げつけた。
「なんてことすんの」
 たちまちラボは白煙に包まれる。その中をソラは的確にダブルの背中めがけて蹴り込んだ。うおう、とダブルは背中をのけぞらせ、ソラの正面からのこぶしの連打にも両手を組んで防御する。再びソラが杖を手に取り、正面から勢いよく振り落とした。それをダブルは真剣白刃取りの構えでかわした。首を狙ったソラの攻撃にもダブルは機敏に前後左右と身体を動かした。ソラのフックもキックもアッパーもボディブローも、ダブルはことごとくかわしていく。
「ああっ! もうっ!」
 ソラが苛立ちの声を上げる。
「どうして戦闘訓練を受けていない技術開発部員にそんな武術スキルがあるのさ! 試作装置を使っているってこと? ずるいよ! 一発くらい殴られろ!」
「そんなこといったって」
 痛いのは嫌だし。これはいわゆる『昔とった杵柄』というやつだしな。まあ人体実験のたまものってこともあるけど。だけど、ああさすがに14年ぶりの実戦は勘が鈍る。つぶやくダブルの額から汗が滴り落ちた。
「この極悪非道! 鬼畜! 人でなし! 偽善者! 鬼! 歩く大量虐殺! 自己中心なナルシスト! 悪魔!」
 ソラは思いつく限りらしい罵詈雑言をダブルに投げかけてくる。さすがのダブルも、これは、と思い至らざるを得ない。
 もしかしたらソラちゃんに『感情』が戻っちゃったんじゃないの? だからこの5日、ずっと連絡がなかったんじゃないのかな。そう考えると理にかなうな。
「ダブルのせいで、いままでどれだけのひとに迷惑をかけちゃったことか!」
 なんですと? 決定的な発言にダブルはぽかんと口を開けた。



