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◇◆試し読み◆◇
で、と碓氷はフォックスに人差し指を向けた。
「その根拠データと対策データ、もっと詳細なものがあ
るんだろう? グローバルGへ送り付けてやる。くれ」
「もう碓氷のメインマシンへ送った。すぐに添付ファイ
ルとして使えるかたちだよ」
「いつになく速いな」
「仕事熱心だからね」
「根に持つな。ちょっと苛めただけだ」
じゃあな、とワゴン台を持って居室を出て行こうとす
る碓氷の手をフォックスは掴んだ。
せっかく居室に二人っきりになったのだ。
このまま帰すなど惜しいに決まっている。
フォックスは碓氷を強引に抱き寄せた。すかさず碓氷
の唇へ唇を重ねる。ほんのりとオリーブの香りがする唇
だ。そしてかすかに空いていた歯と歯の隙間からするり
と舌を入れて碓氷の舌を求めた。
胸の中で碓氷が抗う。瞼も閉じることなくフォックス
を睨みつけていた。それでも構わずフォックスは碓氷の
舌の縁を撫でた。鬼の形相になった碓氷が勢いよく歯を
噛み締めた。あわや舌を噛み切られそうになって慌てて
フォックスは舌を抜いた。それでも唇は離さない。ふる
ふると柔らかい唇。吸い付くようで気持ちがよくて、触
れれば触れるほどずっと触れていたくなる。
夢中で碓氷の唇を味わっていると足の甲に激痛が走っ
た。碓氷がヒール靴でフォックスの革靴を突き刺してい
た。本気で血がにじむ感覚がある。さすがのフォックス
も碓氷から唇を離す。碓氷は力強くフォックスを突き放
した。
「お前なー。時間がないと言っているだろうがっ」
「時間に余裕があるときなんて、この十七年なかったっ
てば」
「お前はなんだってそんなに元気なんだ。忙しいのはわ
たしの比じゃないだろう?」
「碓氷がニンニクがたっぷり利いたスープを飲ませてく
れたからね。元気いっぱいなんだよ」
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「あれは栄養値の問題でこんなことをするためのスープ
じゃない。そもそもお前、何日寝ていない? こんなこ
とをする暇があったら少しでも睡眠を取れ」
「自分が人間でいるのが嫌になるときは、寝なくちゃい
けないって思うときだよね」
「しょうがないだろうが。人間なんだから」
「自分が人間でいるのが嬉しいときは」
フォックスはあらためて碓氷を抱き締めた。
「こうして碓氷の温もりを感じていられるときだな」
ちょっと待て、と言う碓氷の唇を唇で塞いで、今度こ
そフォックスは碓氷をソファーに押し倒した。フォック
スがちょっとした仮眠を取るときに愛用しているソファ
ーだ。
このソファーの利点は試作アイテムの脇にあるという
ことだ。山と積まれた試作アイテム。それが壁となって
ソファーを目隠ししてくれる。加えてすばらしくクッシ
ョン性が優れている。肌触りも滑らかで生地に触れた者
はたちまち気持ちがくつろぐ。
押し倒された碓氷もそうだった。最初こそ足をばたつ
かせて抵抗していたものの長い髪がソファ―に触れた途
端、とろんと目を潤ませた。激務で疲労がたまっている
のは碓氷も同様だ。このソファ―の威力は絶大なのだ。
唇を執拗に貪りつつフォックスは碓氷の膝を人差し指
で撫でる。次第に碓氷の息が熱くなる。その碓氷の首筋
に唇を這わせつつ碓氷のシャツブラウスのボタンを外し
ていく。そのまま碓氷の豊かな胸元へ顔をうずめ、膝に
触れていた指先をスカートの中へと伸ばした。碓氷の息
がさらに熱くなる。フォックスはするりとスカートの奥
のその奥へと指先を進めようとして、動きを止めた。
違和感があった。
しいて言えば──いつもと、匂いが、違う。
碓氷が放つ匂いが違った。
がばりとフォックスは身体を起こす。
とろんとした眼差しで碓氷が「どうした?」と声を出
した。フォックスは半分外したベルトをそのままに真顔
で碓氷の両肩を掴んだ。
「碓氷、ちゃんと食事はとっているよね」
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「は? さっきお前と一緒に食べただろうが」
「頭痛は? 吐き気は?」
フォックスは屈んで碓氷の顔を撫でまわした。どこだ?
何がおかしい? どこに異常がある? 険しい顔つき
でフォックスは碓氷の肌の状態を確認する。弾力に異常
はなさそうだ。耳にも問題はないようだ。
でも確実にいつもと違う。
具体的には十二時間前に触れた碓氷と今の碓氷が違う。
なら?
フォックスは固い声を出す。
「碓氷、この十二時間で、頭を打ったとかそういうこと
があったかい?」
「お前はさっきから何を言っているんだ。ない。それに、
お前はいつもわたしを盗撮しているんだろう? だった
らなおのこと頭など打っていないことはわかるはずだぞ」
ああそうか、とフォックスは顎を引く。確かに碓氷の
指摘どおり、アマゾン川の対応アイテムを作成しつつ眼
鏡のモニターの端にいつも碓氷の姿を投影していた。碓
氷はそれはそれは機敏に動き回っていたものの、頭どこ
ろか肩や指先すら壁にぶつけるような行為はしなかった。
フォックスがこっそりと投与した機動力向上アンプルの
成果だ。
それでも納得がいかず、フォックスは左手で碓氷の頬
を包みつつ、右手で碓氷の瞼を開いた。眼球の状態を調
べようとしたのだ。
お前なあ、と碓氷が呆れた声を出し、手でフォックス
の指を柔らかく払った。
「何を心配しているのかは知らないがな──」
言いながら碓氷がフォックスの顔を両手で包んだ。唇
を重ねられた。ふんわりと柔らかい唇。ついさっきまで
は離したくないほどの感触だった。それが──。フォッ
クスは知らず知らずのうちに眉を歪めた。
碓氷が唇を離して、ふむ、と小さくうなり、それから
フォックスの短い髪をゆさゆさと撫でた。
「心配するな。問題ない。それに、今はこれで我慢しろ」
じゃあな、と碓氷が立ち上がる。乱れた服と髪をなお
しながらフォックスの居室を出て行った。
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フォックスは碓氷を引き留めることなく革張りチェア
へどさりと座る。作業台の脇にあった苺のマカロンをお
もむろに口へ入れた。生地だけでなくクリームにも苺を
たっぷり使ったガナッシュが挟んであるマカロンだ。
ガナッシュに入っていた苺の果肉が口の中でプチプチ
と弾ける。生地の苺のフレーバーが口いっぱいに広がっ
ていく。無言でそれを味わいつつ、フォックスの眉間の
しわは深くなっていった。頭の中は碓氷のことでいっぱ
いだ。
匂いだけではなかった。さっきの碓氷からのキス。あ
の味すら変っていた。
急に変化が起きるわけがない。
前兆はなかったのか? あったとしたらいつ? この
ぼくがそれを見落とした?
馬鹿な。
叫びたくなる。
いったい碓氷に何が起きている?