第1章ポジティブ・マッド・サイエンティスト


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 日の落ちたカフェで、ダブルはココアを飲んでいた。
 技術開発部内のカフェではなく社員共用の大きなカフェだ。
 天井は透明なドーム型の天井で、中央にオープンキッチンがあって木製のテーブルに木製の椅子があるカフェだ。夕飯時に備えてか、オープンキッチンからは肉や野菜の煮込む匂いが漂っていた。
 ダブルは木製のテーブルに頬擦りをする。
 肌触りがよくてほんのりと暖かい。椅子だってゆったりとした作りで肘掛が心地よかった。ココアに至っては液面の表層部をたっぷりとした泡が覆い、さらにマシュマロまで浮いているという極上品だ。とろりとしたマシュマロを口に含むとダブルの頬はとろけ落ちそうになる。
 はぁ。このマシュマロのためにセキュリティを突破してくるって感じだよね。モジャ毛のセキュリティ更新が8時間サイクルというマンネリぶりのおかげでもあるな。そもそもセキュリティを開発したのはオレたちだということを忘れているんじゃないのか? みんな忙しいからねぇ。営業部のモジャ毛くんが庶務の仕事をするくらいだしね。ぼくだって毎日仕事は山積みだけどね。
 ダブルの中には2つの人格が棲んでいる。『ぼく』と『オレ』の2つの人格だ。二重人格というやつだ。ゆえについたコードネームが『ダブル』。会長自らの命名なので改名はできない。そして外見は美少女のような美少年の容姿を保っている。持ち前の生体実験技術のたまものだ。実年齢はダブル自身ですら忘れてしまった。この会社の技術開発部という部署に所属している限り、年齢などはどうでもいい事柄だ。ダブルに限らず技術開発部員全員にいえる事柄だった。
 お、とダブルはカップから口をはなす。
 背後から人が走ってくる気配がした。ちょうど技術開発部へと続く通路の方角からだ。歩幅の狭い走り方だった。おまけに草履の足音だ。ダブルはにんまりと笑うと口をカップに戻した。
 あの走り方をする社員はひとりしかいない。
 コードネーム『職人』だ。
 職人は和服に白衣を羽織り、長いふわふわの髪をたなびかせて、まっすぐにダブルへと向かっている最中に違いない。蝶の髪留めが照明に照らされていることだろう。職人こそが正真正銘の美少女だとダブルは認めている。大きな瞳に長い睫、あどけない笑顔は見るものの警戒心を失わせる。当然、社内での人気も高い。
 ま。目の大きさも体の小ささも、かわいい仕草のひとつひとつも、ぼくだって負けていないけどね。栗色のふんわりショートヘアーはこだわりのスタイルだし。白衣の下にはレース付きのシャツブラウスにショートパンツだし。これでハマらない女子社員はいないよね。職人はオレみたいな計算がない分、予想外の行動で人気をはくすことがあるがな。あれは反則だよね。
 ダブルは笑みを浮かべたまま振り返る。そろそろ職人から声をかけられる頃合かと思ったからだ。けれども職人はいなかった。あれ? 職人はぼくを捜しに来たんじゃなかったのかな? と視線を巡らし、ダブルは眉を下げた。
 職人は透明なドーム型の天井を見ていた。夜空を見ている。目を輝かせて一点を見ていた。なるほど、とダブルは肩をすくめた。ちょうどこの時間帯だと満月ならぬ、まん丸の地球が見える時間だ。
 まん丸の地球が見える場所。
 ここは地球ではない。
 月だ。
 地球の唯一の衛星である、月だ。
 ダブルの所属する株式会社RWMは、この月面にある。



 リペア・ワークス・オン・ザ・ムーン。略してRWM(アール・ダブル・エム)。
 地球環境コンサルタント業務を主体とする営利団体だ。人類が地球環境に対して干渉しすぎた事象をリペア、すなわち修繕活動することを目的とする企業だ。クライアントは世界各国政府から個人まで。RWMの提示する条件を承諾し、地球環境に関わると判断できる事象ならば仕事相手を選ばない。もっとも「RWMの提示する条件」を承諾できるものは限られているのでクライアントは自然と淘汰されていた。
 月面にあるからこそRWMという名称だが、RWMが月面にあるには意味がある。
