abstract

近未来ラブコメ・サスペンス。
正義を胸に生きる大学生男子・海は卒論調査先で出会った時子に恋をした。ただし時子は人妻で、倫理概念と葛藤する海に、ドライ・メタン事件、弟のイジメ問題、さらには教授との確執が襲う。海のリーゾンデートル(存在意義)はどうなる!? 「兄さんはいつもやりすぎだよ。でも、ありがとう」

about

【RWMシリーズ関連性】
シリーズ中盤の脇役ながらも常に、各作品の主人公たちを支える青年・海が主人公の作品。本作品を皮切りにしたRWMとの関連をまとめたものが『みずいろの花びら』となる。商用デビュー2作品目。
(『ドライメタン事件②』)
【原稿用紙換算枚数】129枚
【読了目安時間】1時間
2013/08/22 配信開始

試し読み


◇◆試し読み◆◇

 でも、と女は続ける。
「『こんな山の中で』ひとりで調査をするのは感心しない。熊だってうじゃうじゃいるし。それに」
 そこに崖から男が飛び降りて来た。東側の五十メートルはありそうな絶壁だ。 「お待たせしました、時子さん」
「こういうのも出て来る」
 女は男を指さした。
 男はクリーム色のスーツを着てピンクの蝶ネクタイを締めていた。手には棒キャンディーを持っている。二十代後半だろうか。崖から飛び降りたというのに男は息ひとつ乱していない。それどころか、おやおやおや、と両手をひらひらと動かした。
「こんなところに民間人がいるとは。穏やかではありませんね」
「マッド。あなた、わかっていてここを指定したわね」
「心外です。時間がないとおっしゃったのは時子さんですよ。わたしは最短で最適な場所を指定したまでで」
「八回も指定場所を変えたあげく百八十七秒も遅刻をしておいて『最短で最適』」 「いろいろ邪魔が入りました。『最短で最適で安全』な場所です。まったく。警戒心というのはとめどがありませんね。一度不安になると『この程度の防御では不完全かもしれない。もっと頑丈にしておこう』、そう思うわけです」
「それは自分に対して言っているのかしら。『奴ら』に対して言っているのかしら」
「両方です」
「あなたの演説はもう結構。わたしはわたしの仕事をするだけだわ」
「さすが時子さんです。話が早い」
 二人の意味不明なやり取りを耳にしながら海は女に釘付けになる。
 女も男同様、二十代後半だろうか。ストライプの入ったグレーのスーツから覗く白いシャツがまぶしかった。センターパートのショートヘアーが風に揺れている。歯切れのいい口調が気持ちいい。
 なにより海の目をひきつけたのはその所作だ。
 男が棒キャンディーの柄をくるくる回して茶化すような仕草に対し、一貫して突っぱねるその動きの一つひとつが絵になった。日本舞踊の型を見ているようだ。それでいて不自然さはどこにもない。上質なたたずまい、それを身に備えていた。
「それで」と時子と呼ばれた女が海を指さした。
「彼は何? あなたの言う防御なわけ? 民間人が?」
「ただの通りすがりの学生です。ただし地質学専攻。堆積学のプロです」
「なぜ知っている」ようやく海は声を出す。
「わたしは情報調査部員ですよ? これくらいのことがわからなくてどうしましょうか」
「情報、なんだって?」
「これは申し遅れました。わたくし、こういう者でして」とマッドが海に名刺を渡そうとするのを時子が遮る。
「悪趣味だわ。こんないかにも勤勉そうな学生を利用しようだなんて」
「さすがお目が高い。彼は晴れて卒業ののちは警察官になるんですよ。ばりばりと実績を上げれば警部補への道も遠くないでしょう」
「だからどうしてそれを知っている」
「ですからわたしが情報調査部員で」
 ああもう、と時子がマッドと海の間に身体ごと割って入った。
「どうして邪魔をするんです? 彼はわたしたちの探し物を手伝うには最適な人材ですよ?」
「私は運ぶだけよ。それが仕事で、それ以上は何もしない。今もこれからも」
「つれないことを。長い付き合いだというのに」
 何が何だかさっぱりわからない。揉み合いながら海の視線がふと時子の左手薬指に止まった。銀色のリングがあった。弾みでマッドと呼ばれた男の左手薬指を見る。これまた同様な銀色のリングだ。
「そういうことか」
 知らずつぶやいていた。つぶやいて胸に手をやる。どうしておれはこんなに落胆しているんだ? たかだか十分やそこら出会った正体不明の女に対して、どうだというんだ?
「とにかく、調査をしていたらしいところ、申し訳ないんだけれど。今日はもう山を降りてくれるかしら。この厄介な男を何とかするから」
 時子が海の目を見つめる。
「そういうことか」
 海は繰り返す。手遅れだったのか。海はおとなしく時子とマッドに背を向けた。
 腰に下げたハンマーがやたらと重く感じた。沢の水が切れるように冷たく思えた。なんてことだ。眉をしかめる。まったく信じられない。
 どうやらおれは恋に落ちたらしい。
 こんなに簡単に。
『われわれの幸福は、死後でなければ判断してはならない』
 愛読書のモンテーニュ著『エセー』の文章が海にささやいた。

(続きは、本編で)

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