短編ミステリー。 触れた相手の不幸な記憶を吸い取る──留依のその力をまさか迷惑がる人間がいるとは。吸い取られた記憶を取り戻そうと懸命な青年・柊に留依は次第に心傾くも、柊の気持ちはその『不幸な記憶』の中の人たちにだけ。「わたしは彼が自死しないよう見張っているんですよ」夜な夜な留依のもとに現れる男はそう笑う。柊さんが記憶を取り戻したとき、あたしはどうしたらいいんだろう。
【RWMシリーズ関連性】『ペンギン事変』のベースとなる作品。RWMへ入社前のヒイラギが、マッドの監視下にあるときの物語。天川作品のかなり初期作品。 「weblio辞典」の『ひいらぎかざろう』で『ひいらぎかざろうに関連する本』として掲載。 【原稿用紙換算枚数】120枚 【読了目安時間】1時間 2013/10/29 配信開始
◇◆試し読み◆◇ 「あ」 雪で濡れた靴は階段のステップをたやすく踏み外した。うきゃあ、と留依は素っ頓狂な声を上げて階段を転げ落ちた。 痛みに顔をしかめつつ眼前を見ると青年がいた。留依の悲鳴を聞いて振り返っている。 「うわ。まずい。どいてくださいっ」 ところが青年の動きは速かった。留依の腕をひょいとつかんで留依を助け起こしたのだ。 「触っちゃ駄目っ」「大丈夫ですか」 留依と青年の声が重なり、そして留依ではなく青年がその場に崩れ落ちた。同時に留依の胸に大きな黒い塊の感情が流れ込む。 ああ、と留依は青年を見下ろした。 「だから駄目だって言ったのに」 またやっちゃった。 留依はしゃがみこんで青年の様子をうかがった。血の気はないものの、息はしている。無事そうだ。 幸いほかに人目はない。留依は意識を失った青年に両手を合わせる。 「ごめんなさい」 そして、いつもどおり足早に青年から離れた。意識を戻した青年に問い詰められたら面倒だ。 地下鉄の改札を進みホームに出るとちょうど地下鉄が入って来た。 安堵の息をつきかけて留依は目を見張った。 さっきの青年が血相を変えてホームに入って来る。それも留依めがけて走って来る。 「なんで? どうして起きられたの? あれからまだ十分もたっていないよ? しかもどうして怒っているの?」 ありがたがられるならまだしも。 とにかく地下鉄の開いた扉に留依は飛び込む。青年も閉まる扉に滑り込むのが見えた。 かつてのやり取りが脳裏に浮かんだ。うおお、と留依は頭を振って青年から逃れるように身を縮める。 「ちゃんとお父さんの言いつけどおり、家でおとなしくしておけばよかった」 でも、だけど。留依はクリスマスツリーを思い浮かべた。きらきらと点灯するイルミネーション。プレゼントをかたどった小さい銀色の箱の飾り。そのどれにも目を奪われた。 「モニターからはわかんないもんね」 それに数か月ぶりの外出だ。お父さんも大目に見てくれるだろう。きっと。 大柄なサラリーマンの間に挟まれるように立っていたのがよかったのか、青年は留依を見つけられないようだった。 自宅近くの駅で留依はそっと地下鉄を降りた。人波に紛れて改札を出る。どうやら上手く青年をまいたようだ。 再び讃美歌を鼻歌でうたいながら地下鉄出口の階段をのぼり切ったときだ。 背後から声が聞こえた。 「待て」 青年が階段の下にいた。青年はまだ怒った顔つきをしている。 ひい、と留依は走り出した。青年も留依を追いかけて来る。痴話喧嘩とでも思われたか、道行く人は誰も助けに入らない。 「だ、大丈夫。この先は道が入り組んでいるから」 自分に言い聞かせて留依は雪で足場が悪くなった歩道を走る。脇道ひとつ入れば閑静な住宅街だ。よもやそこまでは追って来ないだろう。 けれども、どれほど脇道に入ろうが迂回をしようが、青年は的確に留依をたどって追って来た。 「だからなんで? どうしてこんな迷路みたいな道をついて来られるの?」涙目になりつつ留依は走る。 気づくと自宅は目の前だ。自宅は私道の行き止まりにある。逃げ場はもうない。 「ど、ど、どうしよう。家に入ったほうがいいかな。でもそうするとお母さんがびっくしりてまた倒れちゃうだろうし」 あわわ、と留依は両手を震わせた。 青年は肩で大きく息をして留依の目の前までやって来た。息をするのも辛そうだ。 「……せ」 「はい?」 「返せ」 「な、何をでしょうか」一応とぼけてみる。 「おれから奪ったものを返せ」 留依は耳を疑った。 返して欲しい? 本気か? あらためて街灯の元で見ると青年は黒いコートの下に黒いスーツに黒いネクタイをしていた。葬式帰り? そう思っていたところで、いきなり青年が倒れた。ひょえ、と思わず留依は飛び退いた。そのまま青年は動かない。顔の辺りで白い息が見えたのでただ気絶しただけのようだ。 「当然だよねえ」 むしろそんな身体でよく自分を追って来たものだ、どんな精神力の持ち主だ、と感心をする。 「あたしに『記憶』を吸い取られたら、普通の人なら数日は起き上がれないのに」 留依には生まれつき奇異な力があった。 触れた人の『不幸な記憶を吸い取る』力だ。 「感心している場合か」 玄関先でお父さんが立っていた。留依は慌てて青年から離れる。 「留依は布団を用意して。お父さんが彼を担ぐから」 「家にあげるの?」 「この雪だ。凍死させるつもりか?」 あう、と留依は空を見上げた。雪は勢いを増していた。明日までの積雪は十センチ以上になるだろう。 それから、とお父さんは続ける。 「出かけるなら行先くらい書いていきなさい。心配するだろう」 「……ごめんなさい」留依は背後からお父さんに抱き付く。 留依の力の影響を受けない存在は世の中に二人だけ。 お父さんとお母さんだ。理由は、不明だ。 (続きは、本編で)