 地球から離れた月にあるからこそ、RWMは地球環境を客観的に捉えることができた。加えて、月、という特殊な場所である。月、はどの国家にも属していない。まして独立国家でもない。地球でいえば南極と同類。どの国でもあり、どの国でもない。顔色をうかがうべき機関がRWMには存在しない。
 こうして質、量、信用、権力、どれをとってもRWMに太刀打ちできる地球環境コンサルタント企業は存在しなくなった。RWMの社章バッチを見せれば、大抵の機関は顔パスになるという表の面でも裏の面でもエリート企業だ。



 エリート企業なんだけどぉ、とダブルは頬を膨らませた。ぼくにはあんまり関係がないねぇ。だってこの月面本社から出ることなんてさ。多分、一生ないだろうから。
 ダブルが属するのは技術開発部のアンノウン係。アンノウン、すなわち、未確認物質の解析を担当とする係だ。ダブルはその係長をしていた。技術開発部は月面本社にしかないので、地球へ降り立つ機会はない。
 ここに来たときだって会長に拉致されたも同然だったし、ここよりほかに面白い実験ができる場所が存在できるとも思えないしね。そもそも危険分子として外には出してもらえないだろう。外に出たところでそれこそ危険分子として各国政府により抹殺されるのが落ちだな。人間兵器というやつだ。そんなふうに呼ばれたころもあったねえ。
「見つけたっ」
 語尾が跳ねる元気な声がした。職人だ。地球を見るのは堪能したらしい。見ているうちに満月ならぬまん丸の地球ではなくなった、というところか。月では地球はその日のうちに満ち欠けをする。
「ダブルくんのことをアンノウン係のみんなが捜していたよっ。わざわざウチの係まで来て『社員カフェにもぐりこんでいるはずですから連れ戻してください』って泣きついて来たのっ。カメ型多次元マップをもらっちゃったっ」
「それぼくの試作品じゃん。むうう。勝手なことをやりやがって。いい加減に自分たちでモジャ毛くんの五重セキュリティを突破すればいいのに」
「四重セキュリティまでは解けたみたいだけど、最後に跳ね飛ばされていたよっ」
 不甲斐ない、とダブルはうなだれる。もっともキャリア3年クラスの技術開発部員に解けるセキュリティでは本当にセキュリティの意味がない。
「えっと。みたらし団子をくださいっ。アツアツのほうじ茶もっ」
「帰るんじゃなかったの」
「うんっ。一緒に帰ろうねっ」
 応えながらも職人はダブルの隣りにしっかり座る。そして差し出されたみたらし団子に歓声をあげた。
「おいしいねっ」と頬を赤く染めている。
 職人はみたらし団子に目がない。みたらし団子さえあれば嫌な気分は吹き飛ぶらしい。ことに社員カフェでのみたらし団子は職人の気に入りの品だ。職人いわく、「たれの絡み具合が薄すぎず厚すぎず絶妙なんだよっ」だそうだ。
 ダブルは職人の頬についたみたらしのたれを指先で拭った。
「職人も忙しいんだからさ。律儀にうちのバカどものお願いなんざ聞くことはないぞ。今日も注文が殺到しているんでしょ?」
「さっきもウサギ型催涙弾の追加注文が2400個来てたっ」
「ぼくも納期のすぎた書類が300件ほどあったっけねえ」
 エヘヘ、アハハ、と笑い合う。
 職人は量産係係長だ。ダブル同様、こうしてカフェへ抜け出してくるのは円滑に仕事を進める上での重要な息抜きだ。息抜きもせずに一週間単位で徹夜仕事はできない。ウチは人使いが荒すぎるんだよ。むちゃくちゃな仕事量を押し付けてくるからな。ぼくたちだって疲れるっていうの。ダブルは足をぶらぶらと揺らす。
 そのときだ。
 木製テーブルの下からモジャモジャ頭の営業部員が顔を出した。
「ダブルさん、発見です」
 嫌そうにモジャモジャ頭の営業部員が背後へ声をかける。モジャモジャ頭の営業部員の声を聞きつけて、がっしりとした体格の白シャツ姿の30代半ばらしき男が走ってきた。
「……本当に社員カフェにいやがった」
 ええと? とダブルはモジャモジャ頭の営業部員の顔を見る。
「リペア部員の『タフ』さんです。今日付けで、技術開発部の総務係へ出向です。総務係長さんです」
「係長! なにをやったの!」
「決め付けるな!」
「アタシ知ってるっ。研修係をやったときに、新人さんに『装置更新の確認』を教えなかったことが、3年越しでバレたんだよねっ」