 ソラが情報調査部員として月面本社にやって来たのは4年前だ。
 情報調査部員は月面本社に来る前に2年間の地球での実戦訓練がある。正確にいえば、技術開発部員をのぞく、すべての社員が体験する訓練だ。100を超えるライセンス取得に、サバイバル訓練だ。月面と地球との往復のための大気圏突入用パイロットライセンスに各種銃器取扱ライセンス、国際弁護士免許に税理士免許、さらには国際医師免許まであった。たった2年で取得するという荒業なので睡眠時間の確保は各自の気合だけだ。
 ダブルは受けたことがないので話でしか聞いたことはないが、なんでも、指示誘導つきヘルメット、これは技術開発部の量産装置係が作成したものだ、をかぶってチョモランマの山頂付近からスキーでひとり、下山させられるとか、避難ボートにひとり置き去りにされて、「48時間以内にビバオア島まで到着しないとボートを爆撃しちゃうぞ」という訓練もあるらしい。自然を体感するという、すばらしい主旨の訓練だ。
 俗に『地獄の2年間訓練』と称されていて、この2年間をクリアできたものだけがRWMの社員として正式登録される。そして一様に、この地獄の2年間訓練をクリアしたことを悔いるのだ。悔いたところで地獄の2年間訓練において骨の髄までRWM魂を叩き込まれているので職務を放棄することもできない。その点においてもまた悔いることになるという、二重の後悔だ。
 ソラの場合、ずば抜けた情報処理能力と度胸を買われてスカウトされたので、収集した情報の分別精製能力の強化といった訓練も付加されていた。
 訓練そのものはソラにとって、大したことではなかった、らしい。
 問題は別にあった。
 地獄の2年間訓練の間、恋人と会えないことだ。
 ソラは恋人に人生のすべてをささげていた。恋人もソラに人生のすべてをささげていた。ソラと恋人は一緒にいるのが生きていくための条件だった。
 朝起きて目を覚ましたときに隣りにいるのがソラであり恋人で、朝食で互いの目玉焼きにソースを掛け合う相手で、着替えるときに互いの靴下をはかせ合う相手だった。ソラの長い髪を2つにしばるのは恋人の特権で、恋人の髪をさらさらになるまで櫛でとかすのはソラの特権だった。怒りたいときにソラに代わって相手を怒鳴りつけるのが恋人の役目で、恋人が泣きたいときに先にぽろぽろと涙をこぼすのがソラだった。顔をあげるだけで恋人がなにをいいたいのかがソラにはわかり、恋人はソラの手の動きひとつでソラの気持ちを読み取った。
 RWMの会長がソラをスカウトしたとき、ソラは即座に断った。それをソラに代わって承諾したのは恋人だ。
 ソラがずば抜けた情報処理能力を持て余して苦しんでいるのを恋人はずっとそばで見ていた。RWMに入社すればソラは能力を思う存分発揮できる。
 ソラがテレビのニュース画像を見て、瞬時に報道されている映像とキャスターの発言とキャスターのうちに秘めた感想に、映像の背後にある光景の割れた酒瓶ひとつから漂う憎悪を嗅ぎ取り、収集した情報を放り投げることもできずに身のうちに溜め込んでいく姿を恋人は憂いていた。
 このままではソラのこころが壊れてしまう。どんな些細な映像からでも情報を引き出してこころを病んでしまう。ソラは自分を守るために自ら視力に聴力に嗅覚を封じてしまうかもしれない。鋭い刃物で。血飛沫や痛みなど、病んだこころにはなんら抑制力にはなりはしない。
 その恋人の懸念をRWMの会長が解消すると提案している。快諾する以外に恋人には道はなかった。ソラのこころが壊れてしまって、その先、自分たちはどうやって生きていけばいいのか。ソラの恋人はソラのために会長の申し出を受け入れた。
 恋人が顔をあげただけで恋人の判断の裏に隠された思いを識別したソラはいい返すことができない。ただ、恋人の頬を張ることしかできなかった。決別の平手打ちではなく、愛撫の平手打ちだ。
 自分ひとりで勝手に決断をして、ソラに決断をさせるという重荷を奪ったことへのあふれ出る情だ。抱きしめたら恋人の判断を受理したことになる。ソラは恋人の判断を受け入れてはいない。いつまでも恋人と2人で一緒にいたい。かたときも離れたくなどない。それでもやはり、自分が恋人の立場だったら同じことをしただろう。
 ただ、伝えなければいけなかった。恋人がひとりで勝手に重荷を背負って決断をしたことを、自分は怒っているのだと。泣きたくなるくらい腹を立てていることを。自分だって、恋人の立場ならばきっと恋人と同じことをしたとわかっていてもなお、ソラは恋人の頬を張ることで、恋人とのつながりを求めた。
 地獄の2年間訓練のあいだ、ずっとソラは泣いていた。恋人がいないと泣いていた。
 操縦席に座っていても隣に恋人がいないと胸がかきむしられる思いに囚われ、国際医師免許の筆記試験のあいだもずっとペンを動かしながら答案用紙を涙で濡らしていた。淋しくて淋しくてどうしたらいいのかわからなくて、チョモランマの山の中で恋人の名前を叫びながらスキーで滑走をした。海上訓練では釣り上げた魚の1匹1匹に恋人と同じ名前をつけて愛しんだ。愛しすぎて骨までばりばり食べてしまったくらいだ。
 そして無事に地獄の2年間訓練を修了したとき、ソラの感情の一部が剥げ落ちてしまっていた。『怒り』だ。
 淋しくても淋しくても、どれだけ泣いても、相手の名前を呼び続けても、恋人に会えないのなら、その状況をどれだけ怒ってもなんら状況が変わらないのなら、もう怒ることはやめてしまおう。怒っても無駄なのだ、とソラは絶望した。絶望したソラは『怒り』を感情の奥深く、深層心理のさらにまたその奥へと追いやった。そうすることで、恋人のいない日々を乗り越えるすべを身につけたのだ。2年たてば努力次第で恋人に会えることを『希望』とするには、ソラの淋しさは深すぎた。
 それゆえダブルが4年前に会ったソラは驚くほど従順で忍耐強いしとやかな少女だった。
 技術開発部を抜け出してカフェにマシュマロ入りココアを飲みに来ていたダブルに向かってソラは恐れもせずに両手をそろえて頭を下げたほどだ。
「先輩からはダブルさんには関わるなといわれていたのですが、ダブルさんたちが開発してくださった装置でわたくしたちの仕事がはかどるのですから、どうぞこれからもよろしくお願いいたします」
 ダブルはマシュマロ入りココアのカップを落としそうになる。普通の奴がこんなことを口走るわけがない。ダブルは目を光らせて試作装置を使ってソラの事情を把握した。
 そのときにダブルが抱いた感想は同情でも哀れみでもなかった。
 かくも人とは強きいきものだねえ。ここまで生に執着できるとは。会長の手から逃れるために恋人とやらと一緒に死ぬという方法だってあっただろうにね。ひょっとすると、うんひょっとしてこれは、すっごくいいカモなんじゃないの。
「エヘヘ。お近づきの印にソラちゃんにコレをあげるよ。ぜひ地球で使ってみて。オレが作った試作品だ。『集めたデータをすぐに月面本社へ転送する』ものなんだよ」
 どうぞ、とダブルはソラにソラの背丈ほどもある杖を手渡した。
「よろしいんですか?」
 ソラは疑いもせずに杖を受け取る。ダブルはとろけるような笑顔をソラに向ける。
「この先端部分にデータを収納するスペースがあってね。杖を大きく一回転させると月面本社に転送できる仕組みなんだよ。手元のボタンは月面本社がデータを受け取ったことを確認できる装置で、杖を一回転させる速度をより早くすると、さて、どうなるかな。ぜひ、やってみてくれたまえ」
 これもあげるよ、とダブルはソラの手のひらへ試作装置を山ほど置いた。ソラは少しも嫌がることなく「ありがとうございます」とダブルに微笑んだ。
「試作装置の使い心地を教えてくれると嬉しいな。メールをちょうだい。ぼくからもなにかあったらメールするね。主に新しい試作装置を送りつけるときとか、操作方法とかもマニュアルではなくメールにするから、よろしくな」
 ダブルの無茶な要望にもソラは「会社のためになるのなら」と快く請合った。

(5 へ続く)

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