連作短編ミステリ。 シュワちゃんが去って現れたのは大学1年からの仲の良い友人・優花ちゃん。なんと彼女は君野総長の研究室へ配属したという。総長といえば岩井クンを拉致監禁しようとした張本人で。え? このタイミングで? 君野総長、なにがしたい!? 困惑する岩井クンをよそにバームクーヘンからクリスマス事件が発生。祥子センセ、今度はなにをしでかした!? 理系男子はキスごときでは動揺しない。そこにすべき研究があるならば! 岩井クン受難の第3巻。
◇◆試し読み◆◇ 翌日、工学部の学食へ入ると窓際に近い横並び席で優花ちゃんが手をふっていた。岩井クンは片手をあげてそれに応じる。 トレーにかき揚げうどんと無料のうすーいお茶を乗せて優花ちゃんの隣へ座る。そしてふっと笑った。優花ちゃんのトレーには海老だし味噌ラーメンがあった。 「それ、この前、秋吉も食べてた」 あ、と優花ちゃんの頬が赤くなる。 「え、海老だしラーメン美味しいから。ほかの子もけっこう食べているし。岩井クンは食べないの?」 「うーん。ぼくは醤油ラーメンのほうが好きかな」 それより、と岩井クンはうすーいお茶の湯飲みを手にとり優花ちゃんの丼へコツンと当てた。小声で続ける。 「研究室、おめでと」 ありがと、と優花ちゃんも小声で答える。 「ちょっと意外だった」 「なにが?」 「君野研っていえばセメントとかコンクリートでしょ。優花ちゃんってコンクリート好きだっけ? むしろ蓄電池が好きかと思ってた」 うーん、とうなり優花ちゃんはラーメンをすする。こういう遠慮がないところが優花ちゃんのいい点である。岩井クンもかき揚げをほぐして口へ入れた。 レンゲでスープを飲んでから「だって」と優花ちゃんは続けた。 「君野研を出たら……北海道で就職するのに断然優位だし」 ……ああ、と岩井クンはうどんを箸でつかむ。札幌生まれ、幼稚園も小学校も中学も高校も札幌。しかも自宅生。そして大学は道民が夢見る北大。さらにはその大学の総長の研究室。これ以上ないエリートコースというやつだ。 おまけに見た目もキュートで常識も気配りもある。このままいけばどこの企業や団体でも就職できるだろう。そして──両親自慢のひとり娘に磨きがかかるわけである。 ああでも、と優花ちゃんはあわててレンゲから手をはなす。 「ちゃんと修士課程は進もうと思ってる。いい加減な気持ちでセメントに向き合わない。安全システムの研究をしたいって教授にも伝えてあるの」 岩井クンも箸をおろす。 「優花ちゃんさ。……無理してない?」 「え」 「就職優先で研究室を決めるのが悪いとは思わない。よくあることくらいぼくにもわかる。けど、それ優花ちゃんの本心? 親戚みんな北海道の人だよね。あれこれいわれてる?」 優花ちゃんは困ったような顔をする。 「あのね。……岩井クンは特別なんだよ」 「ん?」 「『なにがなんでも蓄電池の研究がやりたい』」 「うん?」 「……そんなふうに思って大学にいる学生が何人いるかな。秋吉クンもそうだと思う。ゲルを絶対にやりたいとか、そんなこと思ってないわ。なんとなく面白そうだからやってみる。そういう人ばっかりなんだから」 そうだけど、と岩井クンは口ごもる。 「セメントも勉強してみれば案外おもしろいかも。そう思って決めたの。競争率だって高かったんだから。がんばったんだから」 そうだろうけど、と岩井クンはさらにくぐもった返事をする。 どうしようか。 いうべきか。いわざるべきか。 数秒まよって岩井クンは優花ちゃんへ顔を向けた。 「優花ちゃんさ。……総長になにか無理をいわれてない?」 「……無理?」 「たとえば──ぼくとか祥子センセに関すること」 優花ちゃんは箸を手にとりチャーシューをつかむ。はむはむと口へ入れ「別に」と答える。 泣きたくなる。 ウソがヘタすぎる。 そもそも優花ちゃんはすっごく素直な子なんだから。 めちゃくちゃいい子なんだから。 そんな子を利用するなんて──。 あのね、といいかけると優花ちゃんが「あ、そうだ」とわざとらしい声を出した。 「『総長と語ろう会』に塩野センセに出席して欲しいってことはいっていたわ」 「『総長と語ろう会』? なにそれ」 「若手研究者と総長がひとつの講義室で対話する会なんですって。北大の総長がするのは初めての取り組みで君野先生、とってもはりきっているの」 へえ……なかなかいろいろ意欲的な人なんだな。岩井クンは胸の中で冷ややかにつぶやく。 「……昨日はすっぽかされたから今回はぜひって。塩野センセに伝えてくれる?」 昨日? ……おとついじゃなくて? 岩井クンは眉をゆがめる。 祥子センセ、今度はなにをやらかした? ヒヤリとした気持ちが身体中へ広がろうとしたときだった。 視界の片隅に秋吉がうつった。 お、とあごをあげ、「秋吉」と声をかける。 けれど秋吉は背中を向けるとすたすたと壁際の席へ向かっていく。 「え? なんで? おおい。秋吉ってば」 腰を浮かして岩井クンは気づいた。 いつしか周囲の学生はいなくなっていた。岩井クンは優花ちゃんと隣り合って座っている。向い合ってではなく、『隣り合って』である。そして会話内容は他人に聞かれたくないものだったので、ひそひそとより添うように話していた。 それは──はた目からすると、大変親密な男女関係に見えるわけで……。 あの馬鹿。 早とちりしやがって。 岩井クンは胸で毒つき「秋吉ってば」と席を動こうとした。そこを誰かに肩をつかまれた。そのまま岩井クンを席へ押し戻し隣の席へどっかりと座る。 「(ハーイ、ボーイ。なんだ。ガールフレンドがいたのね)」 岩井クンは目を見張る。 「(レイチェルさんっ。どうしてここへ? ヘルシンキへ戻ったんじゃ?)」 「(それがねえ。戻れなかったのよ。わたしだけ途中で引き返して来たの。ウチの馬鹿ボスのせいで)」 大げさに肩をすくめたメリハリボディの三十代前半外国人女性、彼女は祥子センセの共同研究者であるシュワちゃんのSP兼エージェントのレイチェルであった。 ちなみにカッコ内は英会話である。 (続きは、本編で)