「どうしてそれを!」
「そりゃ技術開発部へ出向させられるわ。5年レベルか10年レベルだね。自業自得だな」
 うるさいわ! とタフは怒鳴り、そんなことより、とダブルの両肩をつかんだ。
「急いでラボへ戻ってくれ。お前の部下がオレの検体が届いていないといいやがるんだ。そんなわけがない。オレと一緒に月面本社に着いたんだから」
「そりゃ災難だったね」
 ダブルはマシュマロ入りココアをすすった。職人もみたらし団子の続きを食べ出す。アツアツのほうじ茶をすすりつつ、職人は「おいしいよっ。ダブルくんにも一本あげるっ」と差し出し、どれどれ、とダブルもみたらし団子を頬張る。
 ダブルさーん、とモジャモジャ頭の営業部員がタフに助け舟を出す。
「なんどもいいますが。技術開発部とその他一般の部署を遮断するセキュリティを解除するのは止めてください。カフェなら技術開発部にも設けたじゃないですか。ダブルさんからの要請があったから設けたんですよー。お忘れですかー」
「モジャ毛くんのセキュリティ設定はぼくへの挑戦だと受け止めているからね」
「あのですねぇ。あのセキュリティは他部署への安全確保だけじゃありませんよ。これもなんどもいっていますよねー。ダブルさんたちが行ったいろんな怪しい実験の影響を外部に漏らさないためだけではないんですよー。機密管理も兼ねているんです」
「他人がやすやすと真似できるような装置なんて作っていないから心配はないよ」
「ではタフさんが送ったという検体の受理確認をしてくださいねー。それが済まないとタフさんも総務の仕事に入れないとおっしゃるんで」
「なんでさ」
「やばいブツなんだ! だから持って帰って来たんだ! 一刻も早く分析をやってもらいたいんだ! 早く検体の確認をしてくれ!」
 あのねえ、とダブルはとけたマシュマロの泡を口につけたまま呆れた声を出す。
「ウチには危ないブツしか来ないんだよ。危ないブツしか受け付けていないの。自分の検体だけが特別だなんて思ってもらいたくないなぁ。オレたちはいつもそんな危ない橋を渡っているんだ。リペア部ばかりが特別だと思っているんじゃないだろうな」
「……本当に二重人格なんだな」
「タフの検体はちゃんと確認しておくから。総務のお仕事がんばってよ」
 ダブルは追い払うようにタフへひらひらと手を振った。
 その瞬間、タフの中でなにかが切れたようだった。
「その確認が取れないからこうしてアンタを連れ戻しに来たんだろうがよ!」
 タフはマシュマロ入りココアを飲んでいるダブルを小脇に抱えた。ついでとばかりにみたらし団子を食べていた職人まで空いた腕で抱きかかえる。
 そしてそのままタフは、うおおおお、と声をあげて技術開発部へ向かって駆け出した。あまりの強引さに、ダブルと職人はなされるがままだ。手を振るモジャモジャ頭の営業部員の姿がみるみる小さくなっていった。
 技術開発部と社員カフェに通じる五重セキュリティもタフは難なくクリアしていく。もちろんリペア部員のタフに独力で解除できる技術力があるわけがない。モジャモジャ頭の営業部員からタフ専用の解除装置を渡されたのだろう。さすが技術開発部総務係係長の肩書きを持つだけのことはある。
 でもさ。なんか悔しいよね。いまや同じ技術開発部員だというのにこの格差。とはいえ、これはタフのバイオリズムを利用した解除装置でオレには使えないぞ。なにかの応用に使えるかもしれないよ。せっかくだからコピーだけはしておこう。
 ダブルがそんな悪巧みをしている間にタフはアンノウン係に到着する。
「さあ調べろ。さっさと調べろ」
「強引だねえ。せっかちさんは早死にするんだよ。ええと? タフからの検体? おう、本当だね。届いていないや。エヘ」
「『エヘ』じゃない。送ったのは確かなんだ。ちゃんと調べろ」
「んも。わがままなんだから。ちなみにどんなふうに危ないブツなのさ」
「世界各国で一斉に自然発生したらしき黒色直方体物質だ」
 ぴくり、と身を動かしたのは、ダブルではなく職人だった。

(2 へ続く)
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